37. 神の手と、人の手と
キャンセル権についてラウーと話し合ったことがある。
トカと桐花が互いの世界をトレードするスイッチとなったのは、トカの絶望だった。民族の人柱にされこの世界にいられない、いたくないという強い願いがきっかけだった。
もう一度トレードが発生して元の世界へ戻ったのは、桐花が帰りたいと願ったから。
トレードが起きる瞬間に聞こえた、少年とも少女ともつかない不真面目な声が言っていた。桐花が望んだからキャンセルになったのだと。
ここからラウーは『トレードされた側がキャンセル権を持っている』と推定した。正しければトカが起こしたトレードは、相手である桐花が願えば即時に解消される。
だからラウーは仕向けたのだ。束縛を断ち切って、脅して、桐花がキャンセル権を発動するように。血清が存在する世界へ桐花が帰るように。
命が助かるように。
ラウーにとっては桐花がラウーの世界で死のうと、桐花の世界で生き延びようと、助手を失うことに変わりはない。だからあのまま桐花を留めておいても構わなかった。血清がなくても生き延びることに望みを繋いでもよかった。
『おまえの体が壊れても痛手ではない』
有言実行の男がそう宣告し続けてきたんだから、桐花が蛇毒の後遺症を背負おうが痛手ではなかったはずだった。
不意に額を触れられて、びくりとした。
「起こしちゃった? ごめんね、寝汗を拭こうとしたんだけど」
母が覗き込んでいた。
合成樹脂の白い天井。金属レールに吊りめぐらされた生成色のカーテン。点滴台。ナースコール用のボタン。ほっとして、でも困ったように笑う母の顔。
元の世界だ、と桐花は少々の落胆と共に思った。
「大丈夫よ。血清が効いてるって。ラウーさんの手当てが良かったのね、感謝しなくちゃ」
ちょっと待って。
こっちの世界でラウーの名を聞くなんて!
「どうして……」
「ふふーん。トカちゃんから聞きだしたもんね。桐花ちゃんが軍の、ものすごぉぉぉく怖い人と無理矢理婚約させられたって」
「わわ、それはその理由があってその……えっ?」
あれっ。トカとわたしが別人って、知ってるの?
トレードの話を聞いて、信じてくれてるの? 二重人格になったとか、妄言を話しだしたとか思わないの?
「あのね。さっきもね、汗を拭いたらね。桐花ちゃん、寝ぼけながら『ありがとう、ラウー』って言ったの」
これこそ母という存在のなせる業だと思う。頑張ったのね、分かってるわよ、大丈夫よ、って優しい目尻ひとつで包んでくれる。
常識をすっ飛ばして、ありのままを受け入れてもらえたんだ。
取り繕おうとした言い訳も不安も氷解してしまう。
「トカちゃんは泣いて怖がってたけど、ラウーさんって優しい人なのねえ。桐花ちゃんを大事にしてくれたんだな、桐花ちゃんにとって安心できる人なんだなあって。それだけで分かっちゃった」
うーん。
数々の無体な仕打ちが尽きることなく脳裏をめぐって、素直にうなずけない。
しかもすっごく恥ずかしいんですけど。
うにゃうにゃと言葉を濁していると、母は携帯電話を取り出した。見せられたのは一枚の写真。
無様にワンピースを引き裂かれた胸元に血が散っている。そうだった、と桐花はラウーの奇妙な儀式を思い出す。写真はまるで刺殺死体みたいで我ながら気持ち悪い。
「拡大して読んでみてね」
読む?
「何を……」
問いながら拡大を操作して、返事を待たずに何を読むのか知った。
白魔の魔方陣でも血の儀式でもなかった。血文字だった。
蛇の種類。受傷した時刻。施した手当て。血清の要請。軍医として引き継ぐべき事項が、ラウーの血というインクを使って几帳面な字で肌に書き込まれていた。蛇に至っては現物つき。
ラウーはカルテを作ったんだ。必ず誰かの目に留まる場所に、必ず目に留まる方法で。弓の使い手として命にも等しい指先を傷つけてまで。
そして最後に、ラウーが桐花を元の世界に送り返した理由が記されていた。
『私の妻を救え。私は振り向かない。ラウー・スマラグダス』
いつだったっけ。
そうだ、ネイティヴの国粋主義者に誘拐された時だった。ダルジ少将に説教たれてた。
『ぜひお心おきを。運命とは我々の将来を預けるに値しない不確実性です』
毒蛇に咬まれて死ぬかもしれない運命を、ラウー・スマラグダス空軍大佐は容認しなかった。
『運を天に放任すれば可能性、知恵を尽くして制御すれば確実性。実現率を変えられるならば、人の知恵は運命という絶望を凌駕し支配できる』
生存の可能性を確実性に変えるためにしたことなんだ。蛇に突き落とされた冥界から確実に妻を連れ戻すため、振り向かずに背を向けた。
背っていうか刃物だったけど。
ラウーは何も諦めてないんだ。蛇毒からの生還も、助手も、結婚も、最初から。
そうだ、だって刺そうとしながら『行け』って言った。『帰れ』じゃなかった。
どうしよう。あんな人、世界がいくつあったって、他にいるわけないよ。
「ごめんね、お母さん」
涙も鼻水も全開。この際いっそ心も全開しちゃうんだ。
「わたしね、うくっ、治ったら……ひっく」
しゃっくり止まれー、しゃべれないじゃないかー!
「そうね」
母はティッシュの箱を差し出しながら苦笑している。
「さびしいけど、娘なんていつかはお嫁に行っちゃうものよね。地球の裏側に駆け落ちしたとでも思うことにしようかな」
わーん! 実はすでに結婚させられてるってバレたー!
「介護してもらえないのねぇ、何のために女の子を産んだんだか。でも孫はハーフね。いいわぁ自慢できるわぁ」
もしもし、お母さん?
「どうにかして孫だけでも会いに行けないかな」
孫だけか! 娘はいいのか!
「そうそう、あっちには蓮花ちゃんが生きてるんだってね?」
母と娘の今生のお別れシーンかもしれないのに、あっという間に話題転換ですかー!
頭がふらふらしてきて枕に沈んだ。
「うん、大工さんしてる。可愛くて姉思いの子でね、力が強くて丈夫そう。帝国総統の一人息子に気に入られてるのに、今は仕事一筋って相手にしてない」
「まーわたしの娘たちったらモテるのね。感謝しなさいよ」
抗う気力も起きず、はあ、と曖昧に答えておいた。
「ね、桐花ちゃん。どうして世界がいっぱいあって、たまに入れ替わったりするんだと思う?」
急に真面目なことを言われた。
「幸せになるためじゃないかなーって思うの」
考える前に言葉を継がれた。
「神様がルーレットに玉を投げ込むみたいに、魂を世界に放り込むの。たくさんの世界が載ったルーレットの円盤で魂はくるくる回って、幸せを探すの。蓮花ちゃんはこの世界じゃ幸せになる機会を与えられなかったけど、別の世界で幸せになるの」
「えっとー……魂は一人につきひとつじゃなくて、いっぱいあるってこと?」
「さあ? わかんない」
母の理論は穴だらけです。
知ってはいたけど、理論武装で波状攻撃してくる某大佐と過ごした後では、差が激しすぎて。
「だけどね、そうとでも思わなきゃ桐花ちゃんを手放せないでしょ? トカちゃんはトカちゃん。娘がもう一人出来たのは嬉しいけど、桐花ちゃんは桐花ちゃんだもの」
うわーん、お母さーん!
「トカちゃんって偏食なのよねー。あれこれ神経質すぎ。トカちゃんに隠れてお肉を食べる生活も終わりにしたいわっ」
母と実の娘の絆の確認シーンは、お肉に負けたんですかー!
めそめそと枕を濡らしていたら、看護婦さんが様子を見に来てくれた。
胸の血文字は当然ながら清拭されていて何も残っていない。咬み傷から広がったひどい腫れは、大学病院から緊急輸送されたという血清のおかげで収まりつつあった。けど、皮下出血した赤紫色の肌が我ながら痛々しい。
そういえば。
ラウーが毒を吸い出してくれたとき、発疹……じゃなくて内出血したっけ。
あれって毒のせいで皮下出血が始まってたんだ。ボル・ヤバルでノミ被害にあった時の内出血にすごく似てたから、深く考えそうになっちゃった。まぎらわしいなーもう。
夜遅く、救急外来からあっけなく退院できてしまった。
お医者さんの話によると比較的強い毒が比較的大量に入ったらしいものの、血清の効能は神の手かと思えるほどにめざましかった。
ううん、神の手なんかじゃない。ラウーが番人を名乗る、人類の叡智の結晶。
知識と知恵を風化させず、発展の礎にして、大事な人を守るための手段にできるなら。
わたしはその場所として、ラウーの隣を選びたい。