33. 病の名は
キスチョコ形の屋根の向こうに大きな月が浮かんでいる。暗いシルエットになったボル・ヤバルの宮殿はキノコの城みたいで幻想的だ。
大きな窓を通してぼんやりと異国情緒に浸っていた桐花は、カツカツと聞き覚えのある尊大な足音にビクリとした。家庭用医学事典、和英辞典、紙とインクが広げられた大きな木机と、豪華な布張りの椅子のあいだでシャキンと背筋を伸ばす。
戸口に現れたのはやっぱり、長身の隅々まで常にシャキンとしたラウー・スマラグダス。特に目の周辺は常に殺人的にシャキンとしすぎている、と桐花は思う。
「起きてる」
「では最後の文章がヴィルゴット並みのミミズ筆跡で途切れている理由は何だ」
ラウーの言葉は、無駄な抵抗はやめろと脳内変換されて聞こえた。
でもポリオの説明、感染経路、治療法についてはできるだけ丁寧に正確に訳し終えたつもりだ。最後の一文を除けば。
その丁寧に正確に訳したつもりの紙を一瞥するとラウーはペンを手に取り、ザカザカと添削を入れ始めた。aとtheの使い方まで直されている、あっそこのスペルミスはついうっかり!
原文が残らないほど添削された翻訳文に打ちのめされて、桐花は椅子に身体を沈めた。
デカいボル・ヤバル人が使っていたのだろう、椅子といっても桐花にはスペースの余りある一人掛けソファだ。普通に座ると座高の問題で、机は胸の高さになってしまう。尻の下にクッションを重ねて翻訳していたため、座面を正しく使うのは数時間ぶりだ。
ラウーは添削した医療情報を背後に控えていた兵士へ渡し、至急に写しを十部作れと命じた。兵士が下がりながらおやすみなさいませと言って初めて、桐花はラウーが鎧を脱いでいるのに気付いた。
野戦病院の隔離病棟である宮殿の離れ、その一番高い塔の一番見晴らしの良い部屋がラウーに割り当てられていた。そこを借りて翻訳作業していたのだ。
つまりラウーは自室に寝に戻ってきたことになる。
部屋に椅子はひとつしかない。
桐花は唯一の椅子から滑り降り、部屋の主であるラウーにそこを譲った。ラウーがどかりと座るとスペースは余らないし机もちょうどいい高さで、深く腰かけても床に足が届かないなんてことはない。
腹の立つソファめー腹の立つ体格差めー。
「お疲れ様でした。それでえっと、わたしはどこで寝れば?」
腹の立つ長い指が、黙って腹の立つ長い脚の間を差した。
「は?」
「傷病者用の寝台に使える家具は全て移動した」
つっこみたいのは寝るのが椅子なのか、というところだけじゃないのですが。
「我慢しろ」
ランプの火を消されてしまった。室内は開放された大きな窓から入る、青白い月光の影に沈む。亜熱帯の温かい夜風がするりと腿を撫でていった。
「予防接種の効果を立証したいんだろう?」
ラウーも二日前にポリオらしき微熱と背中の痛みがあったが、麻痺は起こさず治ってしまったらしい。それでも立派な保菌者だ。
水疱瘡の跡がないことで証明しろと迫られたが、断固拒否してあった。そうなるとやはり密着しても感染しないことで証拠とするしかない。
暗くて足元がおぼつかない。慎重に足を進めて椅子の前に立った。ラウーの脚の間にどう座るか思案しているあいだに、肘をつかんで引かれる。
ガシガシと何やら乱暴に方向転換をさせられる。靴は脱がされ放られていった。上体、腰、足とあちこちデカい手で姿勢を修正され、最終的には横抱きされる形に整えられた。ラウーの腕の中で横向きに丸められた感じだ。
ラウーの息が額にかかるほど顔が近い。身体の半分はラウーの体温に包まれている。
亜熱帯で暑苦しい寝方じゃないだろうか、これは。ホラすでに顔が熱いしっ。
つい石棺のひんやりした寝心地を思い返す。
「ボル・ヤバルに石棺はないの?」
「この土地は木材が豊富で、棺は木製だ。……私と寝るなら死んだ方がマシという意思表示か?」
いえいえいえ寝心地の問題ですから!
ハイと答えれば噂の木製棺に詰めて生き埋めにされそうな殺気を感じて、必死に首を横へ振った。
「あれは?」
もぞもぞと姿勢を微調整していると、額に質問が降りかかった。
「窓際の花瓶だ」
「あ、桐の花です。わたしの名前はこれなの。ここの庭の隅に桐の木があって、ちょうど咲いてたから枝ごと折ってきちゃった。アダマスでは見たことなかったから懐かしくて。わたしの家には桐の木があったんだ」
今はもうすたれてしまった習慣だけど。
昔、日本には女の子が生まれると桐の木を植える風習があった。桐は生長が早いから、女の子が嫁ぐ頃になると切ってタンスを作れるほどになる。それをその子の嫁入り道具に持たせる。
父は桐花の誕生と同時に桐を植えてくれたそうだ。
桐の木はぐんぐん育って、桐花の部屋の窓に届いた。初夏になると薄紫の、百合の花がそっと身を寄せ合ったような花を咲かせた。
家紋で桐花紋と言えば天皇や大臣が用いた由緒正しいものなのだが、桐花の名前に興味を示すのは競馬ファンしかいないのが悲しい現実だったりする。
ラウー以外には正しい発音で呼ぶ人さえいないアダマスでは、そんな悲しい現実さえ懐かしい。最近はトカと呼ばれることもなく、婚約者さまとかフィアンセちゃんとか、ラウーのオマケ扱いだ。
異国の開放的なムードの中で開放的に文句を垂れるうちに、意識は睡魔に食べられてしまった。
寝苦しくて目が覚めた。
大きな窓からさんさんと陽光が、ぬるりと亜熱帯の風が入ってきている。暑い。
キスチョコ形の金ピカ屋根が反射する太陽がまぶしい。ああそうだ、ボル・ヤバルに来てるんだった。野戦病院の隔離病棟に。
カンカンとこだます音は何かと窓の下を覗いたら、月桂樹や桐の木があった庭の一角が伐採されて補給物資置場が設営されている。もうみんな起き出してる。
少し寝坊したかもしれない。だって慣れない椅子なんかで寝たから。椅子なんかで……。
「あれ? ラウーは」
影も形もない。とっくに働いてるのかもしれない、アイヤイはラウーが鎧を着たまま仮眠しただけで働く仕事中毒だと言ってた。
慌てて水差しから濡れた布を作って顔を拭く。寝汗をかいた体も拭きたい。
二分後。
桐花は塔の長い階段を駆け下り、兵士に聞き回って、吹き抜けの広いホールをまるまる使った病室でラウーの腕を捕まえた。
「どうしようラウー、わたし、病気にかかったかも」
本当にどうしよう。声が震えてしまう。
診察していたラウーは、脈を取っていた若い兵士の手首をペッと打ち捨てた。デカい手を額に当ててくる。
「熱はないようだが。頭痛や嘔吐は? だるさはあるか」
「ない。けど、発疹が出てるの」
ワンピースの胸元を開いて見せた。首筋に、胸に、柔らかいところを狙ったように発疹が散らばっている。
一瞥したラウーの眉根の深い山脈がさらに深くなった。顔を伏せ、指をこめかみに当ててしばし沈黙する。
「……それは病気ではない」
まず診察中だった若い兵士が倒れていびきをかき始めた。
ポリオにそんな症状あったっけ?
「でもわたし、風疹とはしかの予防接種は受けてるけど、天然痘は受けてない。わたしの世界にはもう存在しない病気なの。天然痘だったらどうしよう。ち、致死率は四割とか、書いてあって、」
「落ち着け、桐花。それは発疹ではない。私が保証する」
何事かと首を伸ばしていた周囲の患者も、衛生兵も急に倒れていびきをかき始めた。
「だってラウーは天然痘を見たことあるの? これが天然痘じゃないって断言できる?」
「できる。何故ならそれは私の責任だからだ」
桐花とラウーを爆心地に、いびきの合唱が同心円状に広がっていく。こんな光景をどこかで見たことがあると思いつつも、悪魔の病気と恐れられた伝染病への恐怖が先行する。
「ラウーの責任? ノミでも飼ってるって言うの?」
「……血を吸うのが目的ではないが、行為は似ているな」
歯切れの悪さは何かを隠してる! 患者には病名を伏せとく配慮とかっ?
「ちゃんと教えて! 怖いよ」
「今ここでは教えられない」
先生からお話がありますからこちらへ、のパターン?
「わーん! 命に関わる病気なんだ、絶対そうだーっ」
「それはただの内出血だ、じきに跡形もなく消える」
「いきなり内出血するってなに? 白血病? わーん」
「おまえは知識と経験の偏りに問題がありすぎる」
ばしん!
両手で両頬を挟まれた。というか、ぶった? ぶったと言うほど痛くなかったけど。
とにかくそのイキナリな保定にビックリして、ぽかんとラウーの顔を見上げた。茶と翡翠の瞳は不機嫌そうだが、死の病に侵された病人を前にした深刻さはない。
半ば呆れたような鼻先だけのため息は、医者の仮面とは感じられなかった。
「騒ぐな。すぐに教えてやる。大したことではない、いずれ当たり前にしてやる」
「当たり前って、この変な発疹が? やだ」
「内出血だ。変ではない。嫌とは言わせない」
なんだろう。なんだかものすごく、これ以上は質疑応答却下の強制オーラがラウーの目から放たれている気がする。
おとなしく黙ろう。とにかく、伝染病にかかったわけではないらしいし。
ノミに刺されるのが当たり前の環境なんて絶対イヤだけど。
いびきをかいている周囲の兵士たちが寝言やうわ言を呟き始めた。
「中佐……ファイトであります……! ムニャ」
「ふごご……その病の名は愛……」
「淫魔のような処女のような……さすが白魔は落とすものが違う……ぐぴー」
「部下のため、高度医療にエンターテイメントまで体を張ってくださる中佐……命預けます……」
恐れられてるだけかと思ってたら、ラウーはなかなか慕われているらしい。
「この機会に告知しておく、横になったままで構わないから聞け」
吹き抜けの広い病室にラウーの声が朗々と響き渡った。
「今朝の辞令で昇格した。併せて私事となるが、」
「わっ?」
いきなり、腿を抱えて高く抱き上げられた。広間が一望できるほど高く。
「紹介する。トーカ・スマラグダス大佐夫人だ」
おおおおお、と歓声が空気と広場を震わせた。累々と昏倒していびきをかいていたはずの患者および衛生兵が飛び起きる。嵐のような拍手が湧く。
何がなんだかわからない。
ラウーが大佐に昇格したのは理解した。だけど抱き上げられて紹介なんかされて、し、しかも夫人って何ソレいつどこで誰が誰のっ?
「気をつけーいッ!」
落雷の勢いで号令が空気を正した。号令をかけたのは衛生班長の腕章をした兵士で、ビシッと踵を鳴らすと患者と衛生兵たちがダン! と一斉に直立不動の体勢をとった。
「あ、だめ、足に麻痺きてるのに立っちゃだめ」
あわあわと真っ白になってたけど、衛生班長の号令があまりに大声だったからハッと我に返った。
ポリオにかかって足が麻痺している壮年の兵士がいる。昨日、家庭用医学事典の図解と睨めっこしながらマッサージしたから覚えていた。
その兵士が隣の兵士に肩を借りて立ち上がろうとしている。
「ラウーは寝たままでいいって言ってるのに」
「中佐のフィアン……失礼いたしました、トーカ・スマラグダスさま、どうかあなたに最上級の礼を」
その名字、待てーっ!
「故郷から遠く離れた戦地で謎の病に侵され、このまま死ぬのか。死ぬ前にもう一度故郷と妻子の顔が見たい、しかし伝染病ではそれも決してかなわぬ望み。そう打ちひしがれていたところにあなたは、病の名と看護法と、さらには予防の希望まで届けに来てくださった」
イヤァァァそんな感謝の目で見ないでー!
「翻訳しただけだから、医者でも何でもないの、医学事典の受け売りだからーっ!」
「だけ、とおっしゃるそのことが、我々にどれほどの希望であることか。礼を捧げるためならば、たとえこの足を失おうとも構いません」
兵士なんだから構えバカー!
「受けろ、桐花」
おろおろしてたら下から声がした。腕に載せるように抱き上げてくれてるラウーが仰ぎ見ている。
見上げてくる茶と翡翠の瞳が誇らしげに、優しげに輝いてる。
ええっ錯覚? 笑ってる? 微笑んでるっ?
恐ろしい! どんな天変地異の予兆? ラウーのそんな表情、見たことない。珍しい上からのアングルだから、いつもの表情がそう見えるだけ?
「ラウー・スマラグダス大佐とトーカ・スマラグダス大佐夫人に、」
大音量で響いた衛生班長の号令に、桐花は慌ててラウー観察を中止し背筋を伸ばした。広間は見渡す限りの総立ちだ。
「敬礼ッ!」
ドン。
拳を胸に当てる敬礼は、何十人もの兵士の合奏で魂まで震わす最上の音楽になった。たった一音なのに深く長く余韻を残す。
「感謝する」
ラウーが敬礼を返していて、桐花も急いでそれに追随した。
「時間を取らせた。各自、任務とベッドに戻れ」
がやがやと笑顔で、患者と衛生兵たちが持ち場に戻っていく。
ラウーの腕で床に下ろされながら、アレ? と思った。
敬礼を受けたということは。しかも返礼したということは。
スマラグダス大佐夫人とかいう寝耳に水な立場を認めちゃったってこと?
「ラウー! わたし結婚した覚えはないんだけど!」
軍医としての仕事中だったのは承知だが、とにかく病室から引きずり出して問い詰めた。
「おまえは婚姻届にサインした」
「してません!」
亜熱帯でいっそう身に染みる氷結視線。ううう寒い。シベリアから出土したマンモスの死に際の気持ちがよくわかる。
さっきの微笑はアングルの罠だったんだ、間違いない。
「ボル・ヤバル出征の朝だ。約束を契約にすると言ったはずだ。不服ならば、説明を遮り、書類の内容を確認せずにサインした自分を告訴するんだな」
確かに二ヶ所にサインした気がする。助手の契約だけかと思ってたら、もう一つは婚姻届だったのか! 一度遮られたからって婚姻届だぞ、挫けず説明しろバカーッ!
「戦場では常に何が起こっても不思議ではない。ボル・ヤバル戦で私が殉職した場合、婚約者という立場ではおまえに補償は下りない。必要な手続きだった」
うわーまたそれ言うんだ。保護。
妻の座が、何でも与えると言ったラウーの最大級の誠意だって知ってはいるけど。
「怒った! しばらく話しかけないでくださいっ」
「おまえの迂闊の結果で私が不便を強いられる道理はない」
言い捨てて逃げ去ろうとした背中に、淡々と事務的な口調が追いかけてきた。
ものすごく正論なのがものすごく腹が立つ。
二、三度ぱくぱくと空気を噛んでから言い返した。
「じゃあしばらく話しかけないからーっ!」
子供のケンカか。




