32. 愛をカネに換える錬金術
ヴィルゴットの咳は人よけに絶大な効果を発揮する。
そのおかげで桐花がこの人嫌いと鷲に同乗する損な役回りに立候補するはめになった。咳は演技としても、操縦中に意識を失いかけるのは演技ではなさそうだったから。
ヴィルゴットは身体の色素が人一倍、薄い。頭髪がない。日光を反射する白い服を着込んでいても、上空の強い日差しの光と熱は、ヴィルゴットには毒に違いなかった。
空は濃いトルコ石のように青い。威容を誇る城砦は背後に林立する岩山と、赤メノウのマーブル模様が鮮やかな木星を従えている。
この岩山ばかりの土地から外へ出るのは初めてだった。ネイティヴの死出の小船で外海へ流されたことはあるが、あれを旅にカウントしたくはない。
ヴィルゴットと桐花にあてがわれたのはキリリと黒い胴に純白の頭を持ったハクトウワシで、鋭く賢そうな瞳で太陽を仰いでいる。この鷲に乗ってラウーのいる鉱山の島、ボル・ヤバルへ行くのだ。
鷲と並んでドキドキと胸にこみあげるものを抑えきれずにいると、補給物資の陰で丸まっている白ローブの猫背の呟きが聞こえてきた。
「人ごみコワイ……ボル・ヤバル暑い……おぇ」
ヴィルゴットは喉にこみあげるものを抑えられなかったようだ。
目的地までの数時間、鷲の鞍という逃げられない場所でヴィルゴットの前に座らねばならない桐花は、自分の背中の純潔を心配した。
ボル・ヤバル目指して青い海を渡っているあいだ、世間話を「財布は膨らみません」で拒否された。会話で意識を保って背中を汚されないよう、桐花は仕事関連の話題で食い下がる。
「千尾の毒蠍って名乗ってたけど、ヴィルゴットさんもスマラグダス八鬼神?」
「呼び名は風天のヴィルゴットでございます。蠍は我が忌まわしき過去」
聖書を朗読するように、静かにヴィルゴットは語った。
敵に劇薬を、民に死の病を、土に根を枯らす毒を。生命の輪廻を確実に、迅速に、無差別に刈り取る死神の鎌を研ぐことに、我が手を穢した時期がございました。
国のため、家族のため……否。我が探究心のため。
事実、我が故国が滅び敵軍に召し抱えられた時さえも、故国に我が毒を撒かれた時さえも、研究が続けられるなら資金提供者が何者であろうと無頓着だったのでございます。
しかし敵国の暑さに辟易いたしました。我が故国は一年の半分を純白の雪に覆われ、研究に不可欠な清冽な湧水に満たされた、我が生存に最適な地であったと知ったのでございます。
その頃には我が毒は故国を染めきっておりました。人々は死に氷の土地に暮らす知恵は絶え、森は枯れて雪崩が山河を壊し、湧水の汚染は生物を滅ぼしたのでございます。
氷と死骸しかない故国に立ち、恥じました。壊すだけ壊して、我が手には草の苗ひとつ植えるすべさえ備わってはおりませんでした。
氷の国にしか適さぬ我が身を我が手で灼熱の地獄へ追放する、それが我が因果応報でございましょう。
故国へ毒を撒いた軍での研究を拒否し幽閉されてまもなく、その軍はアダマス帝国軍に降伏いたしました。
そしてラウー・スマラグダス中佐が我が前に立たれ、こうおっしゃいました。
無害な毒を作れ。
我が耳を疑いました。後遺症の残らぬ軽度の麻痺や戦意喪失、そうした効果で敵兵を殺傷することなく無力化する毒を作れと。そして必ず解毒剤を同時に開発せよと。
大地を汚染する毒は人類の発展を脅かすから、サンプルだけ残して廃棄せよと。
知識は持てる者により毒にも薬にもなり得る両刃の剣。毒の剣で命を斬り捨てたと悔いているなら、毒蠍の尾は私の命令があった時だけ振るえ、そしてその度に私を恨めと。
できましょうか。我が毒蠍の尾を振るわせる度、我が主は何者かを恨んだりなさるでしょうか。
「……風天と呼ばれるのは催涙、催眠、幻覚などの効果を持たせた煙を風に乗せて敵軍へ撒くのが、戦場での主たる我が役割だからでございます。敵軍にそうした攻撃を受けない布陣の進言もいたします」
我が主のおそばにいれば、と穏やかな美声で言った。
「いつか解毒剤を抱き許しを請いに、故国へ戻れると夢見ることができるのでございます。否、夢でなく、その日を手繰り寄せられると信じられるのでございます」
ざんげを語り終えたヴィルゴットは敬虔な信者のように頭を垂れた。
教会のような静けさだった。
鷲の翼が風を切る音だけが、ひゅうと耳を抜けていく。
青い海の波頭で陽光がきらきらと輝いている。
ヴィルゴットはまだ頭を垂れている。
「わー気絶してる! 日射病? 貧血? しっかりしてっ」
ボル・ヤバルの気候は亜熱帯に属しているようだった。
海の色が明るさを増す。水平線に現れた低い山脈には緑が豊かに生い茂る。だが山麓で緑は剥ぎ取ったように消失し、人為的に削られた暗い色の台地が断面を晒していた。土砂の山からトロッコを載せたレールがレンガ造りの無粋な四角い建物へと伸びている。
鉱山獲りとアイヤイが言ったように、ボル・ヤバルにはそうした採掘場がいくつもあるらしかった。
やがてなだらかな丘陵地帯に出る。
地面に木箱を置いたような質素な町並み、それを小高い丘から白亜の宮殿が睥睨している。高さの違う円筒をぎゅっと束ね、それぞれの円筒にキスチョコを載せたような愛らしいシルエットだ。
しかしそのキスチョコ部分はゴテゴテと金で塗りたてられ、周囲の貧困との落差に嫌悪をもよおさせる。
最も高い塔には巨大なアダマス帝国軍旗が翻り、占領を力強く宣言していた。
迎えに出てきた茶色い鷲に先導され、ヴィルゴットは宮殿の離れへと鷲を旋回させる。悪趣味な金ピカキスチョコ屋根の円筒は三本。扇形で芝生の美しい中庭ごと、急ごしらえの柵で二重に囲まれ隔離されている。危険を警告する派手な旗が立てられていた。
旗のなびく様子と周囲の地形を見回して、ヴィルゴットが満足気に頷いている。
「隔離病棟に好適な立地。我が主は我が進言を正確に再現なさる。光栄でございます」
呟きながら鷲を芝生の庭へ着陸させようとして、上空数メートルの高さでいきなり降下を中止した。
どうしたの? と背後のパイロットを振り返るまでもなく、桐花は芝生の上にその理由を見る。
巨大な弓を引き絞ったラウー・スマラグダスがいる。照準は、異色の瞳とほぼ視線が合うから、わからなくもない。
「桐花の帯同を命じた覚えはない。ヴィルゴット、おまえのローブを真紅に染め直したいなら着陸を強行しろ」
「血、コワイ……」
一週間ぶりの再会がコレか。
生きてるかとか元気かとか怪我はないかとか、訊くまでもない。亜熱帯も氷雪気候へ大変動させる極寒の視線が健在すぎて、こっちの命が危うい。
「違うの、ラウー! わたしが連れてってって頼んだの!」
「ここは伝染病の感染地域だ。身体の弱ったおまえなど格好の餌だ。新たな墓を掘る労働力を浪費させるな」
ギャラリーがヴィルゴットしかいないからって! 仮にも婚約者なんだから、おまえにうつったら心配だくらい言えー!
「いくら積んだ?」
さすが雇用主。頼んだくらいで守銭奴ヴィルゴットは動かないと熟知している。
ラウーからもらっている助手の給料を買収に使ったと誤解されたくない。
「お金は払ってない。献体しただけ」
給料は浪費してない。えへんと胸を張ってみせた。
なのに氷の視線で刺殺されそうなのはなぜ! 勢いを増した冷気に鷲が怯え、不安定になったホバリングはむしろロデオだ。
後続の補給部隊が降りるに降りられずに遠巻きに様子を見ている。野戦病院および隔離病棟である宮殿の離れからも衛生兵らしき兵士が何事かと出てきた。
それらの視線を猫背でかいくぐりながら、ヴィルゴットが痩せた指先で桐花のサイン入り献体誓約書をつまみ出した。
「こちらでございます。我が主、買い取りに応じる用意はございます」
「私に桐花の値段をつけろというのか」
ラウーは弓を収め、鎧の下の軍服のポケットから小冊子を取り出した。サインして切り取った一枚を矢に結ぶと、その矢を手で投げて寄越した。
ヴィルゴットが長い腕を伸ばして矢を掴む。
「望む金額を書き込め」
白紙の小切手!
「取引成立でございます」
小切手の代わりに桐花のサイン入り献体誓約書が結ばれた矢が地上へ投げ返された。
こら待てラウー! ギャラリーが増えた途端にそれか! おまえの体は壊れても痛手ではないとか散々宣告しておきながら、婚約者パフォーマンスのためなら守銭奴に白紙の小切手を切るのかー!
腹立つー。腹立つー! ラウーがその気ならわたしだってー!
「もう一つ取引を。ヴィルゴットさん、わたしがその白紙の小切手を買い取ります」
しーんとした沈黙が広がっていた。
驚愕や感心の類ではない。明らかに、何言ってるんだこの娘という痛い沈黙だ。
アダマス帝国軍中佐が切った白紙の小切手を、ただの小娘が買い取れるわけがないだろう。しかもその小娘は中佐の婚約者。小娘に払えない場合、払うのは婚約者である中佐。
結局は中佐自身が自らの切った白紙の小切手を買い取る羽目になるという狂った構図。
呆れと、頭の中身を心配する憐れみの混合視線を振り払うべく、桐花は声を張った。
「この世界に予防接種の技術はないでしょ?」
翻訳でたまたま知った予防接種の歴史、そして結核を恐れる少年兵の様子でそう判断していた。
「伝染病予防のために、人工的に免疫を作っておく方法です。わたしの世界から持ち込んだ予防接種の情報全てをヴィルゴットさんに提供しますから、技術を確立してライセンス契約で軍に売るんです」
そうすればアダマス帝国軍中佐の弁済可能額などはるかにしのぐ巨額の金が、ヴィルゴットの懐へ転がり込むだろう。
「わたしは結核、風疹、はしか、破傷風、水疱瘡、ポリオ、その他の予防接種を受けています」
現代日本の医学に感謝!
「だから結核のヴィルゴットさんとこんなこともできるし!」
鞍の上で身体をひねり、白ローブにぎゅうっと抱きついてみせた。たぶんヴィルゴットさんの咳は人よけの嘘だけど、ここは演技するところ!
「症状からしてここで流行ってるのはポリオみたいだけど、その予防接種も受けてるから、」
ぴょーん。
もう色々と賭け。
ラウー目指して鷲の鞍から飛び降りた。
下は芝生だから無視されて墜落しても骨折程度で済むだろう。だけど今はギャラリーがいる。ギャラリーの面前でラウーが婚約者を受け止めないはずがない!
毒蛇も裸足で逃げ出す劇薬視線を浴びたけど、ラウーは見事に受け止めてくれた。両腕で抱き止めながらダンスみたいにターンして、優雅に衝撃を緩和させている。
よかった、下敷きにしちゃったらスマラグダス中佐の婚約者の非道伝説がまた増えてしまうところだった。
「こんなこともできるし!」
と言いながらラウーの首に腕を回し、ぎゅううっと抱きついてみせた。ついでに耳元に潜めた声で報告してやる。
「身体測定してみてください、弱ってないから」
それからまた声を張り上げる。
「こんなこともできます! ……検温してみてください、治ったから」
「検お……?」
いぶかしげに訊き返そうとした唇を、問答無用で塞いでやった。習った通りのスマラグダス流キスをたっぷり披露してみせる。
ラウーが伝染病にかかっていたら感染確定の長いキス。
離れようとしたラウーの顔を両手で挟んで確保する。高く抱き上げてくれていた腕に力がこもるのがわかった。逆に唇は緩んだから、キスの長さに深さも加えちゃう。
「わたし、アイヤイさんやヴィルゴットさんの気持ちがちょっとわかる気がするの」
予防接種の効果見せますキャンペーンのキスを続けながら、唇を触れさせたまま言った。
「ラウーのいない一週間、わたしはただ食事をして、眠って、仕事をして・・・・・・暮らしていただけ。ラウーがわたしを生かしてくれなきゃ、この世界に生きてる理由がない」
桐花の世界からもたらされた膨大な情報。
使い手によって毒にも薬にもなる知識は、渡すのが知の時代の先導者・ラウーでなければ、翻訳せずに隠したかもしれない。ネイティヴがずっと刺繍として隠してきたように。
そうなればこの世界での桐花は、何の技術も持たないただの小娘だ。すぐにのたれ死ねる。
「でもね、ラウーが戦ってるのに、わたしが安全に生かされて保護されてるだけなのも情けないの。だから自分で考えて行動もする。ここに来たみたいに。ラウーのパートナーになりたい」
言われたことを単純にこなす助手じゃなくて。
もっと本質的にラウーの役に立ちたい。そばで生きて、ラウーの造る知の世界を見せて欲しい。
学校の勉強なんて、いつどうやって何の役に立つか想像もせず、成績を上げるために習ってきた。体育以外なら成績がよければ両親が喜んでくれたから。
そうやって単純に蓄積した知識がラウーに生かされ、この世界を変える力になっている。
きっと、あっちの世界だって同じなんだろう。卒業して、もっと勉強しながら仕事して、世界をよりよくする礎になる。その仕組みが見えていなかっただけ。
両親が喜んでいたのはいい成績じゃなくて、わたしが未来の礎になる力を蓄えてたこと。だったらラウーの役に立つことは、両親もきっと喜んでくれる。何の説明もなくトカと入れ替わって戸惑ってるであろう両親も。
周囲がどよどよと騒いでいるのが聞こえてきた。
「中佐がいなければ生きていけないと……!」
「なんと熱い愛の告白!」
「こんな戦地の、しかも隔離病棟に駆けつけてまでプロポーズをっ」
ちがう! ちがう! 助手の話なんだー!
わああ否定したいのに、ラウーが唇を離してくれない! 誤解を婚約者パフォーマンスに利用する気だなっ。
「我が主の婚約者様。そのご提案、たいそう魅力的でございます。取引いたしましょう」
離せ離さないで無言の攻防を繰り広げていると、すぐ後ろにヴィルゴットの穏やかな美声が聞こえた。どさくさにまぎれて着陸したらしい。
やっと解放してもらえて振り向くと、補給部隊も着陸して救援の医療物資を運び始めていた。
「患者を診断しなければ断定いたしかねますが、この伝染病の症状はポリオと一致いたします。水はけの悪い地質と貧困による衛生環境の悪さゆえに、ボル・ヤバルの風土病とも言える病でございます」
周囲を気にしてか、ヴィルゴットは猫背でゴホゴホ咳をしながらも、潜めた声で流暢に話す。
「予防接種については理解した。だが桐花。おまえが伝染病にかからないという保証は。証拠は」
身体の免疫の中に抗体がありますと言っても、顕微鏡さえなさそうなこの世界でどう証明しろと?
冷や汗も凍る冷徹視線を見ないフリをしながらウーンと首をかしげていると。
「我が主の婚約者様は、水疱瘡の予防接種を受けたとおっしゃいました。あれは水ぶくれにより皮膚に跡を残すことがございます」
限界まで潜めた美声が進言してきた。
「来い」
補給物資の日よけ用か、大型の三角屋根のテントが芝生に張られていた。その一つを引き倒し、ギャラリーとのあいだに布の壁を作ってからラウー・スマラグダスは高らかにのたまった。
「裸になれ」
ぽかーん。
「早く脱げ、おまえの肌を隅から隅まで調べ尽くしてやる」
あっ、そうか。水疱瘡にかかった跡があったら、予防接種を受けていないか、受けても効果がないという証拠になるから?
だからって!
「やだ! 明るいし、芝生がチクチクするし」
「あいにく診察台はふさがっている」
う、場所より大事な問題があった。
「女医さんとかいないのっ?」
「女医と二人がかりでされたいのか」
そうじゃなくて、調べられるなら女医さん一人にお願いしたいとー!
ばたばたと抵抗していると、布の向こうから兵士たちの声が聞こえてきた。
「予防接種とはすばらしい技術だな!」
「ああ、恐れることなく恋人と愛し合えるんだな!」
「どんなにヤっても大丈夫だと、中佐のフィアンセさまが証明してくださるんだな! なんといやらし……いや情熱的献身なんだ!」
「しかし診察台と女医希望の件は予防接種と無関係なご趣味のように思えるが」
兵士たちの声は弾んでいる。
うん。ハグもキスも看病も、予防接種を受ければしてあげられるよ。
看病してもらえるって嬉しいよね。額に冷たい布を載せてくれる、それだけで舞い上がれるくらい。その布が乾いてしまっても手放せずにいるくらい。言いそびれたお礼を伝えたくて海を越えちゃうくらい。
どうかヴィルゴットさんが早く予防接種を開発してくれますように。
この世界にはいるかわからないけど、心の中で八百万の神様に手を合わせた。
じゃないとラウーが破産します。