29. はめられた婚約者
あたし苔を探してくるねー。とアイヤイは自分に刺さった針をはたき落とすと、猛ダッシュでヴィルゴット審問への参加を放棄した。
それまで暇そうに突っ立っていた白ローブは急に身を屈め、ケホケホと肺を痛めたような咳の下から枯れた声を絞り出した。
「持病の癪……」
「癪とは胸部あるいは腹部の疼痛だ。咳ではない」
「……仮面持ちに仮面は通用しないのでしたね」
シャキーン。
アイヤイの下駄が遠ざかるのを見計らったタイミングで、白ローブの猫背がぴんと立った。完璧な発音、耳に心地よい美声、優しげな微笑は神父が天職だろうと思えた。
「我が主の助手兼婚約者様、悪気はございません。会話など面倒この上ないだけなのです。会話で財布は膨らみません」
人嫌いで腹が真っ黒でさえなければ。
「犬が狼藉を働きましてお詫び申し上げます。ラボから新鮮な空気を求めて散歩に出た犬は、婚約者様のおみ足を大変気に入ったようでございます。美しさは罪、と世間は言うそうですね」
謝ってるけど、最終的には噛まれるのが悪いと言ってないか?
「過剰投与につきましては、我が非とおっしゃるのは心外にございます。賞金首生け捕りの五万ポンドが欲しいと恫喝……失礼、愛らしくおねだりになる婚約者様に逆らう術など、持ち合わせておりましょうか」
あの『五万ポンド』はそういう意図じゃないー!
「桐花は冥界の入口で他人の心配をする娘だ。おまえの研究費を五万ポンド減額する」
「計十万ポンドの損害……!」
意識が遠くなったようで、ヴィルゴットの白い上体がふうっと揺らいだ。
「商談を提案致します、我が主」
瀕死の様相でヨロヨロしていたヴィルゴットは、なぜかひざまずいて桐花の足をがっきとつかんだ。
「こちらの針で十万ポンド、いかがでしょう」
痩せた白い指は膝の、膝というより膝に近い腿の内側に打たれた針を指し示している。
「先刻のご指摘は正解にございます。こちらの針は麻酔なし、足の筋肉とは無関係。女性特有の器官の血流を促進し高揚させます。婉曲に申し上げれば『愛されたい』モードに入るということでございます」
待て。
よくわかんないけど、何を勝手に人の身体にやらかしてくれたんですか? なにそのモード?
「婚約者様の毒に感染した足、過剰投与された麻酔。我が主がご覧になれば我が非と断じ、氷の十字架を背負わすかのごとき視線の責め苦をお与えになり、か弱き我が身が服毒自殺を遂げるのは必定にございます」
「おまえに効く毒などない」
にっこりと神父笑顔になったのは肯定らしい。
「我が主には婚約者様の『愛されたい』モードをご堪能いただけたご様子にございます。医者ならば安静にさせるべき患者を胸に抱き添わすなど、どのような愛らしいおねだりを」
「もういい。研究費削減は撤回する。賞金首の五万ポンドはアイヤイと山分けにでもしろ」
神父笑顔が一瞬、ニタリと勝利宣言したのを見た。
「えっ? ちょっと待って、何で納得しちゃうのラウー!」
きっぱりと顔を背けて立ち去られてしまった。苔を探しに行ったようだ。片足では追いつけない速さだし、金属鎧の背からは完全な質疑応答拒否オーラが放たれている。
だめだ、これは教えてもらえそうにない。
針がどうやって『愛されたい』モードとかいうものを引き起こすのか、説明されてもよくわからなかった。でもその怪しげなモードには心当たりがあるような気がしてきた。
ラウーを呼びに行った時。やけに人恋しくて、どうしても誰かにそばにいて欲しくて、妙に情緒不安定だったような。
その誰かにラウーを名指しして、守っていてとか口走ってしまったような。
まさかあれが『愛されたい』モードの仕業?
あの大人数の兵士、すなわちラウーの同僚たちの面前でわたしってば、そんな怪しげな『愛されたい』モードを全開にしてしまってたのだろうか!
ギャー! 穴があったら入りたいー! もうすでに洞穴の中にいるけど!
「困った方々だ……」
隣でぼそりとかすれた呟き声がした。見れば白ローブは猫背に戻っている。まつ毛も眉毛も頭髪もない、けれど白磁よりも美しい肌をした毒使いは慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「困った方ではございますが、婚約者様には献体に匹敵する利用価値がございます」
しかし腹は黒いままだった。
風向きが変わって応援部隊が到着するのと、アイヤイとラウーが解毒の苔を探し当てて戻ってくるのは同時だった。
苔は乳鉢でゴリゴリ潰されたり漉されたりしている。クサくてヘドロ状の、飲むなどと罰ゲームとしか思えない液体になりつつあった。
「それ飲むんだ……」
「いや」
塗るんだ、よかった。
「注射する、尻を出せ」
あんぐり。
「最も効果的な方法だ。飲むのは日常生活に支障が出る」
確かに、触ると三日間クサくて真っ黒になる液体を飲んだりしたら、その三日間は誰も会話してくれないだろう。
「最たる被害者は私だ。私が飲むも同然だからな」
「じゃ、じゃあヴィルゴットさんにやってもらう!」
「医者は私だ」
「そうだけど、わたしにとってはラウーは医者じゃない方が大きいって言うか」
今までさんざん診ているだろう、って睨まれたけど。
お尻を出したことなんてないじゃん!
ああまずい、ラウーの視線がどんどん絶対零度目指して降下している。
「わかりました。洞穴の奥の真っ暗なところでお願いします」
「私が夜目のきく鷹ならば容易だろうな」
このままじゃヤられる。ラウーなら躊躇しない。傭兵二名と応援部隊数名の面前でわたしのスカートをまくり上げ下着を下ろして突き立てる。
「譲歩します。あの岩陰で!」
薄暗く、兵士たちからは死角になる岩陰を指差すと、返事を待たずにそこへ片足跳びで転がり込んだ。
苛立たしげについてきたラウーの手に光っていたのは、見たこともないぶっとい針。注射器の筒の部分はなみなみと黒い液体で満たされている。
「うそっ! そんなに太いの入らない!」
思わず叫ぶ。洞穴の入口付近で怪我人を鷲の鞍へ固定する作業に没頭していた兵士たちが、ヒタッと静まり返ったのがわかった。
「これしかない。黙って尻を出せ、暴れるなら縛り上げるぞ」
「わかったおとなしくするから。入れるとき言ってね、そんな凶悪なの覚悟がいる……」
「いくぞ」
「いたっ、痛い、ラウー、痛いってばっ」
細さも鋭利さも今ひとつな針。この世界の注射針は遅れてる、と桐花は涙にくれながら呪った。
兵士たちがゴクリと喉を鳴らし、おののいている気配が聞こえてくる。
「毒に侵された婚約者様をさらに犯すとは、鬼畜極まる……!」
「さすがルテナンカーネル、毒をもって毒を制すか!」
「あの怪我で厩舎に飛び込んできた豪胆さには感心したが」
「こんなプレイで鍛えられていたんだな!」
ラウーのヒドさについて語ってくれてるらしい。
針はなかなか抜かれる気配がない。巨大な注射器だったから、解毒液の量も多いんだろうけど。
「こんなおっきいの初めて……全部入った? まだ?」
「力を抜け、もう少しだ」
「早く終わらせて。息できない、死んじゃいそう」
「よし、入った。終わったぞ、身体に染み込むまで安静にしていろ」
乙女として守りたかった何かを奪われた気がしてならない。
けれど兵士たちの面前で恥ずかしい姿を晒すのだけは免れた、それでいいと思わなくちゃ。変な噂が増えるのは困る。
「なんという早さ! 一瞬だったぞ」
「おいたわしい、ルテナンカーネル……」
「いやあの『守っていて』は俺でも腰にきた。今まで我慢してらしたんだ、無理もない」
「いやいや名器をお持ちのようだっ」
あの注射時間でも早かったの? 名器って、注射器?
服を整え、痛むお尻をさすりながら岩陰を出る。
兵士たちはやけに感心し、かつ前屈みになりながら怪我人を搬出する作業を再開していた。
ラウーは名器と呼ばれた注射器を惜しげもなくポイと救急箱に投げ戻すと、隅でボケッと座り込んでいたアイヤイを視線一つで起立させた。
「アイヤイ、ソウヘイ・カジヤベの護衛につけ」
「うへぁっ? あたし?」
アイヤイはのけぞった。
「どーゆー嫌味! 死んで欲しい男を守れって?」




