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青い鳥ルーレット  作者: シトラチネ
青い鳥ルーレット
26/68

26. 奮い立たせるのは

 さっと振り返る。が、背筋を凛と伸ばし、白鳥の首のように優雅なフォームで針を投げ、アイヤイと賞金首の動きを封じたはずの華麗な毒使いは消滅していた。

 代わりに猫背で胸元のロザリオをごそごそいじり、ケホケホと死に際みたいな病的な咳に身体を揺らす痩せっぽちがいる。

 足元に紙幣をばらまいたら治る咳なのではないか。桐花は財布を持ってこなかったのを後悔した。

 ヴィルゴットのロザリオから、人物像の後光が角度にして四十五度分くらいなくなっていた。後光に見えていたのは実は細い針の集合で、その針がアイヤイと賞金首の体中に打たれたようだ。十字架の人物像は毒針のピンクッションらしい。

 ロザリオは信仰の証かと思いきや、ひどくバチ当たりな使い方をしていることが判明したヴィルゴット・ヨハンソンは、咳を落ち着けるとかすれた声で言った。

「私刑、違反」

「……こんのクソハゲ……」

 動けなくても話はできるようだ。アイヤイの呪詛には聞く者の肌を粟立たせる壮絶な殺意がこもっている。

「違反? あはっ、構うもんか。あたしはねぇ、こいつを憎んで生きてきたの。密売アジトがアダマス帝国軍に急襲されて、こいつだけ逃げて、あたしは捕虜んなって、スマラグダス中佐に拾われるまでずっとずっとずーっと、いつかこいつを殺す日だけを夢見て生きてきたの」

 低くなったり高くなったり、唾を飲んだり、アイヤイの声は神経質に揺れた。

「ウウン違うかも。こいつを殺して初めて、あたしは生まれるの。けど、何して生きりゃいいんだろ? 憎む以外のこと、ろくにした覚えがなくてさ」

 聞いていて胸が痛いほど、アイヤイのこいつと呼ぶ言葉からは軽蔑と憎悪が感じられる。名前を口にすればその度に自分が穢れるとでも思うのか、アイヤイは頑なにこいつと呼んだ。

「ねーヴィルゴット。あたし知ってんのよー。あんたの非常用麻酔針が長く効かないのも、残り少ないのも。あいにくだよねぇ、あたしを止められると思ったら大間違い」

「五万ポンド……」

 惜しそうな美声がアイヤイの指摘を肯定していた。

「だからさ、ねぇ、立ってよ。殺す前に死なないでよ。前みたいにあたしを罵倒しなよ、唾とばして口汚くさぁ。そしたらその口にありったけ弾を食わせてやるからさ。何で言い返しもしないで転がってんのよぉぉぉ!」

 窪地に倒れている年配の男は後頭部付近から出血しており、岩の床にどす黒い染みが広がっている。失血に加えて吹き抜ける風が容赦なく体温を奪ったのだろう、顔は土気色だった。

 桐花が医者でなくても危険な状態だと分かる。

 噛まれた足は猛烈に痛みを主張して、気力をそごうと躍起になっている。でも、と桐花はアイヤイの荒ぶる呼吸音に耳を傾けながら足の痛みを追いやった。

 いま、救うべき人が二人いる。

「ラウーを呼んできます」



「はぁ? 引っ込んでてよ。ボスもあんたも関係ない!」

「あります!」

 負けまいと声を張り上げた。

「アイヤイさんは言いました、ラウーのことサドだって。『助けてから極刑にする念入りなサドだもん』って。あれってこういう状況のことじゃないんですか? どんな重罪人でもきちんと法で裁かれるべきだ、ってラウーの思想を理解してるからですよね?」

 スマラグダス八鬼神と名乗るほどのラウーの腹心なら、白魔の理念を知らないはずがない。ましてやアイヤイは遺言を、一緒に火葬して欲しい何かを預けるほどラウーを頼っている。

「バッカじゃないのぉ、呼んでくるってどうやってよ? 鷲の操縦も知らないのに、第一、そのキモい動かない脚じゃ鞍から滑り落ちて死ぬしぃ」

 同意を示してヴィルゴットがコクコク頷いている。足は誰のせいだ誰の。

「鷲にだって帰巣本能があります。とにかく飛びさえすれば厩舎に帰るはずです。それから、ヴィルゴットさん」

 ランタンを置いた。噛まれていない片足でぴょんぴょんと鷲まで跳ぶ。乙女にあるまじき脚の広げ方でどうにか鞍によじ登ると、手綱を両手の掌にぐるぐる巻きつけた。

「この状態を、ヴィルゴットさんの麻酔針で固定して」

 そうすれば少なくとも鷲から落ちることはない。

 無表情か仮面的微笑くらいしか披露していない表情の乏しいヴィルゴットの顔が、珍しくゆっくりと緩んだ。

「あなたも、スマラグダス中佐の子」

「えーと……助手で婚約者ですけど」

 あなたも、というのが聞き捨てならないが問い詰めている時間的余裕はなさそうなので我慢した。

 白いフードは懸念を示すように横へ振られた。指先が桐花の足の噛み傷を指している。

「毒。麻酔。過多」

 噛み傷の毒に加えて麻酔を打つのが身体に負担だという意味らしい。

 それでも自分が行くしかないと思った。ヴィルゴットはアイヤイの動きを封じる手立てを持っている。さらに重要なことには、頻繁に声をかけないと操縦中に貧血で意識を飛ばして滑落しかけるという実績を持っている。単独飛行では無事に基地に戻れまい。

 桐花にはヴィルゴットを頷かせる勝算があった。まつ毛も眉毛もシミもない美貌に顔を近づけ、囁く。

「五万ポンド」

 ブスッ。

 と瞬時にためらいのない麻酔針が桐花の手に突き立った。親指の爪の付け根、掌の中央、膝の周辺を幾つか。それだけで桐花の手指と膝は痺れてピクリとも動かせなくなった。

 肌が白くて腹が黒い人はいそいそと鷲の繋索を解き、洞穴の外へ向かって引き始める。あと一歩で洞穴を出るという地点でピタリと止まった。

 白いフードがぐるりと動いて周囲を見渡したようだった。

「凪」

 かすれ声で言われて気付く。風が止んでいる。

 薄い水色の瞳は眼下の岩地へ視線を走らせている。紺碧の海を突っ切ってきたカモメの群れが岩棚へと隠れ、高く鳴き立てているのをじっと見た。

「海鳥、教える。風、変わる」

 風向きが変わる? それはすなわち、この氷穴の入口が落石の軌道に戻るということ?

 ぎょっとして問いただそうとした桐花に、ヴィルゴットはにこりと神父の微笑を浮かべた。

「神のご加護を」

 蹴り出された。



 上司の助手兼婚約者が落石に当たって死ぬ可能性は、五万ポンドの誘惑に負けたらしい。

 無事に落石地帯を抜けられても、桐花は喜ぶ気力が湧いてこなかった。鷲の餌といい、硝石製造法と引き換えに人質にされたときといい、自分の命が金や食品や情報より軽く扱われるのは少なからずショックである。

 鷲は蹴られて痛かったのか、怒りを発散するような猛スピードで飛んでいる。往路に見た景色を巻き戻しているのを見て、幸い基地に向かっているのが確認できた。

 岩山を回り込むと城塞都市が姿を現す。要塞のような城の上空へ差しかかったとき、一角から二羽の茶色い鷲が飛び立ち、桐花の進路を断つようにまっすぐ向かってきた。

「止まれ! 我々はアダマス帝国軍の警備隊……こら止まれー!」

「すみません止まれませんー! ギャー撃たないでー!」

 操縦を知らないばかりに制止を無視して領空侵犯する形になってしまった。警備兵が弓を構えている。

 非常に不本意ではあるが、桐花はご隠居の印籠並みに効果的な文言を繰り出した。

「わたしはラウー・スマラグダス中佐の婚約者です!」

「なにっ! あの羅刹のアイヤイの子を海に投げ捨てて高笑いしたという非道伝説の?」

 アイヤイの恨みの深さを改めて思い知る。

「非常事態なのでラウーを呼んで、あと救急の手配をお願いします!」

「いや俺は軍付属病院でタイラー師を神隠しにした奇術師だと聞いたぞ!」

「いやいやあれは悪魔の業だ、隠蔽されたのを忘れたのか! 箝口令を敷いたときの中佐は、愛する者を奪われた怒りを健気に押し隠してらしたという……」

「うぉぉ想像しただけでイケる!」

 警備兵が誤解に満ちた会話で騒いだり悶えたりしている間に、三羽の鷲は厩舎へと到着した。役割を思い出したらしい警備兵によって伝令が走り、救急箱とおぼしき箱が運ばれてくる。

 硬直した手足、紫に腫れ上がり変色した噛み傷、身体のあちこちに刺さった針。駆けつけた鷲の世話係や兵たちに不審な目で遠巻きにされ、桐花はまた誤解に満ちた噂が増えるのだろうと確信して泣きたくなった。

「桐花」

 振り向かなくてもその正確な発音で、厳しいけれど耳には優しい声音で呼ぶのが、ざくざくと迷いなく近付いてくる頼もしい足音が誰のものか分かった。

 涙が出てくる。

 水没したみたいな視界でも、周囲の兵たちと一線を画す金属鎧のキラめきは間違いようがなかった。

「北西の氷穴で、怪我してるソウヘイ・カジヤベをアイヤイが撃とうとして、ヴィルゴットが針で止めてる」

「了解した」

 驚きも聞き返しもしない。スマラグダス中佐は兵士の一人に短く何かを命じた。

 それから桐花の脈を取り、額に手を当て、噛み傷に眉をしかめ、麻酔針を調べている。温かい指先と真剣な異色の視線は桐花の涙腺を壊した。

「発熱している。足も痛むはずだ。残って安静にしていろ」

「やだ、行く」

 衆人環視の中で泣きながら駄々をこねるなんて、幼い頃に流行りの人形が欲しくてデパートで父を困らせて以来だった。

 だけどラウーの顔を見た瞬間に緊張が途切れてしまった。知らせなければという必死さで薄らいでいた痛みと痺れ、身体の不調と不安が一気に押し寄せてきた。

「一人にしないで」

 情けない自分を恥じながら頼んだのに、ラウーの視線はまとった鎧の金属光より冷たい。

「軍人を腰抜けにして未亡人になりたいなら、そうして泣いてすがれ」

 乙女が泣いてるのにひどい。ほんとヒドイ人だ、と桐花は自由にならない手の代わりに肩口の袖で涙を拭った。

 命令を受けていた兵士が走り戻ってきて、弓と小さな包みを結んだ矢筒をヒドイ男に渡している。桐花はそれを睨むが、くやしいけれどヒドイ男の発言が桐花の取るべき言動を示唆することも知っている。

「ラウー」

 呼ぶと、矢筒を背負っていた手を止めて、ラウー・スマラグダスは真っ直ぐに振り返った。

 桐花はヒドくても澄んだ瞳を見返し、毒だけが原因でない熱に頬を侵されながら思う。こんなこと言うのは駄々をこねるよりもっと恥ずかしい、だってまるでプロポーズみたいで。

「わたしを守っていて」

 模範解答。

 そう褒めるようなキスを額に受けた。

「請われるまでもない」

 だったら言わすなー!

 周囲の兵士がどよめく中。スマラグダス中佐は桐花の背後の鞍にひらりと飛び乗り、麻痺して動かない桐花の指の上から手綱を握り、瞬時に軍鷲を空高く発進させた。


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