25. 本性見たり
明るく死亡を予言すれば痛くない最期を迎えられる。
そんな迷信でもあるのかと疑いたくなるほどアッサリと、アイヤイは桐花の死を予告した。
「だってヴィルゴットの犬だもーん」
それで全ての説明がつき、この世の未練に諦めがつくと信じているかのようだ。
「誰」
と、白い人は長い袖から痩せた指先だけ覗かせて桐花を指差し、かすれた声を絞っている。猫背でやられると白い死神に指名されている錯覚を起こす。
「ボスの助手兼フィアンセだって。すぐに『助手兼フィアンセだった死体』になりそうだけどねー」
不吉な予測をするなー!
コクコクと頷いてから、白い人は抱えていた金属製の十字架をパカッと開いた。
開くのかソレ、とまじまじ観察すると十字架にはごつい鎖がついていて、どうやらロザリオらしい。教会の屋根から引っこ抜いてきたようなロザリオにあるまじき巨大さだが、形態はロザリオだ。
その十字架部分は箱になっているようで、白い人はそこから筒状の紙片を取り出すと桐花へそっと差し出してきた。
名刺だろうかと思いつつ広げてみる。ミミズがのたうったようなと言ったらミミズに嘆かれそうな下手くそな文字がもはや芸術的な配列で記されている。
「署名」
と、白い指先がペンを差し出してきた。反射的に受け取りながらミミズ暗号の解読を試みる。
『わたしは死後、わたしの体をヴィルゴット・ヨハンソンに献体することを誓約します』
ラウーの助手は死期間近と同義か!
お断りします、と紙とペンを押しつける。白い人は突き返されたサインのない献体誓約書を見つめ、フラリとよろけ、地に膝を折って嘆き始めた。
何事かと寄って来ていた野次馬がヒソヒソと囁きながら桐花に厳しい視線を投げてくる。桐花は白い人の飼い犬らしき猛犬に噛まれたうえに初対面で遺体の提供を迫られた非常識を訴えたいが、世間は無条件に美貌へ味方するものらしかった。
冷たい視線に桐花がいたたまれなくなってきたのを見計らったようなタイミングで、白い人は袖で目頭を押さえながら誓約書を差し出してくる。返事代わりに桐花はひどく痛んで痺れて紫色に腫れあがった足を突き出した。
人体として限界そうな薄さの水色の瞳が検分するように桐花の足を眺め渡した。かすれ声でぽつりと訊かれる。
「ヴィルゴットの接吻。あなたの署名?」
足にキスするなら献体してやるという意味ではない! 迷いもせずにひざまずいて唇を寄せてきた白い人は、献体のためなら足にキスするくらい厭わないらしい。
それより噛み傷に気付け! このままじゃ野次馬には、美貌の痩せぎす白ローブを泣かせた挙句に足にキスを命じたサド女に思われる!
「違います! あなたの犬に噛まれたところがおかしいんです。病気の犬じゃないんですか?」
「ナイ」
白い人はにこりと微笑んだ。神父のように慈愛に満ちた穏やかで和やかな微笑に野次馬がどよめき一斉に頬を染める。拝んでいる人もいる。
誰もが無条件に心を許してしまう微笑のまま、白い人は言った。
「毒の犬」
桐花とアイヤイにしか聞こえない程度の小さな声は、腹話術師のごとく唇を動かさずに発せられた。
透き通るような白い肌は、体中のどす黒いメラニン色素が腹に溜まった結果に違いないと桐花は思った。
「だから言ったでしょー。ヴィルゴットは毒薬の専門家だもーん。ほらー身体が毒に晒され続けたせいでハゲちゃって」
「専門家? そ、それなら解毒剤があるよね!」
白い人はにこりと微笑んだ。
「ナイ」
発声させるのが心苦しいほどかすれた声を絞る白い人だったが、自分の命には代えられない。野次馬を避けて資料館へ引きずり込み、つたない英単語を吐き出させ続けたところ、事情が明らかになってきた。
桐花を噛んだ犬は白い人、すなわち毒と生物化学兵器の専門家であるヴィルゴット・ヨハンソンの実験動物であること。ラボからうっかり脱走させてしまったこと。
犬に投与された毒は開発中であり正式な解毒剤は存在しないこと。毒だが派手な痛みと腫れ、長時間の麻痺、強い伝染性で敵の無力化を目的としており、命に別状はないこと。
「別状ナイ、祈る」
ひっそり付け足されたのが気になる。
「怖いし、歩けないし、すっごく痛いのでどうにかしてください!」
交換条件みたいにいそいそと差し出された献体誓約書を叩き落して踏みにじる。
「困った方だ……」
そこだけやけに流暢な発音で言われ、桐花はおまえがだー! と日本語で叫び返した。
はあ、と聞こえよがしなため息をつくと、ヴィルゴットは立ち上がって外へ出た。ロザリオの人物像の背後に配置された後光を一本抜き取る。人物像の胸部をパカッと開けると、炭のような火種が見えた。何やら実は多機能なロザリオらしい。
抜いた後光の先を火種に押し付け、燃え始めた炎を白く長い指で扇いで消すと、線香のように青白い煙が立ち始める。
ヴィルゴットは太陽を見て、雲を見て、煙の流れをじっと見て、おもむろに倒れた。
「まぶしい……暑い……人ごみコワイ……」
どんなひよわだー!
「毎月、死亡説が流れるくらいラボにこもりっきりだもんねー。いつ試験管持ったままミイラになってくれんのぉ?」
アイヤイが黒い袖でハタハタ扇いでやっている。
「北西の氷穴。冷暗高湿な土地。解毒の苔。探す」
白フードの陰で血の気の失せた唇が息も絶え絶えに呟いている。
「うそー山の向こう側? ムリ、死ぬ」
「風向きヨロシ」
「風天のあんたが言うなら風向きヨロシなんだろうけどぉ……」
ぶう、と朱色の唇が拗ねた。
「ボスのフィアンセ見殺しにしたら、花火抱いて散るまで無言で責められそーだから、死ぬのは同じかー。りょーかい」
わたしを助けようとしてくれる人の動機はたいてい不純だ。翻訳とかラウーからの保身とか妹の歓心とか。虚しい。
「鷲、二機かっぱらってくる」
「神のご加護を」
地面に倒れたまま、ヴィルゴットはにっこりと十字架を掲げた。
引きこもりくさいのに、白い人の手綱さばきは見事だった。
風や気流を完璧に把握しているようで、優雅だけれどアイヤイ機を振り切りそうなスピードで鷲を操った。度々陽光に目がくらんだり、熱射病寸前で気を失いかける致命的な病弱ささえなければ優秀なパイロットと言えた。
櫛の歯を立てたように細く長く無数に屹立する岩山群を大きく迂回し、城塞都市とは反対側へ回り込む。街でもあるかと思えば、岩ばかりがごろごろと積み重なり生物の気配がない、不毛な岩地と石柱群があるだけだった。
桐花の乗せてもらっているヴィルゴット機とアイヤイ機は連なって円を描きながら、岩山のふもとへ高度を調整していく。
「いつもは城から山に風が吹いててこっち側に落石するからムリだけどぉ」
アイヤイが声を張り上げている。
「たまーに風向きが変わった時だけ接近できる氷穴があるわけー」
落石? と首をかしげた桐花に答えるように、少し離れた岩山の脇を人頭大の落石が通過していった。ひゅおおおおん、と戦闘機の通過みたいな音がしたかと思うと、着地点で爆発のように砕け散った。
頂上が雲を直角に突き抜けて消えているような超高山での落石は、隕石にも匹敵する破壊力があるらしい。指先程度の石でも死ねそうだ。見回せばあちこちでズドーンドカーンと落石による土煙が上がっている。
ヴィルゴットはその土煙をじっと観察しているようだった。
「風向きヨロシ」
「風にも負けない巨石が落ちてきたら?」
「神のご加護を」
結局は運任せかー!
二羽の鷲は岩山のふもとにぽっかり口を開いた洞穴へと舞い降りた。洞穴は大きく、人の背丈の三倍はありそうだった。降機し、鷲を洞穴内に引き入れて繋ぐ。洞穴は反対側に通じているらしく、強い風が吹き抜けていた。
「解毒の苔ってどんなの?」
ヴィルゴットの単語を総合すると、強烈に汚物的なにおいがして、触るとヘドロ色の粘液を分泌し、触れた場所はにおいも色も三日間は消えない苔らしい。
「そーいや最近、とあるハゲな研究者は金食い害虫だとか公言してた財務官が、夜道で白くて猫背な幽霊に謎の液体をブッかけられて、三日間クサくて真っ黒な顔で泣き暮らしてたって噂だよねー」
「神よ憐れみたまえ」
神父的慈愛の微笑が嘘くさすぎる。
っていうかそんな個人的闇討ちに消費したから手持ちの解毒苔が底をついてたんじゃないのか?
「しょーがないのにねぇ。毒の開発は解毒剤と一対であるべき、ってご主人サマの厳命・・・・・・」
洞穴の奥へ向かってコンコンと反響していた底の分厚い黒塗りの下駄が、ぴたりと鳴り止んだ。
「誰だ!」
傭兵アイヤイは刹那的一瞬で拳銃を構えていた。超ミニの着物の背からはビリビリと、落石を招きそうに空気を震わす強い緊張感が放たれている。
洞穴の入口からの光だけでは銃口の先が何を狙っているのか、桐花には分からなかった。急いで持参したランタンの火を大きくする。
「うそ……あんたは……」
毒犬に噛まれて麻痺した足のせいでろくに歩けない。せめてと首を伸ばしたとき、アイヤイの震える声が響いた。
「カジヤベ……!」
言葉が象形化するならば、その一言は氷河の奥底から切り出したこの世で最も冷たく硬い氷の刃だった。
アイヤイが三度殺しても足りないほど憎い相手。銃口の先にいるのがその相手なのだと、桐花は底冷えのするたった一言で悟った。
カタカタカタと小刻みな音が洞穴内に響きだす。アイヤイの震える下駄。
「ソウヘイ・カジヤベ。こいつはねぇ」
アイヤイの声は神経質にうわずっていた。
「帝国軍に指名手配された賞金首よ。火器の売買が専門の武器商人で、あたしの前の飼い主ね。あたしはこいつの客の前で、銃の優位さを誇示するショーをやらされた。相手を一秒でも早く蜂の巣にして、血の海に沈めるためだけの奴隷だった」
桐花はヴィルゴットと同時に息を呑む。
「生け捕りの場合のみ五万ポンド……!」
待て白い人、いま滑らかな発音の美声でカネのことを言わなかったか! っていうか息を呑んだのそこか!
「ここで密売でもしてたの? あー、怪我してんの。落石に当たった? 天罰よねー。ねぇどんな気分? あんたの飼ってた奴隷に、あんたの売ってた銃で殺されるって、あはっ」
「私刑、違反」
待て白い人、たどたどしいかすれ声に戻して建前を訴えていないか!
「血、コワイ……」
待て白い人、それで説得できると思ってる?
「うるさい!」
アイヤイの一喝が洞穴にこだます。撃つ気だ。
むきだしに近いアイヤイの肩に力が入り、拳銃を握り直したのが分かった。だめだ、と響き渡る銃声を覚悟して桐花はぎゅっと目をつぶり首をすくめた。
一秒。二秒。三秒。
が、予想された銃撃音はしない。
それどころか、カタカタと鳴り続けていたアイヤイの震える下駄さえ沈黙した。
「困った方だ……」
かれた声がそっと、音を失った空気を動かした。
おそるおそる目を開けた桐花の横で、白いローブの白い指が、投擲を終えた直後の形で中空に留まっている。優雅な形は白鳥の首に見えた。
白鳥の首が見つめる先にはアイヤイがいる。微動だにしない。
何が起こったんだろう?
桐花は片足を引きずりながら慎重に近付く。ランタンをかざして目を凝らすと、アイヤイの足や手首に何本も細い針が刺さっていた。刺さった場所がポツリと赤く腫れている。
アイヤイの銃口が狙っていた、暗い窪地に倒れる小太りの男の身体にも幾本もの針がきらきらと光っていた。大怪我をしているようで、荒い息をする以外は話す気力もなさそうだ。
「経絡に薬を塗った針を打ち込みました。アイヤイも五万ポンドも当分は動けません」
背後から穏やかな微笑を含んだような、滑らかな発音の美声が響いた。