24. 遺すか、持ってくか それが遺言だ
「起きてる」
反射的に言った。
目覚めて眼前にラウー・スマラグダス中佐がいた場合、起きていると激しく主張しなければ鷲の餌にされるという恐怖の経験則が桐花には刷り込まれている。
血の時代および鬼畜の所業が我が身を侵食しているのを自覚して情けなくなった。
資料館の閲覧室は桐花のオフィスでもある。像や建築物の一部など大きな物も運び込める高さ、資料をブチまけられる広い石机を置ける広さ。壁は質素な灰色だが、天井は透明度の高い薄黄緑色の石材で造られていて明るい。
ビッと起立し背筋を伸ばして覚醒しているフリをし、そのさんさんと明るい室内を横目で確認して、あぁもう昼頃かなと桐花は思った。
朝方まで翻訳に没頭し寝落ちしたため、机の上のランタンが点きっぱなしである。縦列に並んだ中佐と舞妓もどきの傭兵アイヤイと仁王像な警備兵がそれに気付きませんようにと全力で祈った。
起き抜けの目には暴力的なほどキラリと輝く金属鎧に白金の髪。朝の海風のごとく涼やかな顔を保ったまま、中佐はいきなり桐花を抱きしめた。唖然として反応し損ねている桐花を間髪入れずに姫抱きにする。
「やだぁご主人サマったらサカった犬。オフィスの机でヤってももいいけど、話が済んでからにしてよねー」
超ミニの黒い着物に豪華な前帯、朱のアイシャドウと口紅を施したアイヤイがウザそうに袖を揺らしている。部下の前でも婚約者パフォーマンスか、と桐花はギャーと叫びそうになったのをどうにか飲み込んだ。
絶対零度を作り出す科学の存在しない世界で絶対零度な目をした中佐は、桐花をポイとベンチに投げ戻した。
「ベンチ、石製なんですけど」
桐花は日本語で悪態を囁く。
「警備兵からおまえの三日間の勤務と食事時間の報告を受けた。残業や徹夜や食事抜き、遅い帰宅など安全と自己管理がずさん過ぎる。結果として体重、胸囲、胴囲の減少、具体的な数値は」
「ストップー! 言わなくていいから! すみません、すみませんでした!」
婚約者パフォーマンスじゃなくて身体測定だったのかっ。
本や勉強に没頭すると寝食を忘れがちなのは自覚していた。今までは母が強制的に食事をねじ込みベッドに押し込んでくれたおかげで体調が保たれていた。母のありがたさ、中佐の驚異的記憶力のありがたくなさを痛感する。
ご用件は、と話題をそらすべく自慢の営業スマイルを作った。
「今日より毎晩四時間、おまえの帰宅と就寝を確認しに戻る」
話題それてない! と無駄に散ったスマイルに嘆いたところで、桐花は気付いた。ラウーがこの閲覧室に寄ったところで帰宅は確認できても、就寝は確認しようがないのでは?
「家にだ」
桐花の疑問を見透かしているに違いないタイミングで念を押された。
「うそーん、ボスってば四時間も寝るようになったのー? 鎧着て椅子に座ったまま仮眠するだけだった仕事中毒が! フィアンセぐらいで普通の人間になっちゃって、つまんなーい」
執務室で睡眠が取れるって、椅子でだったのか! 簡易ベッドでもあるのかと思えば。機会があれば妖木老兵タイラー師に言いつけねば、と脳内メモに書き入れた。
椅子ならリビングに立派な革張りソファがあったはず。桐花には大きすぎてちゃんと座ると足が床に着かない腹の立つ椅子だが、人を蹂躙するためにある無駄に長いラウーの足ならぴったりだろうと思えた。
「なぁんて言っといてそのうち三時間五十五分はベッドで運動しちゃうんだろーけどねー」
ちょっと待てー!
あの家にはベッドがひとつしかないんですよ。腹筋とかヒップアップとか何の運動に使うか知りませんが、わたしのベッドでそんなことされたら!
寝れないじゃないですかと猛抗議したいが、アイヤイと警備兵がいる。婚約者の帰宅をイヤがったりしたら、偽装がバレる。偽装がバレたら妹のレンカがダルジ大佐の餌食になる。
「お……お待ちしております……」
これほどまでに心にない言葉を口にしたのは人生初に違いない。引きつる営業スマイルの補正に苦心しているうちに、用件だが、と本題を切り出されてしまった。
「おまえが私の配偶者となった際に発生する事柄について説明する」
待って欲しい、と桐花は営業スマイルを貼り付けたまま背中で冷や汗をかいた。偽装結婚を思い直してもらうつもりでいたのに、話が勝手に進められていく。
「まず私が殉職した場合だが」
心臓が凍りついた。
「帝国軍から補償が支払われる。身元の保証はビスコア・ダルジ大佐に依頼し了解を得ている。ビスコアはアダマス帝国下で提督に次いで死ににくい男だ。生活に困窮することはあるまい」
言葉が耳に入ってから理解できるまで、ひどく時間と労力がかかった。
淡々と説明される間に冷え切った血液に全身を侵略され、桐花は鳥肌の立った自分の腕をぎゅっと握る。
現代日本で生まれ育った桐花にとって兵士とは自衛隊であり、ほとんど交戦するものではなかった。配偶者になるにあたってまず殉職した場合を示されるほど、命の危険性に直面した職業だという認識は薄かった。
「えー、もっと手っ取り早い方法があるじゃなーい」
石机の端に尻を載せ、分厚い黒塗りの下駄を細い足でブラブラさせながらアイヤイが興味なさげにあくびしている。
「別の軍人と結婚すんの。身分保証なら男は軍人、女は軍人の妻になるのが簡単確実よー」
スマラグダス中佐が戦死したらどうなるかなど、桐花は考えたこともなかった。
ラウー亡き後も、何の後ろ盾もなくこの世界に放り込まれたわたしが生きていける手段として、ラウーは結婚を言い出したの? その保護を助手確保のための偽装と曲解し、妹を守るためと拒否したの?
何でも与える、とラウーは言った。妻の座はラウーが供出できる最大の誠意なのかもしれないのに。
自分の浅はかさに桐花はぞっとした。
「でもわたしは……身分保証が欲しくて婚約したわけでは……」
「あはっ」
アイヤイがおかしな笑い方をした。
「信じらんなーい、佐官との結婚なんて夢みたいな話なのにねー。したがる女なんて掃いて焼き捨てても燃えカスから這い上がってくるほどいるってのに」
朗らかに笑っている。
「あんた、飢えたことがないのねぇ」
頭を殴られたような衝撃で、魂まで抜けてしまったかと思えた。
「身体も魂も売り切ってまでパンの欠片が欲しくて、三度殺しても足りないほど憎い相手の足元に這いつくばったりしたことなんてないのねー」
「ごめんなさ……」
「うわぁそんな顔やめてー。責めたんじゃないのー、生い立ちを他人と比べるなんてバカはガキの駄々! びっくりしただけ。あんたってば不思議なこと言うから、まるで戦争のない世界にいるみたいな」
アイヤイの口調に嫌味はない。純粋に驚かれているようだった。
桐花は他人から与えられた幸福な環境に安穏とあぐらをかいていた自分に気分が悪くなるのを我慢するしか出来なかった。
「そんな世界があるとしたら、あたしは用ナシかー」
舞妓もどきな着物の襟は肩甲骨が覗けるほど抜かれている。その背中にある薄くなった無数の古傷の跡に初めて気付く。
「それでもその世界で生きてみたいとか思っちゃうのはアレね、矛盾ってヤツよねー」
「いいえ!」
語尾にかぶせる勢いで否定した。
アイヤイの言う通り、戦争のない世界で傭兵は失業するだろう。でも傭兵が、誰もが、生存のためにそれ以外を諦めなくてもいい平和を望んじゃいけないわけなんてない。
そうか、と桐花は納得する。タイラー師は兵士として戦争したんじゃないんだ。兵士として戦争と戦っていたんだ。
傭兵の片眉が意外そうに上がった。
「へえ? あたしの大事な可愛い子を海に沈めて爆死させたあんたに」
仁王像な警備兵がおののき、鬼女に遭遇した面相を桐花へ向けてきた。違う、違うんですと必死に手を振る。
「あんたにあたしの遺言託すのイヤなんだけどねー。諦めるね」
はー、と大げさなため息をつかれている。さりげなく嫌われてる?
「その件も説明する。私が殉職した場合に配偶者として発生する責務として」
責務という単語を結婚とセットで語る中佐にぽかんとする。
「私に託された遺言をおまえが代理で実行する責任を負う」
結婚というものはいつか自分の身に起こるかもしれない幸福のひとつだと、実感なく感じていた。誰かの妻になるというのは、食事を作ったり一緒に暮らしたりする楽しげなことだと思っていた。
中佐の言葉に呼応して警備兵が持っていた箱を机に置く。中に収められた皮紙、蝋で封印された重要くさい大量の書類を見て桐花は自分の認識の甘さを知る。
「アダマス帝国軍は全ての兵士に遺言状の作成を奨励している。身寄りのない者が殉職した際、隊員や上官による遺品の略奪を防止するためだ。また上官に利益をもたらす内容の遺言は受理されない。金品に目のくらんだ上官による部下殺しが起こるからだ」
明らかに事実を元に話しているのが窺えた。なんてブラックな、と桐花は眉をひそめる。
「だが行動の依頼は許容される場合がある。アイヤイの遺言もその一つだ。後の説明は自分でしろ、私は会議がある」
「ハーイ。失敬な筋肉バカによろしくねん」
ダルジ大佐へとおぼしき伝言を冷たい視線の一瞥で叩き落としてから、中佐は閲覧室を出て行った。
「肩こるわぁ。ボスがいると行儀良くしなきゃいけなくって」
首を回してボキボキ鳴らし、アイヤイは朱色の唇で嘆いている。ものすごく自由に行動しているようにしか見えません、同感でさぁ鬼女さま、とアイコンタクトで警備兵と頷きあった。
「でね、フィアンセちゃん。あたしね、火葬して欲しいのねー」
ランチは鯨ステーキが食べたいのねー。そんな軽さで笑いながらアイヤイは言った。
「アダマス帝国軍の水葬だけはやーめーてー。あたしのカラダはあたしのもの! 鮫に食い散らかされるのは勘弁。バラバラでも腐っててもぜーんぶ拾い集めて、ばっちり火葬してね!」
ステーキはミディアムでね! ぐらいの勢いで注文されている。
「でね、その時に一緒に焼いて欲しいモノをご主人サマに預けてあんの。ソレと一緒じゃなきゃ焼かれる意味ないから」
ふざけたような口調が一転、低くドスを含んだ。
「ソレがなきゃ死ぬに死ねないから。遺言を守ってくれるなら、あたしの大事な可愛い子を海に沈めて爆死させた女でも」
警備兵に人でなしを見る目を受けて、桐花は違う違うとハチドリ並みの高速で手を振った。
「土下座して頼むから」
「いいえ」
本心を見定めようとしていたらしいアイヤイの真剣な瞳が不穏にすがめられる。
「いえ、断ったんじゃありません。土下座がいらないってことです。ラウーの配偶者としてのつとめなら、土下座されなくても頼まれなくても、ちゃんとやります」
アイヤイは一瞬ぱちくりして、次にすとんと肩から力を抜いて、朱に彩られた目尻を緩ませた。
「バカねー安請け合いしちゃって。ご主人サマ率いる部隊が全滅したら、どーなると思ってんの? あんたこの遺言状と死体の山と一人で格闘する羽目になるってわかってるー?」
死体の山は確かにあまり嬉しくはない。
「そうならないように祈ります。ラウーならそれが、間接的に敵の死を祈ることになるわけじゃないし」
「あー、白魔だからねー。さすがご主人サマ、洗脳済みなのねー。だからあたしの大事な可愛い子を海に沈めて爆死させても良心が痛まないのねー」
よほど恨まれてるんだな、と警備兵の悪魔を見る視線を浴びながら桐花は思った。
「それでその……一緒に火葬して欲しいモノというのは?」
「えー? あー」
アイヤイはニヤニヤしながら警備兵を眺めている。いたずらの成果に満足気な笑みを見て桐花は、アイヤイの大事らしいソレを魚の餌にしたい誘惑を自制する理性を必死にかき集めた。
「あんた、日本語が分かるんだってねー」
そうだ聞きたいと思ってたんだった!
かき集めかけた理性を投げ出し、舞妓もどきの黒い袖をつかんで詰め寄る。
「着物ってことは、アイヤイさんは日本の出身?」
アダマス帝国軍作成の世界地図から日本は消滅していたが、日本人コミュニティが存続していると聞いたことがあった。
「ウウン。前の飼い主が日系だっただけ。日本語分かんない」
ヨシ、と拳を握る。
「ラウーの悪口が言える! 唯一のストレス解消法確保!」
と、早速日本語で歓喜を呟く。
「少しなら知ってるけどぉ」
それを先に言えー!
「意味は分かんない。『出番だ早く殺せ、弾を無駄遣いしてんじゃねえぞクズ、メシが食いたきゃ働け』とかそんなん。あはっ、あんたのその顔からして、意味は分かんない方がマシっぽい」
大雑把に結い上げた髪からこぼれ落ちた束を、羅刹のアイヤイの指先はくるくるいじって遊んでいる。
「『ラセツ』だけは知ってる、その飼い主がわざわざ教えてくれたから。あんた知らないみたいねー。ホント不思議、フィアンセちゃんってば奴隷のいない世界にでもいた……」
ぴた、と髪で遊んでいた指先が止まる。顎を上げ、耳を澄ませるアイヤイの瞳や肌に鋭い緊張がみなぎった。だらしのない舞妓もどきから一瞬にして傭兵に変貌するさまに桐花は息を詰めた。
「なにー? 騒がしくない?」
ぴょっと体重を感じさせない身軽さで机から飛び降り、アイヤイはすたすたと資料館の出口へ向かう。
すたすた……。
桐花は傭兵の足元を凝視した。
「ちょっと待って! その下駄、重くないの?」
花魁が履くような底の分厚い黒塗りの下駄。重さゆえに、花魁は円を描くように引きずりながら歩いたはずなのに! 岬で腹に蹴り入れられたとき、すごい重量感だったのに!
「ああコレ。敵を欺くならまず味方からよー」
あっけらかんと肩をすくめている。騙されていたのか、と頭をくらくらさせながらアイヤイに続いて資料館を出た桐花は、途端に下駄より強烈な何かに突き飛ばされて転がった。
「やだー鈍くさぁ」
同情の欠片もない感想に精神まで倒れそうになりながら、どうにか地面を探して上体を起こす。最も痛む場所を感覚で探って見やると。
足に犬が噛み付いていた。
「ギャー、いた、いたたたたた!」
犬はぱっと口を離し、捕獲しようと迫りくる警備兵を引き連れてあっという間に走り去った。桐花はみるみるうちに紫に変色した噛み跡に恐怖する。
いた、痛い痛いすっごく痛いし痺れる! あの犬、病気なのかもしれない!
しゃがんで患部を覗き込んだアイヤイは、しゃがんだ状態のまま器用に後ずさった。
「えー狂犬病っぽくはなかったから死なないってー。寄らないでねー」
前言撤回! 発言が矛盾している!
「あ」
不意にアイヤイが後退を止めた。桐花はその視線を追って背後を振り返る。
幽霊かと思った。
お迎えが来ちゃったかと錯覚したほど、その人は白かった。驚くほど白い肌の長身を白いローブに包み、胸に大きな十字架を抱えている。
あまり血色の良くない唇だけがぽそりと動いた。
「犬」
小さくかれた声をしていた。薄い薄い水色の瞳に見とれてから、その人のまつ毛がないのを発見する。眉もなく、フードに隠れてはいるが頭髪もないようだった。不思議なことに、毛がなく若く美しい人は男か女か判別しづらくなる。
「犬探してんの? さっきの病気っぽいヤツ? あー、ヴィルゴットの犬なのねー」
喉仏からすると男だ、と判断した桐花の頭上で白い人はコクコク頷いている。背後からアイヤイの快活な断言が聞こえた。
「だったら、フィアンセちゃん。あんた死んじゃう」