23. 姫の憂うつ、太郎の高潔
ありえない単語がありえない文脈で出現した気がした。
「私は振り向かない。振り返らずに前へ進む。おまえは私を、ここに留まる理由にしろ」
はい?
いえ確かにラウーの助手がんばりますっていうのはこの世界に留まる理由ですけど、なぜ妻? どこから妻?
問いただそうと顔を上げたら、異色の瞳に囚われた。春の優しい土の色をした茶と、萌える草原の緑。いつもの極寒の酷薄さは影もなく、静かにまつ毛を伏せているだけで、豊饒の大地に包まれているような錯覚をおこす深い瞳。
反則だ、と桐花は思う。
圧倒的な美しさを前に人は言葉と思考を忘れる。唐突であればなおさら。しかもたちの悪いことにこの人は自分の瞳に美しい情景があるなど知りもしない、だから見つめるという理性破壊行為を延々と真剣に実行できちゃうのだ。
「ラウー……」
桐花は霧散しかけていた理性の欠片をなんとかかき集めた。真摯に誠実に答えるべく深呼吸し、背筋を伸ばし、そして告げる。
「困ります」
桐花の理性破壊にいそしんでいた瞳に、極悪な破壊衝動が光った。
「だってわたしが嫁候補でなくなったら、大佐はレンカに集中しちゃいます! 妹はアダマス人とは絶対結婚しないって泣いて嫌がってるの……に……」
背中に回された腕が犯罪者の逃亡を阻止する腰縄の様相を呈してきた。致死級に痛い視線が超至近距離で突き刺さる。突き刺さるだけでなく光線銃のように肌を焦がしてくる。この光線には精神を焼き切る性能があると桐花は確信した。
「おまえが婚姻を要請した」
してません!
「私はおまえに、誰かを愛せと言った。おまえは私の名を挙げた。相違はあるか」
ぬおっ? いつの間にそんな文脈になっていたんだろう! 相違はあるかどころか相違しかないつもりなんだけど、発言の意味わかってませんでしたと答えたらラウー内桐花知性メーターが壊滅的な被害をこうむりそうだ。
書店の娘として国語は得意なはずなのに、どうしてこうなったんだろう……。
「約束を守ると言ったな。約束は言葉で成立するものだ。その言葉をおまえは違えるのか」
ううっ、なんという正論。国語力で負けている。
「でもホラいくら要請……? されたからって、受けて立たなくてもいいんですよ?」
丁重に辞退をおすすめしてみる。
「私はおまえに用がある」
唯我独尊の裁判長にあっけなく棄却された。
「考え直してください! おかしいです、初めて会ってからまだ何日も経ってないのに!」
「おまえの世界では婚姻までに定められた準備期間がいるのか?」
そうかここで百年とか答えれば!
「アダマス帝国下では規定はない。おまえは帝国軍人である私が保護している。よって帝国の習慣を適用する」
聞く耳持たずというヤツですね。それに訂正を試みるなら保護じゃなくて、監禁に始まって恐喝で引き継いだような。
「規定がないとしても早まりすぎです」
「では訊こう。何日なら許容される?」
返答に詰まる。答えられないと見越しての反語的な問いだと思った。バカめ、と宇宙空間級の超上から目線が語っている。
つまり早い早いと文句をつけたけど、問題にすべきは日数じゃない。
「思うに、大佐はラウーへの対抗意識でわたしを嫁候補と呼んで遊んでるんです」
賢くラウーの発言の意図を察して日数問題を打ち切り、核心を突いたと思う。なのになぜ舌打ちされねばならないのか。
「だから大丈夫、結婚までしなくても、婚約者のままでも、ラウーから助手を取り上げたりしないはず。偽装結婚なんてやめましょう、ねっ!」
愛人いっぱいなダルジ大佐の愛と誠意には期待できないものの、ラウーの理性に訴えるのは正解だろうと桐花は思った。
「白魔も人を落とせるか。おまえは実験材料だ」
断れば射殺する宣言?
理性じゃなく対極の、触ってはいけないモノに訴えてしまった気がする!
「これは譲歩だ。私も言葉を違えた」
婚約者から射殺用ダミー人形に格下げすることのどこが譲歩か、真剣に問いただしたいのです。
「マザー・ガウフの民族的制裁破棄の申告を受けて、私はおまえが安全を脅かされることは二度とないと伝えた。だがこの有様だ。帝国軍、ひいては私への脅迫におまえを人質に使うなど」
模倣犯を許さぬ懲罰を与える必要がある。と、法で犯罪を裁く知の時代の先駆者は、正義に澄んだ目で言った。
「全て抜歯だな。舌を噛み切るなどと安楽すぎる選択肢は容認しない」
もしもし、血の時代に逆行してますよ?
「ゆえに、婚姻は保留してやる。結婚前提の婚約とする」
それが婚約というものの正しい定義だとは思うけど。譲歩までされちゃった今、するりと腕による拘束を解かれた今、誤解ですと主張し断固辞退するタイミングを完全に逸した感がある。
まあいいかな、と桐花は急に肌寒くなった腕をさすった。今はトレードから戻ったばかりで助手の確保に焦ってるんだろうけど、偽装結婚には利益がないってこと、ラウーだってすぐに気付くだろうし。
『おまえは私を、ここに留まる理由にしろ』
結婚前提の婚約で、勝手に消えたりしないって安心してもらえるなら。役に立ちたい、失望されたくないという気持ちは本当だから。
この人の前で胸を張れる自分になりたい。
「ラウー。欲しいものがあるんだけど」
船舷で近付く軍港を眺めていた中佐は眉を上げた少し意外そうな顔をした。
「翻訳がんばるから買ってもいい?」
「好きにしろ」
何を、とか聞かないのか。大陸ひとつとか言ってやろうか。
「何でも与えると言ったはずだ」
見透かしたように付け足された。じゃあと遠慮なく品名を挙げると、中佐の顎がわずかに落ちた。
「そんなものが欲しかったのか? それで留まる気になると? 竜宮のような歓待に勝ると?」
指先を額に当てて眉根を寄せている。
「海を統べる竜宮の姫は、浦島太郎というたった一人なら満足させられると自惚れた。みずからが最上と錯覚した饗宴で、太郎の拠り所など訊ねもせずに」
空を仰ぐ左目の翡翠が輝きをかげらせたように見えた。
「笑い種だ」
桐花は中佐の執拗なほどの民話批判を不思議がりつつ、コキ下ろされる竜宮の姫を哀れに思った。
「まあ、ミセス・スマラグダス。使いを頂ければ、お屋敷までご用命に伺いましたのに」
街ゆく人をつかまえて道を訊ねると、マリポーサのブティックはすぐに判明した。
軍の上官たちの屋敷が建ち並ぶ丘に程近い一角の、艶やかな黒い鉱石とピンクの水晶が組み合わされ彫刻を施された美麗な建物だった。凝ってはいても華美すぎず、内包する上質な生地や装飾品を引き立てる脇役として計算されているのが窺えた。
顔は王子様で服装はドアマンな青年がかしこまって扉を開けてくれる。髪は下ろしたままだしメイクもしていない小娘を通してくれたのは、着てきたマリポーサの服が通行証代わりに働いたからだろう、と桐花は場違い感にギクシャクしながら思った。
しかし顔が王子様なドアマンが、ごきげんようミセス・スマラグダスと挨拶してくる謎。
こんにちはと返しながら店内へ踏み入れてみて、桐花は顔と素性がバレている理由を一瞬で理解した。
まばゆいシャンデリアの下で帽子、手袋、ストール、傘、そうした装飾品のディスプレイで埋め尽くされた広い店内の一角が不自然に黒い壁を晒している。ドアほどの大きさの花の枠で飾られているのは、チョークで描かれた桐花の等身大肖像画。
顔まで詳細に描き込まれたチョーク桐花足元には『ミセス・トーカ・スマラグダス スマラグダス中佐の手による』と達筆な女性文字で日付まで入れられている。
思わずギャーと叫んだところで、奥から現れたラテン美女マリポーサがゆらりと微笑み挨拶に来てくれたのだが。
「こんにちはマリポーサさん今日は頼みたいことがあって来たのですがその前にコレ消してください消去消去イヤァァァァ」
「芸術は永遠なるべきもの」
オペラ歌手のように情感をこめて謳っている。レースで豊かな胸の谷間を覆っているようで覆っていないような黒いドレスは、マリポーサのわずかな動きにもしゃらしゃらと鳴った。
「津波に呑まれようともお姿を留めるよう、お薬で塗り固めてありましてよ」
余計なことを、と桐花は歯噛みした。羞恥に打ちひしがれる桐花に、マリポーサはまつ毛バサバサのラメな目元を緩ませる。
「遺憾なことですが、軍人という職業の殿方には奥さまの美貌やファッションに無関心な愚か者が少なくないのですわ。美は戦を制する殿方を制する。クレオパトラがとうに証明しておりますのにね」
美貌もファッションもあるもんかとチョーク画を睨みつける。ニコリともしていない顔に、服はシンプルを追求したネイティヴのすとーん伝統服だし裸足だし。
「そう嘆くわたくしたちを、スマラグダス中佐の絵は黙って戒めてくださいます」
「シンプルイズベストとかすっぴん推奨とかいう意味で?」
ヤケ気味な問いをいさめるようにマリポーサが首を振ると、甘く濃厚な香りが微風となって漂った。
「中佐の描かれたミセス・スマラグダスは、ほうら。左手に本とペンをお持ちです。瞳は強く高潔で、知性をたたえています。ですからリボンひとつない服でもすっぴんでも、このミセス・スマラグダスは美しいのです。クレオパトラがまず聡明であったこと、わたくしたちは目をつぶりがちなのです」
本とペンは単に資料館での翻訳姿を描いただけだと思う、と桐花は内心で呟く。
「軍人は貴族ではありません。上官の奥さまほど、それをお忘れになります。そうなればただの宝石と同じ。旦那さまという外からの光を受けねば輝けない宝石と同じ。いいえ。女性とは花のように、星のように、そこにいるだけで美しくあれるはずですわ」
採寸の手間を省くためだけの写生にえらい解釈を加えられている。
「醜悪なご趣味が成金なのか旦那さまの気を引きたいがゆえなのか、このチョーク画への反応で顕著にわかりますわ。成金は軽蔑し、愛されたい方は謙虚になられます」
踏み絵に使われている。
「わたくし、旦那さまがお命を懸けて国防に励まれた報酬を自己の虚栄心に浪費する奥さまに折る膝など、持ち合わせておりませんの」
歌うような優雅さ、バラ開花の瞬間で時を止めたような微笑で毒を吐いている。桐花はニッコリと営業スマイルを貼り付けた。爽やかに涼やかに自分の腸で首を吊れと推奨してくる上司のおかげで場数はこなしているが、こなしたところで恐ろしいものは恐ろしい。
すすす、と店の制服らしき黒と淡ピンクのワンピースの少女が寄ってきて何事かマリポーサへ囁いた。マリポーサはドレスをしゃらりと鳴らし、桐花の前でうやうやしく膝を折る。
「ミセス・スマラグダス。サロンのご用意ができましたわ、どうぞこちらへ」
店に服が見当たらないと思ったら、オーダーメイドらしい。桐花は巨大な三面鏡やマネキンや豪華なソファの置かれた個室に通されてダラダラと汗を流した。これほどの高級ブティックだとは。
どのようなドレスをお望みでしょうかと微笑まれる。桐花は口ごもり、逡巡し、脱兎のごとく逃げ出そうかと三回ほど企む。マリポーサはゆったりと待ちながら人払いをした。
淹れてもらったお茶っぽい何かがすっかり冷めたと思われる頃、桐花はようやく覚悟を決めた。情けないほどか細く告げる。
「実は、エプロンが欲しくて」
書店の父の戦闘服。
桐花が持ってきた本を整理するにも翻訳するにも、マリポーサの高級服を埃やインクで汚してしまったらと思うと気が気でない。本を生業とするものとして父には及ばなくても、父の娘として、書店の娘となるべく、桐花はエプロンが欲しくなったのだった。
「まあ、うふふ。ミセス・スマラグダスからはすぐにこの類の御用を承るだろうと思ってましたの。サンプルをご覧にいれますわ」
壁いっぱいのドレッサーからすかさず取り出されたエプロンがマネキンに着せられていく。
なぜ透けた生地やフリフリレースばかりなんだろうと桐花は思った。
「あの……もっと実用的なのは……」
唖然としながら言えば、さらに胸ぐりの下がったものやガーターつきのものなど、ますます実用的でないものが並べられた。
「いえ、こんな可愛いのは汚せません」
「汚すのはミセス・スマラグダスではなくてスマラグダス中佐ですわ」
意味が不明である。
「生地はたとえば、帆布みたいな丈夫なものがいいんですが」
「まあ! いけませんわあんなもの、素肌を傷めますわ」
エプロンを付けたら肌を傷めるなど聞いたことがない。帆布には肌荒れでも引き起こす物質が含まれているんだろうか、と桐花は思った。
「えっと……とにかく丈夫でこういう形の……」
黒板のような石のボードにチョークで、父のエプロンと同じ形を描いた。マリポーサはそれを見て豊かな、こってりと塗られた唇をちょんと尖らせた。
「本物のエプロンですの?」
偽物のエプロンなんてあるんだろうか?
「あとそれから……英語でなんて言うのか、調べるのを忘れてきちゃったんですけど。こういう道具は、どこで買えば?」
はたきをエプロンの横に描く。なぜか気抜けしていたらしいマリポーサの目がキランと輝きを取り戻した。
「キャットオブナインテイルですわね。お作りできましてよ。スマラグダス中佐からはすぐに御用を承るだろうと信じてましたの」
ミセス・スマラグダスから。じゃなくてスマラグダス中佐から? と桐花は首をかしげた。ラウーも桐花の本用にはたき購入を打診してくれていたのかもしれない。
サンプルを、とマリポーサが持ってきたはたきは革製だった。桐花はそれをドンヨリと眺める。
これは鞭というのではないだろうか。
「現代女性の鑑、と巷の噂でしてよ。ミセス・スマラグダスがいかに心技体を尽くすことで中佐のお心を射止めたか。あやかろうと、チョーク画のミセス・スマラグダスに祈りを捧げるご婦人まで」
「ラウーを呼んでください!」
マリポーサは嘘っぽい涙まで流して嘆願したが、採寸が終了した以上は無用の長物、とスマラグダス中佐の簡潔にして無慈悲な鶴の一声で桐花のチョーク画は消去された。
13話から始まりました第2部・再トレード編(仮称。きっとずっと仮称)終了です。ここまで読み進めてくださった方、ありがとう!
続きを書けたらいいなぁと思ってます。