22. 甘い毒舌
金属鎧から伸びる力強い腕は覆面誘拐犯と繋がれた腰縄の引力を断ち切り、泡立つ海面を破って桐花を空の下へ押し上げた。運命の糸に囚われた人形を、人間蓑虫だが、解放するように。
水圧やまぶたを通してくる光の変化でそれを感じられるものの、確かめるために目を開けたくてもまぶたが重くて引き上げられない。喜ぶ気力も湧いてこない。意識だけが体を離れてまた海底へ落ちていくように思えた。
猿ぐつわをむしり取られる。バチバチと頬を叩かれる。痛いと抗議したいが唇が動かせない。途端にその役立たずな唇が塞がれた。
温かい息が気管を吹き抜け、肺を満たす。キスのようだ、と桐花はぼんやり知覚した。婚約者パフォーマンスのキスをしながら盛大なため息をつかれているらしい。二度も三度も何度も何度も繰り返さなくても、わかったってば。
顔を背けようとしても唇は執拗に追いかけてくるから、ムカついて噛みついた。噛みついたつもりだけど望むほど強く出来てなかったようで、そこでやっと酸素不足と思い当たる。隙間から懸命に息を引き込むと、やっと唇は退却していった。
頭が徐々にはっきりしてくる。漠然とした青しかなかった視界は空と海に分かれ、波や岬の断崖絶壁を捉え、海面で頭を支えてくれる金属鎧の胸を映し出した。
「アイヤイ、誘拐犯を確保しろ」
耳元にラウーの声がする。
「えー、なにぃ?」
少し離れたところで黒アゲハな舞妓もどきが覆面頭を背後から抱え込み、拳銃の銃床でガンガン殴りつけていた。
「あんたのせいで着物が水浸しー! やだー失神しないでね、まだ山ほど文句あるんだからぁ。あたしの可愛い子を人質救出なんかに無駄死にさせてぇぇ!」
グッタリした覆面を抱えたまま、舞妓もどきはキッと桐花を振り返った。顔や首筋に貼りつく水に濡れた黒髪がなまめかしいが、アイシャドウの朱色が水に溶け、血の涙を流しているようでコワイ。
「満潮なら爆発させずに済んだのにぃ。恨んでやる。救出命令されたときの胸引き裂かれる思いったら、あぁんあたしの子ー! 戦場で花散らせてあげたかったーっ」
救出命令なんて指示してたっけ? 舞妓もどきのスタンドプレーじゃないの?
と思ったのが瞬きの回数に表れたらしく、はんと鼻を鳴らされてしまった。
「頭悪いのぉ? あんたたちと海との衝突緩和、人質救出って命令したでしょ。救出。保護と違うの。見てよこの崖の落差、どっかで衝撃を和らげなきゃ仏サン一直線。だから爆破で水柱立てたワケ。花火の距離とタイミング、あはーんあたしってカンペキ」
あたしがあたしじゃないならあたしに惚れる! とムリな仮定にうっとりしてから、舞妓もどきは思い出したように付け足した。
「でもご主人サマってば、やーめーてー。急降下してる鷲から飛び降りてソレ回収しに海に突っ込むとか勘弁してー。そういうヤバイことがあたしたちの餌なのにぃ」
軍の巡視艇である小型帆船に拾われて、桐花はやっと蓑虫の殻から解放された。鼓膜がズキズキ痛むし喉に小さな切り傷ができたが、それ以外に怪我はない。
「生きてたか、嫁候補・姉! 嫁候補・妹には俺が助けたって言えよ!」
「私の婚約者です。解決の発端を作ったのは大佐ですが、実行は」
「発端がなきゃ解決もないだろ。俺が助けたって必ず報告しろよ! 必ず、いいな!」
帆船にはダルジ大佐と、岬に集合していた兵士の一部が待ち構えていた。大佐の熱心な売り込みを、桐花はハアと曖昧な返事で濁す。
桐花の横でもハアと息をこぼす人物がいた。黒い袖を絞ってビタビタと甲板を濡らす舞妓もどきが悲嘆にくれながら顔を振っていた。
「あんもう、花火も着物も台無しー。責任取ってね、ご主人サマー?」
ねだるように仰ぐ先には全身から滴り落ちる海水など気にも留めず、端の焼け焦げた刺繍の損傷を確認するスマラグダス中佐の背中がある。舞妓もどきには一瞥さえ寄越さずに呟く。
「分際を忘れた傭兵に与える花火はない」
「はッ」
突然の電気に打たれたように、舞妓もどきは直立不動をとった。
「ご無沙汰致しましたボス! 傭兵アイヤイ、帰投致しました! 硝石入荷と聞いて我を忘れ科技部に直行し非番の者まで叩き起こし徹夜で作業させ報酬はパンチラで踏み倒した非礼、深くお詫び申し上げます!」
腹から張った声、指先まで研ぎ澄まされた緊迫、触れれば斬られそうな鋭さで覆われた漆黒の瞳。舞妓もどきは一瞬にして兵士になった。突然の変貌ぶりに、周囲の兵士さえビンと居住まいを正す。
だが次の瞬間、傭兵はへにゃっと笑って振袖を揺らしながら、帝国軍人たちに陽気にひらひら手を振った。
「ハァーイ軍のワンちゃんたち! あたしがスマラグダス八鬼神の一人、羅刹のアイヤイよー!」
羅刹のアイヤイ。
それを聞いた途端に兵士たちはどよめき、一歩二歩と後退した。大佐が疲れたように呻く。
「おまえんとこの八鬼神は相変わらず狂ってるな、ラウー」
「いいえ、そのような名称の組織は認めていません。私直属の傭兵の一員にすぎません」
「んもー認知してってばぁ。それから大佐の身分をいいことに相変わらず失敬なこの筋肉バカの発言の訂正を求めます、ボス」
「厚顔さが役職に比例するなら、その男は生まれながらにして提督だ」
取り込み中とは思ったが、桐花はあのうと声をかけた。
「助けて下さってありがとうございました。軍の大事な火薬を無駄遣いさせてしまって、すみませんでした」
「軍の? ノー! あたしの子ぉぉ!」
実は傭兵だった舞妓もどきが頭を抱えてのたうっている。
「軍の弾薬だ」
金属鎧は刺繍に屈みこんで背を向けたまま訂正を入れてきた。静かな声が恐ろしい。
「あの。ちょっと混乱というか動揺というか故郷が懐かしくなったというか、それでトカと入れ替わったんですが。お互い思い残すことがあって、また帰ってこれました」
「わぁコレ二重人格ってヤツなのー? やだ楽しい」
桐花は舞妓もどきアイヤイが興味津々に覗き込んでくるのを無視させていただく。
「助手の約束を二度も破ってしまって反省してます。でも一度戻ってみて、翻訳をやり遂げたいという自分の気持ちに気付かされました。だから」
ラウーの背中に目が付いてないのは承知だけれど、頭を下げた。
「もう一度助手にしてください、お願いします」
長い沈黙。ズキズキする鼓膜に、甲板を抜ける海風がしみるようだ。不安になる。どんな非道な答も即答が常だというのに。
「ねえねえ二重人格ちゃん」
その間に舞妓もどきが甲板に這いつくばってまで覗き込んでくる。
「三度目の正直、仏の顔も三度まで。でもご主人サマは仏の対極だし阿呆がお嫌いよー。二度あることは三度ある、覆水盆に返らずタイプよー」
口調はフザけてるし、珍しいオモチャを見つけた子供みたいな笑顔だけど、朱のアイシャドウの剥げた目はものすごく笑っていない。
「助けてから極刑にする念入りなサドだもん。命乞いはガン無視だしー。逃げる? 逃げたい? うふふふ女の子を狩るの、ひさびさぁ」
嬉しそうで不吉な忠告が聞こえるが、ひたすら頭を下げておく。今は桐花という人間の資質を問われている、そんな気がしたから。
「……ならば、二度とあんな目で私を見るな」
一瞬にして甲板を包み込んだ寒気に、舞妓もどきの楽しげだった口角が引きつったのが見えた。
あんな目?
「助手だと告げたときの怯えた目。私の家が住居だと告げたときの絶望的な目。婚約者だと告げたときの生き地獄に堕とされたような目。契約と婚約を破棄し居住地へ戻る許可を与えた時の、かつてなくこの上なく嬉しそうな、安堵の涙までたたえた目だ」
淡々とまくしたてられた。
「こわっ。二度目も許さないのねーご主人サマ」
這いつくばったままニジニジと器用に後退して離れていく舞妓もどき、軍艦マーチを歌いながら操舵室方面へ消える大佐の高らかな急ぎ足が場の一触即発性を物語っている。ラウーと二人きりに見捨てられた。
やだなー違うよラウー、その目をしたのはわたしじゃなくてトカじゃないかー。
とは言えない雰囲気がバシバシと伝わってくる。でもこれは明らかな言いがかりというか逆恨みというか! トカと同じ顔ではあるけど別人だから!
「んーと……その目について怒られるのは微妙に矛盾があるような。病院で、ここにいるなら助手でなくてもと聞いた気が」
「記憶に無い」
政治家か!
「あのとき病室にいた人に確認しても?」
「箝口令を敷いた」
独裁者か!
「おまえの人格変化もタイラー師の消滅も、説明に窮する事象だった。やむを得ない」
Xファイルか!
でもこれはラウーが正しいと思った。並行世界だなんて、自分が体験しなければ信じがたい。そろそろ顔がうっ血して苦しくなってきたので頭を上げた。
「おじーちゃん、無事に帰ってました」
ジョージ・タイラー妖木老兵は故郷に戻り、家族と再会したと伝える。そうか、と無感情に答える中佐の顔は窺い知れない。
でも金属鎧の肩からわずかに力が抜けたように見えた。
「民話や神話のタブーについて話したのを覚えているか」
首がムチ打ちになったのを隠してるんじゃないかと疑いたくなるほどしつこく振り返らないまま、中佐は訊いてきた。突然の話題転換に戸惑いつつも、急いで記憶の引き出しを漁ってみる。
「あーはい、したような」
向けられているのは後頭部なのに睨まれたとわかる緊迫感。
「いえしました、そうそう浦島太郎の話でしたよね。ほら覚えてます。覚えてるんです! ラウーみたいに一言一句ってわけにはいかないけど!」
神話に登場するタブー。玉手箱を開けてはならない、冥界や黄泉から連れ戻す妻を見てはならない。そうした禁を犯すと災いを受けたり別離を強いられるといった罰を受ける。
「竜宮のように歓待しても浦島太郎は帰った」
血でなく知の時代をと説いたタイラー師という浦島太郎は帰ってしまった。師の理念の実現を大きく前進させられる助手を鞭や飴や嘘で確保しようとした、その助手まで立て続けに失った。
「あれ以上どうすれば留めていられたのか、見当がつかない。文明を守ると言いながらその最小構成単位であるたった一人さえ満足に保護してやれないとは笑い種だ」
知の時代を切り拓こうとしていたラウーにとって、どれだけの失望だったことだろう。
「だがマザー・ガウフが好例だ。女は好きな男のためなら民族を危機に晒しても情を貫こうとする。だから誰かを愛せ。この世界の誰かを愛せば自らここに留まるだろう」
「えーと……」
浦島タイラーの話をしてたのに、なんで女性論になるんだろう。
謎だが、とにかく助手だけは戻ったと強調したい。
「ラウーはわたしを、誘拐犯の腕という冥界から連れ戻してくれました」
部下を使うという新鮮にして手抜き感のある手段で。
「でもわたしはまだ婚約者で、妻じゃないから、振り向かれても消えたりできませんよ?」
役に立ちたいから、約束を守りたいから、この世界にいる。そう伝えたかった。
やっと中佐は振り返った。茶と翡翠の瞳の端には警戒が載っている。安心していいよ、とニッコリしてみせた。
途端に両頬をデカい手に挟まれ、唇を強奪される。操舵室から大佐が凝視でもしてるのだろうか、めちゃくちゃに熱烈な婚約者パフォーマンス。
顎を砕きそうに力のこもった掌は首を滑り、肩を撫でて背中へ回り、腰を抱いて引き寄せる。ウエストまで形状記憶しなくていいから、ブティック店長マリポーサに測ってもらうから!
ぴったり含むように覆ってきていた唇からもっと温かく濡れたものが攻め込んできて、ひいっもしかして舌? どうしろと! どうしよう、とうろたえて引きつった唇の間を素早く侵攻された。わあ舐められてる!
口を閉じたいけど、閉じたらスマラグダス中佐風キスの講義妨害と叱られそうだ。かわりにぎゅっと目を閉じて、おずおずと唇と舌を明け渡す。遠慮なく進駐した舌を舌で迎えた。
毒舌、とか思ってるけど。ラウーの舌は毒どころかほんのり甘い。どんな料理の味とも違う、舌触りも違う、そもそも料理は口の中でこんなに器用に動き回ったりしない。踊り食いはしたことないけど、たぶん。
出会えばゆっくり絡んでくる舌先は、何度も抱きしめ直す腕のように感じた。
不意に解放されると、濡れた唇に海風が冷たい。かばうように風上側へ頬を寄せたラウーの唇が淡々と宣言した。
「ならば、桐花。私はおまえを妻にする」
……はい?