21. 黒アゲハ舞う
スマラグダス中佐の手が燃え始めた刺繍を奪取する。背後の兵士へ消火を命じてから覆面誘拐犯へ向き直った中佐からは、先刻までとはレベルの違う冷気が放たれている。間近で浴びてしまった兵士が膝をガクガクさせ、抱えていた水壷を取り落とし、結果として消火した。
「ラウー、嫁候補・姉を殺すつもりか!」
「いいえ、私の婚約者です」
パンツに穴開いちゃった。捨てちゃえー。
そんなサラリ具合で中佐は答えた。詰め寄った大佐の瞳の烈火さえあっさりと鎮火する。
「あーもーコイツわけわかんねー……」
大佐が呆れて呟きながらしゃがみこむ。場の統率を放棄したらしかった。
桐花も頭がぐるぐるしてしゃがみこみたかったが、デカい刃が首筋に押し当てられている状況で実行すれば頭がぐるぐるどころかゴロゴロとカットされてしまう。蓑虫の身で唯一自由を許されている爪先で踏ん張りながら考えた。
婚約破棄を撤回した? 秘策あっての虚偽発言なのか、それともトカでなく桐花とわかったのか。『あえ、おやひははあえー』が猿ぐつわを通したら『わたし桐花なのー』に聞こえたとか。
ああでもよかった、助けてもらえそう!
しゃがんだまま、大佐がハーイと質問の挙手をした。
「確認するけど、おまえの『いいえ』が否定してんのは『嫁候補』だけ? 『殺すつもり』は否定しないの?」
なんというグッドクエスチョンですか大佐!
もし蓑虫の中身がトカでなく桐花だとわかったのだとしたら。今の状況は脱走禁止令を破って逃亡した犯人がノコノコと洗った首を差し出しながら戻ってきたようなものじゃないか!
「後者も否定します。殺すつもりはありません。死んでもらう選択肢は与えますが」
婚約者の喉に穴開いちゃった。捨てちゃえー。
そんな軽い投棄っぷり。そうだった自分の手を汚さない主義だったね、ラウー。主張に一貫性があるのは感心するけど、その主義自体がいただけない。
「かわいそーな嫁候補・姉! ラウーにつかまったのが悪い運命だと諦めろよー!」
それはもう半分諦めました。けど大佐、今は誘拐凶悪犯につかまってる運命をどうにかしていただけないでしょうか?
「ダルジ大佐」
空気が一変した。
ラウー・スマラグダス中佐の低く静かな一言で、兵士たちが踵を鳴らして背筋を伸ばす。大気の分子までもが整列し、直立不動したように思えた。
キンと冷えたオーラの中心で中佐は宣言する。
「ぜひお心おきを。運命とは我々の将来を預けるに値しない不確実性です」
蛇に睨まれた蛙はきっと、恐怖で動けないのではない。蛇の目にある圧倒的な意志に、蛙は畏敬しひれ伏すのに違いない。
「運を天に放任すれば可能性、知恵を尽くして制御すれば確実性。実現率を変えられるならば、人の知恵は運命という絶望を凌駕し支配できる」
信念という心の力で兵士を、戦場を、運命を統制する。ふりほどくのが困難に思える運命の糸に絡め取られていても、彼は操り人形に甘んじない。
だからこの人は中佐なんだ、と桐花は魂を揺さぶられながら思った。
「あーナニ、窮地脱出の心得? ありがたく思えよー行き当たりばったりな俺がいるから、おまえら参謀はメシが食える」
ポジティブシンキング大佐。
だからこの人は大佐なんだ、と感動を挫かれながら桐花は思った。
中佐は仮にも上司である大佐の言葉を涙も出ないほど完璧に無視して、誘拐覆面男へ向き直った。
「状況が変わった。私には条件を飲む用意がある」
死んでもらう選択肢を強制する前に、一応助けてくれようとしているらしい。
その言葉には含みがあった。『帝国軍には』ではなく『私には』。交渉の責任一切を個人で負うという宣誓だった。
「帝国軍がネイティヴの生産情報を破壊と殺戮に利用するつもりだと主張しているそうだな。おまえが懸念しているのは硝石の製造法だろう」
「そうだ」
交渉相手に要求を即却下され、渋々受け入れられたと思えば仲間割れ、さらには運命論講義と急展開の連続に戸惑っていたのか、苛立った沈黙を守っていた覆面誘拐犯が急に勢いを取り戻した。
「硝石製造法の聞き取り調査を中止しろ。同時に、サンプルとして譲渡された硝石の返還を求める!」
「了承した」
中佐は背後に控えていた兵士の一団を指先ひとつで招き寄せた。
「科学技術部、昨日預けたサンプルを」
「いやぁぁ! ご主人サマ、それだけはやめてぇぇ!」
悲痛な嘆願を叫びながら一団から走り出てきたのは、うら若き舞妓。
着物だ、日本人だ! と興奮するより先に愕然とする。
舞妓と言っては舞妓に怒られそうな出で立ちだった。桐花は喉の痛みも忘れてまじまじ観察する。
まず裾が短い。太腿もあらわな超ミニ丈。逆に袖は振袖並みに長い。襟を抜きすぎて指先が袖に隠れている。着物は黒だが前に結んだ帯は絢爛豪華だ。
足元は花魁が履くような底の分厚い黒塗りの下駄。長い黒髪は大雑把に結い上げ、かんざしが無造作に挿し散らされている。
白塗りはしていないが、それでも白磁の肌に朱の目元と唇が艶やかだった。
その舞妓もどきが包みを抱きかかえてイヤイヤしている。
「おっきくしたのにぃ! あたしのだもん! あたしの大事な可愛い子ぉぉぉ!」
長い袖をぶんぶん振って駄々をこねる姿がやけに似合う。兵士たちが見てはいけないものを見てしまった顔を並べて一歩さがった。
だがご主人サマと呼ばれたスマラグダス中佐の氷の仮面は微動だにしない。
「おまえは不在のはずだ」
「認知してくれないのねー。ひどぉい、あたしはご主人サマの子供よー」
兵士たちがどよめいてまた一歩さがった。
「それ以上誤解を生ずる無駄口を叩くなら」
「オーケイ! りょーかい! 黙ればいいんでしょー。でもこの子を渡すのはいやぁぁぁ! あたしとご主人サマの愛の結晶ぉぉ」
兵士たちがさらにどよめいて一歩さがった。悶える舞妓もどきと桐花を交互に見比べ、修羅場に居合わせてしまったようなハラハラ顔をしている。
別に、と桐花は思った。
婚約者っていうのはダルジ大佐の横槍をかわして助手を確保するための嘘だから、ラウーに子供がいようが子供との子供がいようが構わないといえば構わない。年齢的人道的には構わないとはいえないが、個人的には構わない。はずだ。はずなんだけど。
イラッとする・・・・・・。
中佐の仮にも婚約者が頭切断寸前の蓑虫にされているというのに舞妓もどきめ! 抱いてるのが火薬だってことはわかってるんだー、おとなしくお縄につけ、じゃなくて火薬と人命とどっちが大切なんだー!
中佐の語った硝石という単語に、桐花は心当たりがあった。資料館で倒れたジョージ・タイラー妖木老兵の回復を待つ間、関連する全ての本から抜粋して訳しておけと命じられたリストのトップにあった。
木炭と硫黄で作る火薬に硝石を混ぜると、より強力な威力を持たせることができる。天然の硝石は、切り立った岩山ばかりの比較的温暖湿潤そうなこの土地ではほとんど採取不可能のようだ。ネイティヴはその稀少な、軍事的に重要な硝石の製造法を秘匿していたらしかった。
しかも硝石だけでなく、木材もここでは貴重である。
火薬らしき油紙に包まれたモノを手放したがらないのも当然だ。
だからって中佐の仮にも婚約者の命より大事ってことはないだろー! しかもそれを抱えてるのが軍人じゃなくて舞妓もどきなのは何故だー!
「諦めろ」
「いやぁぁぁ、ご主人サマのいじわるーっ」
「彼らとの衝突緩和、人質救出に必要だ。任せるぞ」
「りょーかい、ご主人さま・・・・・・あとで埋め合わせしてね」
くすん、と鼻を鳴らして舞妓もどきはがっくりとうなだれた。
誘拐犯、と中佐は舞妓もどきの襟の後ろをつかんで突き出しながら言った。
「ここで火薬を焼却すればおまえも含めた全員が吹っ飛ぶが、どう処理をする? 火薬を無力化する水分ならば、周囲にいくらでもあるが」
「水分・・・・・・海か、海に捨てろ!」
海と言われて視線だけで見回してみて、桐花はびびった。いつの間にか干潮になったらしく、すぐ近くにあった海面がはるか眼下まで遠ざかっている。子供用のジャンプ台程度だった岬は目のくらむ断崖絶壁へ姿を変えていた。
水面とて、高所からの衝撃は破壊的だ。数十メートルもの距離を落下すれば、迎えるのは水面とはいえコンクリートと大差ない。
転落する可能性は数メートルでも数十メートルでも同じだが、桐花には急に足元が不安定に、海風が強くなったように思えて泣きそうになった。
「じゃあ、あたしが投げるわねー。ううっあたしの子、来世で咲いてね」
ずるずると見るからに重そうな黒塗り厚底下駄を引きずり、舞妓もどきが前へ出る。
「女、それ以上近寄るな!」
「やだーあたし丸腰なのに? ほら。ほらぁ」
舞妓もどきは包みを両腕で抱え上げ、小さな尻をぷりぷりと振ったり、体をひねって肩甲骨まで覗けるほど抜かれた襟を見せつけてくる。長い袖もハタハタと風になびいている。弓や刀を隠す場所などなかった。
「わ、わかった」
誘拐犯がおののいている。貧乳寸胴を美とするネイティヴにとっては、舞妓もどきの幼さを残した中性的とも言えるほどの胸や尻のすとーん加減が心臓に悪いに違いなかった。
数メートルまで近づいてから舞妓もどきはきゅんと右へ向き、包みを海へ放り投げようとする。しかしその先には規制線代わりにホバリングする鷲と兵士がいる。
舞妓もどきはむきだしに近い肩をすくめ、くるりと反転して左を向く。そこにもホバリング鷲がいる。朱の鮮やかな唇を尖らせ、また肩をすくめる。
覆面誘拐犯と桐花に向き直り、舞妓もどきはアイドルばりの華やいだ笑顔でにっこりした。
「軍人さんで血の花を咲かせてもいいけど、血しぶきが着物に付くのは大ッ嫌いなのー。だからあんたの背後に投げるね。届くといいなあ、あたし非力だからー、ていっ」
誘拐犯の返事を待たず、油紙で厳重に封じられた火薬の包みはテロッとした光を反射しながら空を切った。覆面が反射的にそれを追って顔を仰ぐ。
だが桐花には別の飛行物体が見えていた。
火薬の包みを投げた一拍後に振り抜かれた舞妓もどきの左脚。その足先から大砲の弾丸のように蹴り出される、黒塗り厚底の下駄。
それは誘拐犯へと真っ直ぐに飛来した。そこまではよかった。問題は、誘拐犯が盾を持っていたことだった。盾、すなわち人間大の蓑虫状の桐花。
肩を押さえ込まれ身動きのできない桐花のみぞおちに、超重量級下駄がクリーンヒットした。打撃に押されて体が曲がる。重心が浮く。唯一自由になる足先が中空を掻いた。
重力が裏返る。
視界は岩場から青空へと転じる。誘拐犯が持っていた、桐花の首を脅かしていた石の刃が離れていく。背後から地獄に堕ちる者が足掻く、おぞましい悲鳴が聞こえた。
落ちる。
誘拐犯ごと岬から転落したのだ、とわかった。全ての音が遠ざかり、代わりに中から肋骨を打つ鼓動がやけに間延びして響いた。
スローモーションで遠ざかろうとしていた足先の岬から、青い空を背にして鮮やかな黒が飛び出してくる。黒い振袖がはためき、黒アゲハの羽のようだ。アゲハは豪奢な前帯に手を突っ込むと何かを取り出した。落ちながら腕を伸ばし、朱色の唇で楽しげに笑う。
「水中花の着水、開花まで2ー、1ー、もひとつ1、咲いちゃえ」
舞妓もどきな黒アゲハの手からガンガンガン、と爆竹に似た音と白煙が噴き出す。
すでに風を切る速度で落下していた桐花の頬を何かがかすめる、鋭い気配がした。
拳銃?
次の瞬間、轟音と水音と下からの衝撃に桐花は意識も体も握り潰された。巨大な水柱に突き上げられて落下速度は相殺されるも、すぐに水に飲まれて重力を取り戻し、引きずり込まれて水中へと沈む。大量の泡で視界は真っ白になった。
衝撃に揺らされた脳が意識を寸断する。本能が息を吸おうとするのに、猿ぐつわに阻まれる。水面と思われる方向に浮上したくても、蓑虫状態の縄が許さない。それどころか腰のあたりに強い引力が絡みつき、昇る泡と逆の方向へ連れ去ろうとしている。
この世界は夢じゃない、現実だとわかった途端に溺れるらしい。
『運命とは、最もふさわしい場所へと貴方の魂を運ぶのだ』
運命のバカー。トレードのバカー。身代わりになってトカを助けたのに、連れて行かれるのは竜宮城じゃなくて単なる海底じゃないかー、と桐花が意識の途切れる寸前で神様へ悪態をついたとき。
ザバンと激しい水音がして眼前に飛び込んできたのは、水中でさえまぶしくキラめく金属鎧。