2. 腫れ物にさわれ!
陽射しは強い。
額をジリリと攻撃してくる紫外線の気配。浅い海とわかる、緑色の強い海面は小さな波を駆使して、乱反射させた陽光を見せ付けてくる。
「書店の娘は白磁の肌でないと駄目なんだ!」と父が泣いて頼むから、情けで美白してやっている。30分ビーチにいたら半年の手入れが無駄になるんだ、どうしてくれる。桐花は習慣的に日陰を探して見回した。
空模様の器に海を張り、石で作った剣山を入れて。
林立するぶっとい石柱の間で、本の散乱する丸太のいかだに揺られながら、桐花は考えた。
その剣山の隙間に無数の船を浮かべたら、この光景を箱庭的に表現できているかもしれない。剣山の奥は岩山で囲む。海から垂直に伸びて、伸びて、森林限界はすぐに訪れ、岩肌はそれでも休むことなく伸びて、伸びて、薄い雲を突き破り、万年雪確定の白い氷の櫛歯となってもなお、伸びて、伸びて。その先の輪郭は太陽の影に溶けてしまって、確かめることすらままならない。
雪山の白を際立たす、これでもかと青い青い空には大きな星が浮かんでいる。
「木星」
あまりに見慣れぬ光景に、突如見知ったものを発見し、桐花はぽかんと呟いた。だがメノウのような赤褐色と白のマーブル模様は間違えようもない。
「……でかくない?」
いやでかい。肉眼でマーブルが目視できてしまうとは何事だろうか。
「水金地火木土天海」
木星周辺に生物の生息する惑星があっただろうかと思い起こしてみる。ない。
気づけばガヤガヤと不穏な囁きに遠巻きにされている。周囲に無数に点在する丸太のいかだ、その上にはモンゴルのゲル風極彩色テントが載っている。船というより住居のようだ。そこから桐花を眺めやる生物は限りなく人間に近い。というか一見、違いは見受けられない。身長も色も顔立ちもアジア人そっくりだ。
しかし地球人にはないモノを隠し持っているかもしれない。腹に第二の顔があるとか。四次元ポケットがついているとか。フェルト状のすとーんとした衣服の下はどうなっているんだ。
目をすがめれば透視できるわけでもないが、桐花が第二の顔を確認しようとまぶたを細めた時。
「トカ!」
桐花の名前のようでいて違うような、曖昧な、それでも耳に慣れた発音に思わず発信源を探す。
若草色のすとーんとした服の裾、そして後頭部でくくった黒髪が海風にたなびいている。色よく焼けた肌に包まれた頑丈そうな腕が桐花に向かって振られている。もう片方の腕は手綱を握り、乗っている動物を見事に疾走させていた。
……疾走? と桐花は、若草青年の素足の下で元気に波を切るイルカを見て首をかしげた。
「テイ!」
若草青年が指示を出すや否や、イルカは腹筋を縮めて三日月形に立ち上がり、水の抵抗を最大限に受けて急停止した。桐花の乗ったいかだに寸止めして乗客を上陸させる、その目は明らかにフフフと得意げだ。
「うわあぁうあ」
イルカタクシー!? 可愛い! 賢い! 欲しい! という魂の叫びが知らず口をついて出る。ああ、現実にもこんなん、いたらいいのに! 桐花が思わずイルカに急接近した弾みで、いかだに散乱していた本の一冊がボチャンと海へ落下した。
「ギャー! 商品が!」
慌てて海へ手を突っ込んだが、指は空しく水を掻いた。
使い込まれ色あせた、父のピンクのはたき。華麗に埃をまき散らし、風を切って唸るはたきによる、お仕置き一秒前の画像。脳裏を走る鮮明な記憶が桐花を慌てさせる。
「だめだめだめーっ」
言ったところでハーイと本が引き返してくるわけではないのだが、大声で沈み行く本を引き止める。
すると、不意に灰色の塊が本をさらった。コレ? と本をくわえたイルカが海中から見上げている。
「あっそう! それ! サンキュー、タクシー!」
するん、とイルカタクシーはいかだに上半身を滑り載せて、拾った本を届けてくれた。その目は明らかにまたフフフと得意げだ。
「うわあぁうあ」
可愛い! 賢い! 欲しい! の言葉にならぬ叫びを桐花は繰り返す。イルカも同意するように嬉しげにビチビチすると、期待一杯のつやつや黒目でびしょぬれの本をじっと見た。
……もしかして、「取って来い」をねだられているんだろうか。
桐花は本とイルカを交互に眺めた。
びしょぬれで歯型が付き、もはや商品価値など薪以下の本。
喜びといたずらな光とがくるくる巡ってキラめく無垢な動物の瞳。
変色したはたきを持つ父の姿は、あっけなく頭の隅から投棄された。投げては取ってくる、投げては取ってくる、その度にフフフと得意げな目をするイルカ。
「いいねタクシー! あっそう、そうそう上手だね! だめだめ渡して。いけっタク……もご」
いきなり大きな手に、口をふさがれた。
なぜこうなったのか。
戸惑いと怯えと好奇の視線を大量に浴びながら、桐花は座り込んでいた。
イルカタクシーと遊んでいた桐花は、それに乗ってきた若草青年によって口をふさがれ抱えられて、二頭立てのイルカタクシーで何やら立派ないかだに連行された。
発言と行動の自由、および説明を求めて暴れても、若草青年は甚だしく赤面した顔を背けるばかりである。しかし風に流され「ユピテラーイ、ユピテラーイ」とうわ言のように呟いているのは分かった。
この水上ゲル民族の、明らかに知恵袋なんだろうなという威厳と目力と妖怪度の高い老婆の前に座らされた。薄暗いが大きなゲル内は、豪華な刺繍が施された布で覆い尽くされている。
大ババ様、と桐花が内心で呼んだ老婆は、総白髪を後頭部で結わえている。すとーんとしたフェルト状の衣服は海を抱える岩山の色彩をそのまま写し取ったような、足元から青、緑、灰、白のグラデーションに染められいている。深いしわに埋もれそうな瞳は、老齢のためか、取り巻く人々より一段茶色く見えた。
若草青年は大ババ様の足元で深々と土下座してから、赤面のまま歯切れ悪く何やら報告しているようだ。耳を近付けて聞いていた大ババ様の眉間のしわが数段、深くなった。
「ユピテラーイ……」
老い枯れた声は、間違いなく呪詛だと桐花は思った。
「ユピテラーイ……!」
遠巻きにしていた、色とりどりのすとーんとした人々がどよめきながら呼応する。
「ユピ……ゴホガハッ、ユピテラーイ……」
「ユピテラーイ……!」
リピートアフターミー! と指揮する英語教師の姿がダブって見えた。
大ババ様が渋面で取り巻きの一人に指示を出す。真っ赤なすとーんとした衣服の大柄な男二人が頷き、桐花の腕を両側からガッシとつかみ上げた。
「やー! やだやだ何? 誰か説明して、本人抜きで話進めないでー!」
連れて来られるまではただ、わけもわからなかった。わからなくても、目に映る世界は単純にキレイだった。イルカは可愛かった。ここがどこで何が起きたのか、ただ、わからないだけだった。
でも今はわかる。何か悪意が満ちていて、暴力的な何かが待ち受けていて、痛くて凄惨な結末に呑み込まれかけていることが。
両腕をつかんでいる真っ赤なすとーんとした衣服の男たちが、周囲とは明らかに段違いの筋骨隆々とした体躯から、兵士であろうことも。
「離せー!」
暴れたところで、つかまれている腕の皮膚がねじれて余計に痛いだけだ。それでも、ごく近い将来に襲いかかるであろう痛みを思えば無視できる。
「やだ、助けて、誰かー!」
ゲル内にも、その外にも、人は大勢いた。しかし腫れ物を見る視線ばかりで、助けの手を差し伸べる気配など微塵もない。いかだの上で足を踏ん張ると、丸太の下で波がバチャバチャと騒ぐのが聞こえた。無駄だ、諦めろと言い含めるように。
三頭立てのイルカタクシーの、ぬらりとした灰色の背中へ引きずられていく。可愛いと思ったイルカも今は地獄への火車だ。
「トカ、」
涙と怒りに歪んだ視界に、若草色が混じり込んだ。イルカに乗って颯爽と現れた青年の着ていた、穏やかな春の色。
「イツオライ、エブリシンウィルビオーライ!」
イルカにまたがされながら気付いた。
今の、英語じゃなかったか?