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青い鳥ルーレット  作者: シトラチネ
青い鳥ルーレット
19/68

19. 謎の交換留学生

「おまえは行くな」

 誰かがどこかで叫んでいる。何重もの膜の向こうに聞こえる。心臓が頭にあるみたいに鼓動がひどくうるさい。一心拍ごとに脳が揺れる。

「おまえまで行くな」

 ついさっき主を見失った、皺の寄ったシーツの白さが網膜を焼く。波立つ海に見える。飛び込めば追って行けるかもしれない。

「桐花、私はおまえに用がある」

 追って行く? 行くんじゃない、帰るんだ。現実へ。元の世界へ。

「おまえにはなくても、私にはある」

 トカ、もう危険はないよ。わたしも帰る。帰りたいの。この悪夢は長すぎる。

「だから行くな。……なくて……」

「……え?」

 聞き直すことは出来なかった。

 いつものベッド。愛用の机。お気に入りのカーテン。

 クリスマスにねだった、目に優しい電気スタンド。ヨレたポストイットがはみだす学校の教科書。誕生日にもらったアンティークの万年筆。

 十数年を暮らしてきた自分の部屋に、瞬き一つで切り替わっていた。

 ガラスのはまった窓の外には桐の木、お隣の屋根、日向ぼっこしている三毛猫。

 見慣れた日常の風景。突発的事件など起こりようもない、のどかな昼下がり。

 自分を確認してみる。布団をつかむようにして、ベッドにへたり込んでいる。手元には読みかけの本が開いたまま。

 大好きな絵本作家のイラストの、使い込んで端がめくれた古びたしおりが落ちていた。幼い頃に父にうらやましげな目をされて、必死で書き込んだつたない自分の名がかすれている。

 これはあれだ。

 ぼんやりとしたまま自分の頬をひとつ叩く。

 本を読むうちに眠くなって首カックンする、身に覚えのあるパターンだ。うららかな午後に現れる、魔王級の睡魔に魂をいじられていたのだ。

 しおりをはさんで本を閉じ、ベッド脇の棚に追いやる。寝落ちするほど夢中で読んでいたはずなのに、ひどく興ざめした気分だ。続きを読む気にならない予感がする。

 部屋は何事もなかったようにシンと静まり返っている。

「……寝よ」

 悪夢は終わった。めちゃくちゃ疲れた。あれだけ長い夢を見てたら、脳も体も休まってるわけない。うん。夢だった。だって言うわけないよ。学者バカだもん。夢でしか存在し得ない異色の瞳の冷血漢。

 婚約者でなくていい、助手でなくていい。だからここにいてくれ。

 あんなこと、ラウーが言うわけない。



 四時半。

 カーテンと窓の隙間から漏れる光は弱々しい。アナログ時計を愛する父からのプレゼント、レトロなベルアラームは午前と午後を教えてくれない。

 どっちだろうと思いながら布団の中をもぞりと泳ぐ。コットンの優しい肌触り、うーん石棺とは大違い。しあわせ……いやいや、あれは夢だから。

 起き出して廊下を覗くと隣室のドアは閉まっている。両親は寝ているというサインだ。朝らしい。忍び足で部屋を出て階段を下りた。

 ダイニングテーブルにはラップをかけた小鉢が一人分、ちんまりと置かれている。メモもある。

『起きないので寝かせておきました。夕飯は冷蔵庫にあります。チンしてね。母』

 夕飯も食べずに爆睡していたらしい。十二時間ほどか。実に良く寝た。

 だけど、と桐花はまじまじと見慣れた母の字の、見慣れない母の字を凝視した。

 なんでコレ英語で書いてあるんだろう……。

 チン、から矢印が引いてあり、電子レンジの電源とあたためボタンまで図解してあるのはなんでだろう……。

 見回せば謎の大判ポストイットが部屋中に散りばめられている。

『冷蔵庫:食品を冷やして保存する箱』『テレビ:画像の映る箱。英語音声切替はリモコン(ボタンのいっぱいついた黒い小箱)の赤い丸つけたボタンを押す』『電話:離れた場所にいる人と話せる装置』

 などと、解説してるのはなんでだろう。英語で。

 おかーさんが英会話教室に通い始めたとか? あー、駅ビルの教室にイケメン先生が来たらしいとか、回覧板渡しに来た肉屋のおばさんと盛り上がってたっけ。うんソレだ。

 納得し、小鉢のラップをはがしにかかる。そこにもポストイットが貼ってある。

『海老団子です。血は赤くないから大丈夫だと思います。ご希望の食用虫ですが、蜂の子なら取り寄せられるかもしれません』

 えっと。もしかして、おかーさんが駅前留学したんじゃなくて。

 食事に関する思想に癖がある留学生を受け入れちゃったとか?

 あ、しまった。ラップから水滴が飛んで服に、団子の汁なんてついたらシミが……。

 団子汁が染みこんでいくワンピースを穴まで開ける勢いで見つめた。桐花が買ったものでもなければ、両親に買ってもらったものでもない。ふらふらと自室に戻ってクローゼットを開ける。

 真新しい、白い、すとーんとした服。

 数枚のうち一枚をハンガーから引きちぎるようにして手に取る。団子汁つきワンピースを脱ぎ捨て、白いすとーん服に着替えてみる。サイズはぴったりだった。

 ベッド脇に置いた、読みかけになっていた本を確かめる。英語だった。

 またよたよたと階下へ下り、洗面台へ向かう。桐花専用棚にヘアゴムが増えている。後頭部で髪をひとつに結わえれば、鏡に映るのは謎の留学生。

 恐らくトカという名の。



 もう一つ階段を下りれば書店の店舗部分で、事務室と休憩所を兼ねた小部屋に通じる。そこを抜けていけばレジカウンター、書架、書架、書架、自動ドア、防犯シャッター、商店街の道路となる。

 事務室の灯りをつける。ビン、と蛍光灯が鳴って明るくなる。三歩で到達してしまう対面の壁には店舗部分の照明スイッチと、そこへ通じるのれんが掛かった開口部がある。

 スイッチを入れた。藍染めのれんの下で静かにしていたタイル敷きの床が、ここぞと白い電光を跳ね返してくる。その少し乱暴なまでの明るさを、久しぶりに見たような気がした。

 目が慣れたところで、片手をのれんのスリットに差し入れる。手の甲でゆっくりと藍色の生地を持ち上げた。藍色と藍色の間から木製の書架が、色とりどりの本が現れ、本好きを酔わせる紙とインクの匂いが溢れてくる。

 レジはあった。

 だがカウンターがない。パイプ椅子にレジが載せてある。椅子の背には『カウンター紛失中につきご迷惑をおかけします』と貼り紙されている。カウンター周辺の書架はスカスカと、恥じ入るように奥の背を晒している。

 桐花は書架の間の狭い通路をゆっくりと歩き出す。背表紙を眺めながら、以前から売られていたのは知っていたのに、それらを初めて見るような気がしていた。

 画集。ああ、刺繍はこうやってコピーすればいい。絵に書き写して解説つけて。そういえば紙。製法を百科事典から翻訳しといてあげればよかった。万年筆も。つけペンじゃ長く書けなくて不便だった。

 でも金属が稀少なんだっけ。そしたらこれがいい、鉱業と環境の本。鉱山開発の歴史から精錬法、人体への安全性や環境問題の取り組みまで。

 図鑑。ウゲッあのイモ虫ってカイコだったのかな。ちょっと違うな、でも養蚕業の本は使えそう。女性労働者の過酷な実態が綴られた『女工哀史』がやけに同情の涙を誘う。六法全書とか労働問題の本とかホント泣ける。

 商店街の外れのささやかな本屋。

 桐花は足を止め、店内をぐるっと眺め渡した。狭いスペースを補うため、壁は天井まできっちりとオーダーメイドの書架で埋められている。最上段にも埃ひとつない。

 なんという宝物殿で暮らしてきたんだろう。

 書店の娘は、表紙に題名と著者名以外の刷られた本を持ったら駄目なんだ! と泣いて頼む父はまた、雑誌や漫画はコンビニに任せておけばいいんだ! と、売上貢献率の高いそれらのコーナーを最小限に留めていた。

 母は文句の一つも言わず、父のすりきれたエプロンを大切に手洗いした。色あせたピンクのはたきを前ポケに差したエプロンは、鎧と大刀にだって負けない父の戦闘服だったのだ。

 別の通路へ足を向ける。

 気象予報士試験テキスト。空軍は絶対欲しがる。地図。絶対いらない。けどこっちがいるんじゃないかな、地図学の基礎知識。

「あ、これもラウーが欲しがりそう……」

 軍事関連の本へ指を伸ばしかけて、背表紙に触れる寸前で動けなくなった。

 名前を言うんじゃなかった、と桐花は引っ込めた指で眉間を押さえる。それでたいてい涙は息を潜めてくれるはずなのに。

 だってバカみたいだ。

 いつの間にか腕の中に積み上がってしまった本を渡したら、あの指先がどれほどうやうやしく、大事そうにページをめくるか知りたいなんて。

 キッチリ翻訳した皮紙を読んだら、爽やかに自分の腸で首を吊れとのたまうあの唇が、どんな感嘆をこぼしてくれるか聞きたいなんて。

 あれほどあの生物兵器の射程から逃げ回っていたのに、茶と翡翠の異色の銃口を突きつけられたいと思うなんて。

 今この瞬間でさえ夢かもしれない。確かめる術なんてない。これは現実だよと百万人に言われても、それが夢じゃない証拠なんてない。

『桐花。おまえには夢でも、』

 信じればよかった。

『私には現実だ』

 非人道的台詞の機関銃でも、どんなに精神破壊力のある銃弾でも、確固たる信念が原動力だった。文明の風化という壮大な敵を陥落するためには外道にもなるリアリスト。

 彼の言葉を信じて、夢だと決めつけなければよかった。

「約束、破っちゃった」

 恐怖で縛るのではなく、報酬と待遇で応えてくれようとしていたラウーの信用を裏切ってしまった。血でなく知の時代が来たと喜んでいたというラウーをきっと失望させた。

 とっさに手に取った故事・偉人語録。ぱらぱらとめくるページの風圧で、雫になる直前の涙を乾かそうとする。

 偶然に開いたのはシェイクスピアの言葉。

『運命とは、最もふさわしい場所へと貴方の魂を運ぶのだ』

 キキイ、と細いブレーキ音がした。コトンとシャッターの郵便受けが鳴る。自転車のペダルを勢いよく踏み漕ぐ、ガシャリガシャリと力強い音がすぐに遠ざかっていった。

 光と招かれざる客を拒絶しびったり閉じられたシャッター。腰の高さの一枚には郵便受けが設けられていて、差し込まれた新聞は朝陽を招き入れている。天からの通知に思えた。

 自動ドアの電源を入れ、新聞を回収する。日付は最後の記憶より数日進んでいる。

『日本兵、七十年ぶりに帰還』

 小さな記事だった。

『昨夜、平和記念公園慰霊碑前で保護された男性は平良丈治たいら・じょうじさんと確認された。平良さんは大戦中に戦死したとみられていたが、市内の病院で無事に妹ら家族と喜びの再会を果たした。約七十年間の消息は不明』

「おじーちゃんだ」

 不思議と驚きも衝撃もなかった。安堵していた。喜びの再会という文字をなぞりながら、自分が微笑んでいるのに気付く。

 ジョージ・タイラー退役軍人、資料館の木彫り放浪僧風の妖木老兵、アダマス帝国軍の初代白魔。

 どうか、今の世の中が少しでも、彼の祈願した平和に近くありますように。

 この世界にはいるはずの八百万の神様に手を合わせ、目をつぶった瞬間。

「おやまーコワイ顔」

 少年とも少女ともつかない、間延びした声がした。

「えーまた君なのーもう諦めなよー7番世界の君が帰りたいって言うからトレードキャンセルになったのにー諦めなよーっていうか面倒、うあぁーふ」


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