18. パンドラの玉手箱
「おじーちゃんの出身は不明で、ジョージ・タイラーなんてバリバリ英語圏な名前だけど英語を話せなかった」
「そうだ」
じゃあ、と家庭用医学事典で調べたことを聞いてみる。
「おじーちゃんはもしかして、白血病か癌?」
中佐は答えなかった。質問の意図を厳しい顔つきで無言のまま問い返してくる。
「ラウー。わたしね、ヘ・ワキガがネイティヴなまりの結果じゃないかと思って、色々変化をつけて発音しなおしてみたの」
ヘー・ワキガ、ヘワ・キガ、などと発音してみせる。
「そしたらね。若きガウフがジョージ少年に出会ったときに聞いたのは『あなたは誰?』だったけど、少年はそれを『何をしているの?』だと誤解したんじゃないかと気付いたの」
脱走する直前。
眠りから覚めたとき、百科事典は参照した覚えのないページを晒していた。偶然に開いたものと思い込んでいたが、違うのではないか。資料館にいたジョージ・タイラー妖木老兵なら、百科事典に触れることができたはずだ。
焼け落ち、骨組みだけが残る円蓋。崩れた灰色の壁。前景に咲き誇る桜の枝と、痛々しい建物とがあまりに対照的な写真が載っていた。
「おじーちゃんがマザー・ガウフに助けられた1945年の夏、私の世界の私の国では、酷いことが起きたの。爆撃されたの。何十年も経ってからでも白血病や癌を引き起こさせる、酷い爆弾。おじーちゃんはきっとあの時そこにいて、あの世界に絶望した」
そして、トカと自分に起きたことが、ジョージ・タイラーにも起きたのではないか。
「火傷を負って岬で泣いてたおじーちゃんは、マザー・ガウフに素性を聞かれた。でも英語を知らないから、何をしているのか聞かれたと勘違いして、おじーちゃんは答えたの。ヘ・ワキガって。私とおじーちゃんの国の言葉でヘイワ・キガン、平和祈願、って」
「確認を取る。桐花、病院へ行くぞ」
言いながらすでに立ち上がっていた中佐が、閲覧室の入口で苛立ったように振り返る。不可視の腕で襟元をつかんでくるような、凄まじい強制力を持つ瞳。桐花は抵抗を試みる。
「待ってラウー。これが当たってたらわたし、」
すごく困る。
これが当たっていたら、この世界が夢ではない証拠になってしまう。
ジョージ・タイラーは熱に浮かされたような目をして、スマラグダス中佐が桐花の言葉を正確に再現するのを聞いていた。
真実はあるか? と訊ねられても表情一つ動かさず、灰白色の天井を見上げたまま。引き結ばれた唇は何も語ろうとしない。
「ラウー、出直したほうが」
桐花は老兵のベッドの足元で逃げ腰になる。が、中佐の眉間に彫られた深い溝に足がすくんだ。
「これほど長い悪夢は初めてだ、夢かどうか確かめる方法はあるか、とおまえは訊ねた」
「そうだけど心の準備が」
フローチャートをサクサク実行するコンピュータと一緒にしないで欲しい。
あるはずもない緊急脱出装置の発射ボタンを探し、目が病室内をさまよう。
「桐花。おまえには夢でも、」
べし、と中佐の両手に頬を挟み取られた。アタフタしてもデカい手はびくともせず、むしろ鼻がつきそうなほど覗き込まれる。
「私には現実だ」
大部屋のあちこちで咳き込んだり囁いたりしていた患者たちが、なぜか一斉にいびきをかきはじめた。
「記憶する必要性皆無のおまえの表情体温鼓動呼吸一挙手一投足一言一句の削除に失敗し続けるせいで軍務の効率が低下する、それが私の許しがたい現実だ」
生きてるのが許しがたいとか言われてるよ? そりゃ前の助手も壁から飛ぶよね、こんなパワハラ。
茶と翡翠の異色の瞳に睨まれ、シーツを叩いて老兵へ救難信号を発してみる。が、老兵まで顔を背けた挙句にいびきをかいている。検温に回っていた看護婦さえその場で昏倒して寝息を立てている。
組織ぐるみのパワハラ隠蔽?
「夢だと思って流されるのをいつまで黙認しろと? じらすのがおまえの世界のやり方か」
中佐は遠慮ナシに体を寄せてくる。獲物を捕らえた目。噛みつかれそうなほど近い、低く唸るような話し方は食欲を抑えているかのようだ。
そうかきっと空腹なんだ、そこにヘ・ワキガの真相なんか持ち出されて、なのに解明を渋られて、怒ってパワハラしてるんだ。心狭くない?
「私がそれこそ手を出して乱暴して現実だと教え込む前に観念しろ。これがどれだけの譲歩か身をもって知りたいなら、今すぐ空いてる個室を探してやる」
迅速に事実確認しないと病院送りにすると脅されている!
「いえその、結構です。ちゃんとおじーちゃんに訊くから」
言う通りにしてるのに、何で舌打ちするんだラウー!
一斉に睡魔に襲われたらしい患者たちは、なぜか一斉に覚醒したようだった。続々と残念そうなため息があちこちで充満する。
何か悪い病気が蔓延してるんじゃないだろうか、この病院。
やけに物騒に事実確認を迫った中佐の魔手から逃れると、桐花は老兵の枕元に立つ。
「ジョージ・タイラーさん」
深呼吸して覚悟を決めた。
「わたしが初めて資料館に行ったとき、あなたは問いかけてきました。どこから来た? って。わたしが資料館や街でなく、この世界そのものに戸惑ってることを、自分の経験に照らして知ってたみたいに」
老兵はそれこそ枯木に化けたような黙秘の無言を貫いている。
「ミス江藤の発音も見事でした。母国語ならば当然です」
ダメか、ならばと桐花は日本語に切り替えた。
「これが夢じゃなきゃ困るのは確かです。だってラウーにファーストキスをカツアゲされたんですよ! このままじゃダルジ大佐に処女まで奪われます。でもその場合、現実だったらもっと困ります!」
無反応。乙女の危機もスルーか。弟子も薄情なら師匠もだ!
桐花は考える。何か老兵の心を動かせることを。老兵の……。
ふと、疑問だったことを思い出した。
戦争を疎んでこの世界に来たなら、なぜ帝国軍に志願したんだろう。平和を祈願しながらまた戦争に身を投じたのはなぜ?
『まんず人を殺さねえ。戦争は平和に至る嘆くべき通過点、とまあ公言はしねえが、そういう心持ちのお人でさ。戦場じゃあ、撃つのは兵士じゃねえ。兵士が乗る鳥の方を狙い撃ちなさる』
一刻も早く、犠牲を出さぬよう、戦争の終結に貢献しようと?
『あなたは誰?』
『平和祈願』
英語が話せなくても傷を癒す間、一ヶ月も話しかけられているうちに、おじーちゃんは名前を誤解されていると気付いただろう。それでも訂正させずにいたのはきっと、平和祈願の体現者たろうとしたおじーちゃんの決意。結果が白魔としての名声。
ほとんど無意識のうちに、歌は自然とこぼれ落ちていた。政治的、思想的な様々な論議に、元来の歌詞を忘れられがちな歌。平安を祈る歌。
「きーみーがーよー、は……」
桐花には特別な思い入れなどない。むしろ学校行事や国際試合のアクセント程度にしか感じたことがない。けれど何十年もの年齢差があっても共有できる平和祈願の歌を、桐花は他に知らない。
「ちーよーにー、やーちーよーに」
落ち窪んだ老兵の目から濁りが消えた。一切を拒否して貝のように頑固だった顎が震えだす。
「さーざーれ、いーしーの」
褐色の肌を涙がぼろぼろと滑り落ちていく。老人の体のどこにそんな泉が隠されていたのかと驚くほどの。
「いーわーおーと、なーりて」
「……こ、け、の……」
老兵の喉がかろうじて息を吸い、小さくかすれる声で続きを継いだ。
それが答だった。
「む……す、ま……で」
桐花は老兵の、布団の上に投げ出されていた手を握った。弾力はなく乾いていて、でも温かい。全身から力が抜けてしまい、その場へしゃがみこむ。
「あの街には」
日本語だった。桐花は涙の間から、どうにかハイと答える。
「桜が・・・・・・咲くように・・・・・・なったんだなあ」
百科事典の写真を思い返す。焼け落ちて骨組みだけが残る円蓋、崩れた灰色の壁。そして前景に咲き誇る桜の枝。
「はい」
「あの焼けただれた街が……なあ」
「はい」
「はかないばかりじゃあなく……命というのは、かくもたくましい」
言葉を返せず、ただただ老人の手を握り締める。
ここは夢じゃないのかもしれない。トレードは発生してた。経験者が他にもいた。トカのように、世界から逃げ出したいほどつらい思いをした人が。
「帰りたいねえ……」
陶然とした呟き。
「帰りたいなあ……」
不意に桐花の指の間から、温かい存在は消えた。
「なっ」
中佐の短い叫び声に顔を上げる。
ジョージ・タイラー退役軍人は忽然と姿を消した。ベッドにほんのりとした体温と、枕に染みた涙だけを残して。