17. 苦悩するコンピュータ
ほどなくしてスマラグダス中佐と、会談中だったというダルジ大佐も駆けつけた。
資料館の入口に出来た野次馬の輪が割れ、堂々とそこを突っ切ってくる二人の姿を見た途端に桐花の目に涙が溢れた。
「おじーちゃん、大丈夫だよ。ラウーもダルジ大佐も来てくれたからね」
伝えると、腕の中でこわばっていた老兵の体からも力が抜けたようだった。ぐったりした老兵を中佐兼軍医に預ける。異色の瞳は桐花を一瞥もせず、痩せこけた老人の体を手早く調べ始めた。
「ラウー、おじーちゃんを助けて」
「私はそのためにここにいる」
簡潔に確実に請け合った軍医は左上腹部を触診し、脾臓の腫れが進行しているなと呟いた。
「肉腫も増えている」
「おじーちゃんがヘ・ワキガなの。壁掛けは盗んだんじゃないって、誰にも見せてないって」
診察する手は一瞬も止まらない。患者に注がれる真摯な目がすがめられるのだけが見て取れた。
「……ジョージ・タイラー退役軍人、1945年9月志願入隊、出身不明か。時期は合致する」
わー便利なコンピュータ、検索機能ついてるよ。帝国軍人データベース入ってるよ!
「全員ではない。彼は私の弓の師だ」
読心機能まであるよ。っていうかワキガ発見に少しは驚けっ。
「俺の師でもあるな。初代白魔だ。ラウーの方が兄弟子なんで、態度がでかいけどな」
一歩退いた場所からダルジ大佐が横槍を入れてきた。口調は軽いがいつもの朗らかな笑顔は消え失せている。成す術もなくそわそわと老兵を見守るさまは小さな子供のようだった。
恐らく本当に小さな子供の頃から。老兵に中佐をあの子と呼ばせるほど小さな頃からの師弟に違いない。
「ごめんなさい」
ぐずぐず泣いていたことに気付いて、桐花は慌てて涙を拭った。
「お二人の方が、わたしよりよほど心配だろうに」
「交際の長さが心配の深さと涙の量に比例するなら、おまえに涙を流す資格はない」
嫌味も皮肉も、感情もない一言だった。反応さえ求められていないようだった。体温を感じさせない横顔は彫像より雪像に近い。
「ビスコア、担架を」
「ダルジ大佐と呼べっての」
老人の体がそっと担架へ移されている。
「桐花」
ようやく中佐の視線が桐花へ振り向けられる。平静な氷の視線。恩師の急変にも揺らがない落ち着きは薄情さでなく冷静さであって欲しいと、桐花は願いをこめて見上げる。
唐突に頬に、次いで唇に口付けを受ける。
このやろー大佐の前だからって、こんな緊急時にも婚約者パフォーマンスか。落ち着きすぎだ薄情者ー!
「泣いておけ。祈りだとわかっている」
耳元で小さく囁いた唇は、すぐに離れた。睨む間もなかった。
「ダルジ大佐、先頭を行って下さい。あなたほど露払いに最適な人材はいませんので」
「大佐って呼んでても扱いは変わんねーな……おい野次馬はどけどけ、道を空けろ!」
警備兵が運び出す担架に付き添う金属鎧の背中。頬に残る温かな感触をさすりながら、桐花はそれを見送っていた。
いいなあ、と思う。
老兵と中佐は互いに一言も言葉を交わさなかった。なのに老兵は信頼して体を預けたし、中佐は桐花に祈れと頼んだ。心配していい、泣いていいのだという意思表示は例の裏返し毒舌だったけど、泣いておけなんてきっちりフォローをして。
フォローされなくても理解してたのに。ケツの穴だのドクター・ルテナンカーネルだの、中佐内桐花知性メーターが激しいマイナスから始まってるだけに信用されてないらしい。
それだけ祈って欲しかったということ。
あの無慈悲の権化が。おまえの体が壊れても痛手ではないと乙女に通告し、しかも迷いなく実行する中佐が。なにこの差。
この世界にはいないかもしれない八百万の神様に手を合わせ、老兵の回復を祈りながら、意地悪中佐の表現を真似てみる。
読心機能つきのコンピュータは存在しない。
翌日、ジョージ・タイラー妖木老兵は軍の病院で小康状態を取り戻したという。体調に配慮しながら聴取した結果を、中佐は桐花に教えてくれた。
当時、他国から渡ってきたばかりのジョージ少年は英語が不自由だった。生活のため、ネイティヴを占領下に置いた直後のアダマス帝国軍に入隊する決意を固めたものの、恩を仇で返すような行為。乙女ガウフに礼も決意もうまく伝えられない。
黙って去る形になり、その際に思い出にと壁掛けを持ち去ったという。だが壁掛けの刺繍に鷲の調教法が縫い取られているなど夢にも思わなかった。以来、壁掛けは誰にも見せたことはないそうだ。
「帝国軍の鷲の調教は、軍が独自に開発した。カラスからの移行期が重なったのは偶然の一致だ。だからスパイではない、逆恨みだと言っただろう」
「言い方が悪いよ……」
と桐花は日本語で呟く。イモ虫に食われたくはない。
ネイティヴの中で調教に携わるのは集う家。中佐はその家長に、集う家の口承と軍の調教法とが根本的に異なることを証言させ、マザー・ガウフのジョージ少年スパイ疑惑を晴らしたそうだ。
七十年近く封印されていた壁掛けは返却され、少年の成れの果て・妖木おじーちゃんを、乙女の成れの果て・大ババ様が見舞ったという。
「壁掛けが玉手箱みたい」
「タマテバコ?」
未翻訳日本語書籍の山の中に、運良く浦島太郎の絵本が紛れていた。解説する。
「神話に度々登場するタブーの一種だな。開けてはならない、見てはならない。そうした禁を犯すと災いを受けたり別離を強いられたりなどの罰を受ける」
「あー、あるある。冥界とか黄泉の国とかから奥さんを連れ戻そうとしたけど、振り返っちゃいけないのに振り返っちゃって全部パーになるパターンね!」
「理性を破壊する愛情は人生を破滅させるという教訓だな。マザー・ガウフが寛大に許しておけば、ネイティヴと帝国軍の関係改善はもっと早期に進んでいたものを、愚かな」
と、軍ひいては文明のためなら乙女を足蹴にするのも躊躇ない参謀マシーンはバッサリ切り捨てている。
恋でバカをしちゃうのは若さの特権じゃないか。その恋さえろくにしたこともない桐花だが、このままでは中佐内の全乙女株が下落どころか額面割れする。
「でもホラ逆に。初恋の乙女心に左右されるガウフだからこそ、許してもらえた今はその一存で刺繍を貸してもらえて、文明の欠片が再結晶化できちゃうわけでしょ」
乙女株価はもち直さなかった。
他人を踏みにじるために存在しているような無駄に長い足を高く組んだまま、中佐は白けたような顔をしている。
ラウー・スマラグダスは妻が冥界に召されても、連れ戻し中に振り返ったりしないし、そもそも連れ戻しにも行かないに違いない。むしろ冥界へ蹴り落とす。それ以前に妻がありえない。なにしろ婚約が文明に捧げる助手確保手段である。
「ネイティヴの生産に関する情報提供に同意を得た。タイラー師とマザー・ガウフの面会直後に契約させた」
再会を餌にサインさせたのかー乙女心を利用したのかー鬼だーこのヒト鬼だー。
「ダルジ大佐の花嫁候補は選出を開始するそうだ。それから、桐花」
丸く収まりつつあるが、何かが引っかかる。首をかしげて聞いていた桐花は急に名を呼ばれて背筋を伸ばした。
「はい?」
「おまえに対する民族的制裁は忘れるそうだ。身の安全を脅かされることは二度とない」
もう海に流されずにすむらしい。安心のため息をついた。
「うわーよかった、ありがとう! 交渉してくれたの?」
「流されたければ翻訳が終わってから申し出ろ。船の穴くらい開けてやる」
そうだった。ネイティヴよりむしろこの鬼上司の方がよほど身の安全を脅かす要素だった。
君の命は守り抜く、私の仮にも婚約者だからね、スウィートハート。という発言は期待していないが、それにしてもと別種のため息が出る。
「ところで」
ため息が北極寒気団へ衝突し、あえなく凍結粉砕された気配がした。
資料館の閲覧室の天井は採光のため、半透明の薄黄緑色をした石で出来ている。黄金色を帯びた陽光はさんさんと晴れやかに降り注ぐのに、部屋の体感気温はぐんぐん下降している。
「妙な噂を吹聴するな」
すらりとした長身の体躯。ひと房だけ白を染め流した淡い金髪。パーツも配置も申し分ない顔。一見、人畜無害な青年はその視線だけが、一瞥で猛禽も凍死する凶器である。
桐花は凶器の有効射程から逃れるべく目を逸らし、相席するベンチの最大限はしっこにジリジリ逃亡した。
「ええと……妙な噂って?」
何の心当たりもないが、それにもかかわらず仕打ちを受ける理不尽には心当たりがありすぎる。
「この一日二日で、軍でも街でも鬼畜を見る視線を受けるようになった」
「それは妙な噂でなく純然たる事実です」
しまった本気で言っちゃった。
「今までは恐怖や警戒のみだったが」
サラッと肯定したよ?
「好奇や興味や羨望さえ混じるようになった」
「何か不都合が?」
「なぜ私が服飾デザイナーに機能性の欠片もない女性用下着を勧められたり、組む家に使ってもいないベッドの強度や寝室の防音性を心配されねばならないのかと訊いている」
知るかー!
桐花がクエスチョンマークを大放出しているのを、中佐は感じ取ったらしかった。額に指先を当てて呻いたあと、諦めたように息をついてどっかりと腕を組んでいる。
「私がおまえに」
「はあ」
「酷い乱暴を働いたと誤解されている」
「誤解じゃなくて事実です」
鷲厩舎放置、石棺監禁、脅迫恫喝、あの無体な仕打ちと言葉の数々が乱暴でなければ何なんだろうか。全世界の賛同を得られる自信がある。
「その乱暴ではない、私がいつおまえに手を出したというんだ」
「手どころか足とか膝だって繰り出されてますけど!」
ベンチの端同士にいたはずなのに!
あっという間に中佐の体の下に押し込まれていて、桐花は何が起きたかもわからなかった。ベンチの上に組み敷かれ、脚は軍服の膝に押さえ込まれ、手首は痛いほどにつかまれている。
額が触れるほど覗き込んでくる中佐の瞳に、桐花は妖しい光を見る。
「無知は罪だ。手を出す乱暴を演習してやろうか?」
低い囁き。
桐花は動けなかった。圧倒的に支配する力の差。確かに兵士であり、男であることを証明してくるような封じ方だった。
「ラウー」
いまさら、と桐花は思う。
いまさらこの人に真の恐怖なんて感じない。コンピュータで鬼のくせに、拘束してくる指も、脅す言葉を吐く唇も、温かいと知ってしまっている。
「でも、血のやり方は本意じゃないんでしょ?」
冷たく燃えていた異色の瞳が一瞬、揺らいだ。
「警備兵が教えてくれたの。白魔が何なのか」
タイラー師が初代白魔って? おっしゃる通りでさあ。
あのお人は入隊直後から普通じゃなかった、そう語り継がれてんでさ。
まんず人を殺さねえ。戦争は平和に至る嘆くべき通過点、とまあ公言はしねえが、そういう心持ちのお人でさ。戦場じゃあ、撃つのは兵士じゃねえ。兵士が乗る鳥の方を狙い撃ちなさる。
それがまあ正確なこと。しかも速えこと! 敵機が白い腹を出して次々と墜落してくさまがもう、戦場に大雪を降らせてるみてえだってんでね。白魔の由来でさあね。
タイラー師が退役する頃にゃ、その一番弟子のスマラグダス中佐がまた、師匠の上を行く白魔っぷりでねえか。
この資料館はな、中佐が私財で建てなすった。血より知の時代が来るってのは、タイラー師の口癖でさあ。弓の腕も、お心も、中佐は一番弟子ってこってすなあ。
「……またか、おまえは」
ポイと手首を放り出される。覆いかぶさっていた金属鎧がシャラリと鳴って、ベンチの向こう端へ退却していった。
桐花は知の時代万歳、と無裁判処刑を免れた喜びを噛みしめながらもぞもぞ起き上がる。
「辞書の時もだ。自身の危機になぜ、私の理念などに構っていられる?」
口調は穏やかだ。質問の形をした言葉はむしろ困惑か驚嘆に聞こえた。部屋は突然の暴挙の跡も残さず、一転して温かさに満ちている。
「辞書の時?」
「まあいい」
自己解決するな、こっちはモヤモヤしたままなのにー! まあいい、とか珍しく歯切れ悪いし。そうだ、モヤモヤといえば。
桐花はきちんと座り直す。
「話は変わるけど結局、おじーちゃん……じゃなくてジョージ・タイラーさんがヘ・ワキガって名乗った理由って?」
「白魔は人を落とせない、か」
「は?」
「いや」
これまた珍しくふてくされたような不機嫌な表情をして、息をひとつ吐いて、中佐はまた何か自己解決したようだった。
「不明だ。質問したが回答は得られなかった」
桐花は百科事典に触れる。
脱走する直前、眠りから覚めたときに百科事典が開いていた。参照した覚えのないページ。偶然に開いてしまったものと思い込んでいた、そこには写真が刷られていた。
焼け落ち、骨組みだけが残る円蓋。崩れた灰色の壁。前景に咲き誇る花の枝と、痛々しい建物とがあまりに対照的な写真だった。
「わたしね、わかっちゃったかもしれない……」