16. 思い出の外でも生きてました
「中佐さんが、姉さんは記憶喪失って」
現実にはもう消えてしまったはずの妹。
「あれだよね、酷い事故に遭ったとか、頭打った人とかに起こるっていう」
記憶を留められない幼い頃に父の腕に抱かれ、病院の窓越しにしか会うことのかなわなかった妹。
「大丈夫だからね姉さん、よくあるよくある! でもえっと、もしかしたら妹のことは覚えてるかもって」
自分よりはるかに母に似た大きな目、柔らかな輪郭、健康そうな唇。桐花は思わず抱きついた。
「わあ良かった、覚えてるんだね!」
「ううん覚えてない。でも知ってる」
そっか、と返事は微妙だったが、桐花は腕が優しげに背中に回されるのを感じた。
メキョ。
ギャーイタタ、肋骨が鳴ったー!
「ああっごめん姉さん、あたしってばもー! 組む家の悪い癖なんだ」
慌てて解放してくれたレンカは自分で自分の腕をメッとお仕置きしている。
「組む家?」
「そう、ゲルを作ったり組み立てたり。この街だと何て呼ぶのかな? えっとー、そうだ大工! だからほら、力が強くてゴメンネ」
えへっと困り眉をしながらレンカは袖をまくり、力こぶを披露する。
しかし桐花は腕のこぶより、胸の山がはるかに衝撃だった。すとーんとしたネイティヴ民族衣装でも、セクシーブティック店長マリポーサに負けないラインがくっきりと形作られている。
「うはー、すごいプロポーション」
「姉さんったら、やだもう!」
ばしーんと肩を叩かれて、桐花はドア枠に激突した。星を散らしながら激突相手の石柱にすがりつく桐花をよそに、レンカは両手で覆ってしまった顔をぶんぶん振っている。
「あたしの不器量は昔っからでしょ! 姉さんみたいにすとーんとしてたら良かったのにい!」
桐花には石柱激突よりも、すとーんの一言が痛かった。
「ここに来るまでの間にも何度も胸やお尻を凝視されたの。いくら不細工だからってひどーい」
半べそだ。どうやら本気で言ってるらしい。
組む家の着る服は大工という都合上、動きやすいよう工夫されていた。基本的にはネイティヴ民族衣装なのだが、袖がなく裾には深いスリットが入っている。スリットはゲルの骨組みを連想させる斜めの格子状に紐でかがってある。
豊かなスタイルでこのチャイナドレスと網タイツを足して二で割っちゃったような服を着ていれば、男性陣に凝視されるのは当然と言えた。
「母さんが恨めしい。あたしも姉さんみたいにすとーんって産んで欲しかったなー」
すとーんを連呼するな。妹より発育が遅れている姉が惨めじゃないかー!
……遅れてるだけだよね、もう成長止まったとかないよね?
母さんという単語が出たので、桐花は両親について聞いてみた。二つ前の冬に二人とも精霊の御許へ、とレンカは寂しそうに答える。
非現実とはいえ少なからずショックな桐花だったが、代わりに妹がいるんだし、と思い直した。
「それでね、姉さん」
目尻を濡らしたままだったが、レンカはニッコリ笑った。
「中佐さんがね、あたしを呼んでこのお屋敷の内装を任せてくれたの。姉さんの好きにしていいって! あたし半人前だしゲルしか組んだことないって言ったんだけどね、構わないって。えへへ」
ああ、これって悪夢じゃなかったんだと桐花は思う。
夢は夢のかなう場所でもあるのだと。
「やーん、ベッドが枠しかないー! 姉さんここで寝たの?」
寝室の石棺状態のベッドを発見し、レンカは激しく嘆いている。
「中佐さんたら、助手をお屋敷に住まわせてくれるのは気前いいけど……」
「ううん、ちょうどよかったかも。初めて泊まったのが昨日だし。ほら、汚しちゃうでしょ」
海水に浸かったりしてシワの寄った、鉤裂きまであるボロボロ服を示してみせる。たちまちレンカの、母そっくりの形のいい唇がフルリと息を呑んだ。
「ええっ、姉さんってその……夜も助手してるの?」
翻訳が終わるまで眠るな、と言われて桐花は夜も働かされた。頷く。
「そお、そっか、だから助手なのにお屋敷に住まわせてくれたりするんだね、そっかー!」
何やら妙な興奮をして頬を染めるレンカも激しく頷いている。
「うんうん、初めては汚れちゃうって聞くしね! でもさすがに石の台の上で服のままって……」
柔らかい手に手を包まれる。
メキョって指の骨が鳴ってるからー!
「大丈夫だからね姉さん、あたし腕によりをかける!」
ツヤンとした黒い瞳が覗き込んできて、また桐花の指がペキと悲鳴を上げた。
「どんなに激しく暴れてもヘタらないベッドに作り上げてみせるから、だから助手のお仕事がんばって!」
そう言われるほど寝相は悪くないつもりだった。
だが、よいお仕事はよい睡眠から。
妹の家族愛を感動と共に受け止め、桐花はレンカとじっと見つめあった。
大工や内装業者なら、城塞都市下にいくらでもいるだろうに。わざわざ未熟な妹を指名してくれた中佐に、桐花は言わねばならないと思った。
湿布をください、と。
妹と積もる話をしてみたい桐花だったが、腫れてきた指と翻訳作業が心配で資料館へ向かうことにした。そう告げるとレンカの眉がぱっと曇る。
「気をつけてね、姉さん。城門のあたりに嫌な人いたから。あたしのコトすんごい馬鹿にして! 嫁候補が増えたとか俺を知らない女がいたのかとか、心にもない台詞でからかって!」
ものすごく聞き覚えのある言い回しだ。
「アダマスの人って意地悪だよ、スタイル悪いのなんてほっといてくれればいいのに! あたしアダマス人とは絶対結婚しないんだからー!」
可愛い妹を泣かすとは何事かー!
レンカが二度とダルジ大佐に会わずに済むようにしなければと心に誓った。
マリポーサ一味が残していった服の中からシンプルで動きやすそうなワンピースを選ぶ。サイズはぴったりだ。靴もあった。ぴったりだった。下着もあった。ぴったりだった。桐花は悶え死にそうになった。
形状記憶されている!
実のところ自分が翻訳するより、中佐に日本語を教えた方が早いのではと思っていたのだ。
しかしそうなったら今まで桐花が放った日本語の悪口の数々に気づかれる可能性がある。意味はわからずとも発音や口の形を記憶されているかもしれない。
そうなると早まるのは効率よりも自分の死期だ。
資料館に着くと仁王像な警備兵が扉を守っていた。脱走した時にも警備していた兵に、桐花は見覚えがあった。桐花の姿を視認するなり、ぎょろりとした目がギラン! と異様な光を放った。
怒られる!
身をすくめた桐花の足元で仁王が土下座した。
「頼んます! 逃げないでくだせえ、おれは、おれは死ぬより怖えことがこの世にあるたあ知らんかったんでさ……!」
石敷きの地面から煙が立ちそうなほど、額をすりつけて懇願される。
「あんたさんに逃げられたと知って、ス、スマラグダスちゅ、中佐ははははアハハハ」
「すみませんすみません、怒られたんですね」
「笑ったんでさあ!」
咆哮に近い一言に、何事かと寄って来ていた群衆がどよめいた。
「血より知の時代が来た。そうだろう? と笑顔で肩ポムされて、おれは漏らすしかできやせんでした!」
男泣きする仁王警備兵をヨシヨシし、逃げないと約束してから資料館へと入った。
血より知。
その一言で、中佐の一連の行動が腑に落ちた気がした。
きっとこの国は過渡期にあるんだ。武力で制圧してきた国家が、法で民を統べようとする途上に。
翻訳をさせるために最初は恐怖を、次に生理的嫌悪感を与えたのは血のやり方。それでも脱走され泣いて抵抗され、豪華な服と家のプレゼントに転換した、と……。
ラウー、その解決法は知じゃなくて金だー!
「知とか言うなら、マザー・ガウフの初恋事件だって調べてあげればいいのにね。脅さないでさ」
ぶつぶつと日本語で文句を垂れる。
カシャン、と胸を騒がす硬質な音が響いた。
閲覧室の隅でインクを詰め替えていた妖木老兵の手から落ちたインク壷は、石の床に染みを広げていく。心に侵入した不穏と同じ色をしていた。
「おじーちゃん?」
「ガウフ……ガウフがいま、マザーなのか……」
普段よりもう一段階、乾いた声。インク壷を逃した、関節の曲がった指が震えている。
「おじーちゃん、まさか」
曲がった小さな背、刈り込まれたゴマ塩頭、深く皺の刻まれた褐色の肌、開いているのか判別できない伏せ目。老兵の年齢は明確でなくとも、マザー・ガウフの乙女時代に彼が少年だったろうことは想像できる。
桐花は老兵へ詰め寄った。
「あなたの名前は!」
「わしは……ジョージ・タイラーだが……」
アジア系の顔して思いっきりアングロサクソンな名前かー!
「なんだー。ヘ・ワキガかと思ったのに」
「ワキガ……」
「マザー・ガウフから刺繍の壁掛け盗んで消えた人。軍に情報を流したんだって。それを恨んでるからあのババ様、帝国軍に反抗的らしいよ。タイラーさん、インク拭く雑巾とかない?」
返事をしない老兵の腕に手をかけて、桐花は異変に気づいた。
「タイラーさん、顔色悪い。熱ある? わわ」
がくりと膝を折ってしまった老人を慌てて抱える。老人の軍服の膝に青黒いインクがたちまち染み込んだ。
「警備兵!」
熱い、小さな軽い体。命の灯火をゆらゆら脅かす風から遮るように、桐花は老兵を抱きとめていた。入口から顔を覗かせた仁王警備兵へ怒鳴る。
「警備兵、ラウーを。スマラグダス中佐を呼んで、早く!」
「ミス江藤」
老人の発音の良さに驚く。中佐に教え込まれたのだろう、老兵はきちんと桐花の名を呼んだ。
「盗んだつもりは……思い出にと……誰にも見せてはおらん」
何十年もの時を経て錆びついていた歯車が動き出す、きしんだ音がした。