15. 珍客万来
「おっ、朝のお帰りか嫁候補! めでたいなー、飲め祝いの酒だ!」
大佐ご一行は軍港内の酒場では飽き足らず、岸壁近くまで酒や料理を持ち出して騒いでいたようだ。
満潮は階層構造になった岸壁の最上段にぴったりと海面を寄せていた。ダルジ大佐の筋肉だらけの腕が伸びてきて、シャチから桐花をヒョイとさらった。
ニカッと笑われると猛烈に酒くさい。
「いえ、その、何もめでたくは」
関係修復した恋人同士がするという乾杯どころか、人生で一番おぞましいものを見てしまった。闇にうごめく巨大イモ虫を思い出し、桐花はつい肩を震わせる。
「どうした嫁候補、泣くな! あーラウーおまえ、こんなに服を引き裂きやがって」
周囲で飲み狂っていた兵士たちが、急に額を寄せ合ってヒソヒソしだした。
「いえ、これは捕鯨銛の……」
「あの時の服のままか? 脱がしてももらえずに? むしろラウーの銛で再現プレイか?」
「いえあの、服がこれしか」
「着替えナシってことは外か。着せたまま外で泣くまでか。さすがに悪趣味じゃねーか、ラウー」
確かにあのイモ虫は悪趣味だった。桐花は頷く。兵士たちがどよめいて、中佐に鬼畜を見る目を向けている。実に正しい行動だと桐花は感激した。
「かわいそーになあ、疲れ切った顔してんじゃねーか。ほら食え、飲め!」
そういえば前の食事からずいぶん時間が経っている。泣いたのも手伝って急速に空腹になってきた。桐花は大佐が押しつけてくる食事に、いただきます! とかぶりついた。
「桐花」
シャチ方面から凪いだ、恐ろしく平坦な声が流れてくる。兵士たちの手から石杯が滑り落ち、粉々に割れ散る大合奏が響き渡った。
「今朝の思い出は私たちだけのものだ、いいな?」
マザー・ガウフとの会談を漏らしたらイモ虫まみれにされる。桐花はガクガクと首を縦に振った。
「私はシャチを返却してから戻る」
鬼畜判定の操るシャチが華麗に波をさばいて消える。後姿を見送っていた大佐が、いきなり桐花の肩を抱き寄せた。
わわ、と桐花が弾みで落としかけた肉っぽい何かに気を取られた瞬間。視界は磨かれた銅色の肌と波打つ黒髪に遮られ、べろんと鼻先を舐められた。
「なっ、なにふるんれすか!」
とっさに身を引いても、マッチョな腕はむしろ桐花を引き寄せた。耳元で囁かれる。
「処女だ」
「ええええっ?」
しまった、と思ったときは遅かった。くっきり黒い眉の下で、悪ふざけが得意な瞳が朗らかに笑っている。
二回も同じカマかけて、何が楽しいんだろうこの人は!
二回も同じ反応する自分も自分だけど、と桐花は熱くなった頬をこすった。
「俺の嫁になっても助手の仕事を続けていいなんて言ったら、アイツどうする気だろうな?」
コンコン。
意識にねじ込まれてくる硬質な音。桐花は体を丸めながら、あと五分と答えた。
コンコンコン。
「おいでですわねー?」
あと五分。
コンコンコンコン。
「いらっしゃるでしょ、ミセス・スマラグダス?」
ちょっと待てーい!
ガバと身を起こし、桐花は玄関へと突進した。寝室を抜け、ホールを抜け、ええいこの広い家め! と悪態をつきながら玄関扉に取りつく。
軍から私に貸与されている部屋がある。自由に使え、と中佐は言った。軍港から連れて行かれたそこはどんな独房かと思えば、部屋どころかまるまる一軒の家、家どころか屋敷だった。
全く使われた気配のない屋敷の寝室のベッドは石枠しかなく、五人は詰め込める石棺に見えた。それでも満腹と疲労、嘆かわしくも経験済みな石棺就寝体験によって、桐花はそこで眠りに落ちたのだった。
立派な錠を外して半透明な鉱石製の扉をゴゴゴと引き開け、訪問者を出迎える。ラテン系の艶やかな黒髪を結い上げ、しなやかな眉とバッサバッサと音を立てそうに密なまつ毛を従えた美女が立っていた。
「違います」
「あら」
と言う割には驚いた様子も見せず、年齢不詳の美女はのんびりと首を傾けた。身にまとった黒いセクシードレスのビーズが、昼下がりの陽光を受けてキラキラと光る。
「こちらはスマラグダス中佐のお屋敷ではありませんの?」
「そうですが、わたしはミセス・スマラグダスではありません!」
美女はにっこりと完璧な笑顔をした。
「では、ミス・スマラグダス?」
「違います!」
「それではやはりミセス・スマラグダスね」
確信犯的に断言されて桐花は黙る。何を言っても太刀打ちできない気配がムンムンと漂っていた。
「わたくし、マリポーサと申します。旦那さまからプレゼントが届いてましてよ」
マリポーサとその仲間たちが運び込んだ衣類の山に、桐花は唖然とした。
「ぜーんぶミセス・スマラグダスのお体に合うよう、仕立ててありますわ。採寸させて欲しいとお願いしたのですけれど」
ブティックの人らしい。あか抜けた娘たちを目配せひとつで動かすさまで店長クラスだと窺えた。
「旦那さまったら」
「違います」
「旦那さまったら素敵ですの。いきなりチョークを手にして、店の壁にミセス・スマラグダスの等身大の立ち姿をお描きになったんですわ。実際にお会いしたら寸分違わずで」
旦那さま否定を華麗にスルーし、マリポーサ以下ブティック一同がくすくす笑う。
「それでも特にバストは女性の死活問題ですもの。バストだけでも採寸したいと申し上げましたら、旦那さまはこう、」
と言ってマリポーサは片腕で優雅に中空を抱いた。まるで大切な誰かの背に手を添えるように。
「こうなさって、この胸と腕の内寸を計れとおっしゃったんですの。これまた寸分違わずで」
桐花はつい先刻、採寸していった娘たちがキャーキャー騒いでいた理由を知ってめまいがした。
「たっくさんの生地の中から迷いもなさらずに、肌の色はこれ、瞳と髪の色はこれ、とお教えくださって」
幽霊船の搭載物を一品残らず記憶した実績があるが、それでも桐花は中佐の記憶力の恐ろしすぎる正確性に呆れた。
「おかげでこうして色もデザインもサイズも、ミセス・スマラグダスにぴったりな品をお届けできた次第ですわ」
マリポーサが自信たっぷりに頷くだけあって、衣装の数々はどれも桐花の肌色になじんだ。滑らかな肌触りが無言で上質さを誇っている。
「こんな高そうな服でなくてもよかったのに」
「愛、謝罪、顕示」
詩を詠むようにたっぷりした唇が歌う。
「男性が女性に服を贈る理由はそのどれか一つか、二つか、全部ですわ。ならば女性は微笑んで身にまとってみせるのが粋というもの」
翻訳料です。と桐花は内心だけで正解を答えておいた。
衣装という翻訳料の中に桐花はふと、見覚えのある澄んだ明るい翡翠色を発掘する。
「お気づきになりまして?」
ふふふ、とラテン美女は妖艶に笑う。
「旦那さまの左目と同じ色でしょう? そのドレスをお召しになればご夫婦で並ばれたとき、本当に、本当に映えましてよ。旦那さまの左目にはミセス・スマラグダスだけが映っているかのようで」
右目の茶色はどう説明を? と桐花は突っ込みたかった。そもそもドレスアップして中佐の脇に立つ機会など訪れるはずもない。クローゼットの最奥決定だ。
「それにしましても」
うふり、とマリポーサは一段と色気のある光を瞳に乗せる。
「夜ごとにそのようになされては、わたくしはお針子を倍にしなければなりませんわね」
そのように。と言いながらマリポーサのねっとり視線は、桐花の股付近の鉤裂きを検分している。
「旦那さまは夜もハードワーカーでいらっしゃる」
「はい、それはもう休む間もなく」
食事も睡眠も休憩もろくにせず、昼夜を問わず働いているのは確かだ。桐花は力強く頷いた。
「中毒なんです、間違いなく。早死にするんじゃないでしょうか」
過労死という概念はこの世界にはないらしい。桐花の答を聞いてなぜか爆発的にキャーキャー騒ぎだす娘たちを眺めて、桐花はそう結論付けた。
「それではミセス・スマラグダス、今後もどうぞごひいきにね。今夜も旦那さまを殺してさしあげてね」
大量の衣類と誤解の山を築いてマリポーサ一行は引き上げていった。
ミセス認定をどうにか訂正せねばと心に決めつつ閉めた扉が、またコンコンと鳴った。ラテン美女が忘れ物かと扉を開けた桐花の前に立っていたのは、髪も服もネイティヴの女性。
二、三年ほど前の自分に良く似た顔をしていた。
「トカ姉さん!」
桐花は一人娘だった。
だが、生まれてすぐに天国へ召された妹がいることは知っていた。蓮花というその名も。
母にも似た優しげな目が戸惑い気味に、それでもはっきりと愛情をこめて笑いかけてきた。
「中佐さんから聞いたの。わたしのことも忘れちゃったかなあ? 妹のレンカ!」




