13. 恋人たちへの愚問
「恋人同士が関係修復した夜に何をするかなど、愚問というものだ。そうだろう、桐花」
ダルジ大佐主催の競艇はダルジ大佐艇の勝利に終わった。酒場を飲み干すぞー! と気勢を上げる上司の脇を、スマラグダス中佐はあっさり戦線離脱する。
どこへ行くと咎める大佐に中佐は桐花を抱き寄せ、こめかみにキスまでしながらそんな宣言をした。
恋人同士が何をするんだろう乾杯とか? と考えつつ桐花はハイと笑顔を作ってみせる。
周囲の兵士たちは、いい女があそこに! とか、おっ石貨が落ちている! とか、女性も金も見あたらない謎空間を目指してジリジリ移動していた。
その不穏な輪の中心で、大佐はフーン? と楽しげに笑っている。
「ちょっと鼻貸せ、嫁候補」
意味がわからずにいるうちに、桐花の鼻先は銅色の指先にニュッと潰された。
「な、なんれすかっ?」
大佐は桐花の鼻を触った人差し指をぺろりと舐めた。完全にいじわる少年な勝ち誇った笑顔だ。
「処女だな」
「ええええ!」
桐花は両手で鼻を押さえて飛びすさる。
なんでわかるんだろう? どうなってれば処女なんだろ? しかも何でいまそんな話になるんだろう!
「はははは、素直でいいねー」
うがー! カマかけられた?
「可愛がってもらえよー、嫁候補。比較対象があるほど俺も寝盗り甲斐があるってもんだ。まあ、寝盗るまでもないか?」
遠ざかろうとしていたはずの兵士たちが唖然として振り返っている。
皆さんお待ちください、唖然として凝視すべきはラウーじゃなくて、フラチ発言した大佐の方ではないでしょうか!
ぐるぐるする桐花の肩を生ける脅威の手がミシリと鳴らす。桐花にはそれが、誘導尋問に自白した罪で処刑宣告する裁判長の木槌に思えた。
「どうかご心配なく、私の貞淑な婚約者はあなたの戯言に穢される耳さえ持ち合わせていません。急ぐぞ、桐花」
振り返ってしまった兵士をメドゥーサより確実に行動不能にさせてから、中佐は早足で歩き出した。
「ええと、ラウー、急ぐって何をかなー」
乾杯を、処刑を、そっそれとも!?
バクバクする桐花は肩を抱かれた腕からそれがバレそうに思えて落ちつかない。このやっかいな拘束を外せないかとモジモジ身をよじってみる。外れない。困って腕の主を見上げる。
白金色の月光の中、異色の瞳はいつになく真剣に桐花を貫いていた。
「仕事だ。マザー・ガウフを締め上げる」
そうだった、脱走する翻訳機にしか思われてないんだった。とはいえ。
花の乙女が腕の中で不安がってるというのに、老人虐待宣言する仮にも婚約者ってどうなんだ。大佐の視界から出た途端、腕からもポイと放出されたし。それこそもう袖の埃を払うより軽く。
いやこれが本性だって知ってるけど落差が。ノンストップな無体な扱いより、婚約者パフォーマンスを間に挟まれる方が精神的ダメージが。
歩調さえ一切の容赦が消えた。大股でザカザカ飛ばす中佐の後を、桐花は小走りさせられる。服に開いた余計な穴を海風が抜けていく。
「着替えたいんだけど」
「被害者は惨めなほど有利な取引条件に使える」
仮にも婚約者を直腸検査可能な服で街歩きさせるのかー! っていうか取引材料扱いかー!
「でもでもラウー、見てコレ」
桐花は服の無残な鉤裂きを広げてみせた。太腿見えてるけど夜だし軍医だし気にならないはず、それより服の悲惨さを訴えねばと思ったのだ。
ようやく軍医兼中佐の足を止め、注意を得られて桐花は満足した。何でも与えると約束した中佐の視線が鉤裂きに注がれている。わずかに泳ぐ瞳は直腸検査効率の計測でもしているのか。
「そうだな、確かに私のミスだ。口に捕鯨銛を刺し直す」
ラウー・スマラグダス中佐の虐待暴露本・口封じ編に書かねばと桐花は思った。
「約束は約束だ。交渉が終われば調達する。急げ、大佐が派手に帰港したせいでマザー・ガウフは船を回収されたと気付いただろう。動揺しているところを叩く」
回収したのはわたしじゃなくて船なのか! 暴露本・パワハラ編に書かねばと桐花は思った。
中佐は揺るぎない足取りで、軍港の中を突っ切っていく。岩を切り出して作られた岸壁には貴重な木材を駆使した帆船が整然と並んでいる。帆を収納されたマストは無数の十字架のようで、大きすぎる白金の月を背景にゆらゆら揺れている。
書店の娘は礼儀正しくないと駄目なんだ! 色あせたピンクのはたきを指揮棒のように振って熱弁する父の姿が脳裏をよぎる。
静穏な景色が桐花を謙虚にさせた。
「あの、ラウー。ごめんなさい。助手を受けると約束したのに、逃げたりして」
デーデに逃げようと言われたときの後ろめたさ。これが原因だったのだ、と思い当たる。約束を破った。父の名を汚してしまった。
「約束したから信用して閉じ込めなかったし、資料館に一人にしたんだよね」
幻滅されただろうか、失望されただろうか。
前を行く背の高い金属鎧は振り返らなかった。ただ一言、呟いたのが海風に運ばれて聞こえた。
「私の見込み違いだった」
桐花の心臓がピクンと冷たく縮まる。
「鞭が生ぬるかった、ということだ」
今までの非人道的行為な鞭の数々を思い返しながら、暴露本・暴虐編に書き足す羽目になりませんようにと桐花は祈った。
軍港の端は海がプールか養殖場のように岩で囲まれていた。大小、大きさの違う円形プールがいくつか並んでいる。手前の一つの海面から、足音に反応したイルカがぴょこんと顔を出した。
「わーい、イルカに乗るの?」
「自分でわざわざ沖から呼び寄せた鮫に食われたければ、乗れ」
否、で済む返事をなぜそうややこしく、嫌味ったらしく出来るのか。ケッと息を吐く桐花をよそに、金属鎧は一段と大きなプールの前で足を止めた。ヒュッと短い口笛を吹く。
笛に応えてプールの海面が盛り上がった。イルカにしては巨大すぎる波の山が割れ、現れたのは月光にツヤリときらめく黒い背中。白いアイパッチと腹。シャチ。
「小型船舶に対しては魚雷として使用する。イルカに乗るネイティヴには示威としても有効だ。占領時代の名残で民族衣装を威嚇するが、襲いはしない。はずだ」
モシモシ、わたしその民族衣装を着てやしないか。文末に不安を煽る単語がくっついていなかったか。
賢そうなシャチ目にジットリと睨まれている気配を感じるが、桐花はがんばって見返す。恐怖を嗅ぎつけられてはいけないと、その恐怖に晒している張本人が言っていた。なんだこの矛盾!
「時間がない、後回しだ。乗れ」
何を後回し!
警戒心満載のシャチの、背びれ前に設置された鞍へまたがってみる。プールの水門を開けた中佐がひらりと背後へ跳び乗ってきた。
シャチは黒塗りベンツの趣で、月光が輝く道を作る海面へと泳ぎだした。湾の中央のネイティヴ居住地へと舵を切る。
桐花は老人いじめの共犯にされかけている我が身を嘆いた。
「わたし、これほど長い悪夢は初めて」
ぽつりとこぼす。
「夢かどうか確かめる方法ってある?」
訊きながら後部座席を振り返る。悪夢の象徴は無表情のまま、下に立てた親指で首を掻き切るジェスチャーをする。それで目覚めなければ現実だ、翻訳終了後なら見届けてやるとトルコ石のように血の通わない瞳が語っていた。
関係修復した仮にも婚約者同士が何をするか。
息の根を止める相談だった。