12. 大嘘も方便
「あなたの花嫁候補ではありません。私の婚約者です」
発言の主を除く乗員すべてが氷結した。
鮫に食われる準備が出来たら異議をとなえろ。という聞こえない後半が雪女の指のごとく、乗組員の背筋をヒタヒタと撫でる。
「ゆえに可愛がる必要などない。帰港するぞ。面舵いっぱい、縦隊を各船舶に連絡しろ」
「イ、イエッサワワワ」
動揺しててもそこは軍人。兵士たちは叩き込まれた反射で軍令に反応し、瞬時に甲板は動き出す。
連絡の火矢を上げる者、マストに駆け登り帆を調整する者。しかし射手は汗だくなあまり手元が狂い、マストに火矢を撃ち込んでいる。別の兵士が落ち着け! と叫びながらそこに油をかけている。
ただ二人だけが動かず、一人だけが動けずにいた。
だぱーん! と大波が来て、船首に陣取る大佐の背後で砕け散った。
「へーえ?」
黒髪に縁取られた銅色の肌。軍服でなければ海賊の頭領でも遜色ない。口角がお宝発見の海賊風にニヤリと持ち上がる。
「助手じゃなくて? 婚約者? 俺の嫁候補が、ラウー。おまえの婚約者?」
「そうです」
黒雲を突き抜けてきた月光より冷たい視線のまま、水平線よりフラットな口調で続けた。
「些細な痴話げんかが原因で死んでやるという彼女の戯言を、集う家のデーデが真に受けて手助けしたようです。個人的事情で軍まで出動させたことをお詫び申し上げます」
「ふはっ。ぶははははは!」
ダルジ大佐が帆を張ったロープをバンバン叩いて爆笑する。
あまりの勢いにロープが外れ、頭上で帆を調整していた水兵がアアアアーと叫びながら暗い海へ落ちていった。別の兵士が救助用フローターを投げたが、動揺のあまりよろめいて後を追った。落ち着け、これにつかまれ! と別の兵士が血のしたたる鯨肉を投げている。
「おまえの学者バカもここまで来たか! 助手を俺の嫁にされたら困るもんなあ! だから先に横取りか、見え透いてるぞラウー! 俺の参謀がその程度か!」
「あなたでなく軍の参謀です」
「だめだ、面白すぎる。ラウー、見てみろ、俺の嫁候補のポカーンとした顔を。胃まで覗けちまうぞ。どんな悪夢でもありえないって顔だろ!」
「すまない、桐花。驚かせた。これほど早く公表する予定ではなかったが」
中佐が大佐に背を向け、桐花の前に片膝をつき、顎にそっと手をかける。その手は大佐の死角に入るとグイグイと胃まで覗ける口を閉じさせた。グイグイついでに舌を噛み、痛みでようやく桐花は我に返る。
「ラウー、あの、」
ここでは婚約者という単語が使用人とかドレイとかって意味なの?
可愛がる必要がないって、むしろコキ使っていいぞとかいう意味なの?
本気で確認したい。
「桐花。機嫌を直して私にキスをくれないか」
桐花の全身に寒い鳥肌が湧く。背筋から始まって脳天で折り返し、背筋を駆け下りてつま先で折り返す無限ループ。苦虫と砂利を一緒に噛んだような顔をしたのは間違いない。またグイグイと修正させられる。
続いたのはほとんど息だけの小声だった。
「帝国軍中佐の助手の誘拐および殺人幇助、軍鷲の器物損壊……デーデを鷲の餌にしたいなら断ればいい。翻訳が終わるまででいい、脱走するな。何でも与える」
茶と碧の異色の瞳。桐花は交互にそれを見つめた。
脅迫されてる。
なのに、この人はなぜこんなにキレイな目をしてるんだろう。
愛情なんてひとっかけらも持ち合わせてないクセに。助手の身の安全は二の次で、翻訳する頭さえ残っていればいいクセに。遺物オタク、文明の狂信者、人格破壊者のクセに。平気でこんな汚い闇取引をするクセに!
なぜこんな、理念に澄み切った目をしていられるんだろう。
もしかして配慮?
脅迫まがいの取引の形を取ってでも、痴話げんかだなんて凄まじい恥をみずからかぶってまで。帝国軍とネイティヴとの全面衝突を回避し、全てを水面下に丸く沈めようという配慮?
なにその似合わなさすぎる独断温情裁判! 顔を近づけちゃうじゃないか!
中佐の目尻に安堵と温度が載ったように見えた。
「とりあえず、契約成立だ」
とりあえず。
それは桐花のNGワードだった。この長い長い悪夢はその軽い一言で始まった。憎むべき無責任と怠惰の象徴だった。桐花の中でざあっと黒い砂嵐が巻き上がる。
配慮撤回! 温情撤収! 脅迫確定!
形のいい中佐の下唇の端めがけて、桐花はガブッと噛みついてやった。大佐からは中佐の背で見えないのをいいことに。
「……おまえの世界ではこれがキスか?」
噛みつかれたまま唇を歪め、中佐が息だけで呪詛を放ってくる。
これくらいで文句言うな! こっちはファーストキスだ! ファーストキスが脅迫された挙句の、怒りにまかせた結果の噛みつき行為だなんて、乙女が血の涙を流してるんだぞ!
桐花は心で号泣した。
それにしても不思議な触感。食感? 出来たてプリンに吸いついたような。そこまで柔らかくないか。この張り、この滑らかさ、このしっとり感に近い食べ物ってなんだろう。
「おまえの世界のキスでは、男は食われてなくなるな」
確かにカマキリ界ではそうだけど。
「何でも与えると約束した。まずは私の流儀を授けてやる」
与えるって押し付けるって意味かー! デカ猫布団とかじゃないのかー!
抗議しかけた口元を、頬にあったはずの指でビシ、と弾かれ思わず噛みつき解除する。
しつけを施した指は急に優しさを含んで目尻を、頬を、顎をゆっくりそっと撫でていく。触れるか触れないかの繊細さ。
まただ、と桐花は思う。視線は破滅的に冷え切っているのに、指先は驚くほど温かい。ずるい。
「目を潰されたければ睨んでいろ。こうだ」
あ、違った。
唇もあったかい。
「事情をご理解いただけましたか、大佐。ネイティヴの花嫁候補ならいくらでもご用意しましょう。祀る家のセデは比較にならない美女と言われていますよ」
待て、比較って誰とだ!
「えー。やだね。このまま横取りされて終わりじゃ男がすたる!」
それよりあっさりポイ捨て放置するな、仮にも婚約者を! ずぶ濡れで、股に捕鯨用巨大銛を挟んだままなんだぞー!
「横取りとは事実に合いません。三回目になりますが、最初からあなたの花嫁候補ではありませんと申し上げています」
「うわ、覚えてるよコイツ。いやー楽しいね、楽しくなってきたね! おっしゃー野郎共、陣形を横隊に変えろ。一番乗りで帰港した船には酒と女をおごるぞ! おおー帆を張って風を受け、舵を取って波を切れ、進めアダマス帝国軍チャッチャラー!」
「イエッサー!」
色を変えた火矢が放たれると、月が雲をおしのけて見物を始めた。縦列だった巡視船が横並びになる。帝国軍の紋章を染め抜いた帆が張り巡らされ、たちまち船たちは加速して疾走しはじめた。ずらりと並んだ船が波頭を切り裂いて競うさまは壮観だ。一路、港へ。街へ。
「桐花」
裾に刺さった巨大銛を抜こうと、甲板に座り込み格闘している乙女を尻目に、中佐は微動だにしない。
「軍から私に貸与されている部屋がある。自由に使え」
監獄の独房が思い浮かんだが、桐花は一応礼を言っておいた。
「あのー仮にも婚約者なら、ひざまずいて銛を抜いてくれても」
「ああ、これは私の失態だな。愚痴を聞きたくなければ口を射抜くべきだった」
桐花はニッコリと営業スマイルを作った。翻訳終わったら暴露本書いてやる、と日本語で宣告しておく。
「でもわたしが部屋を使ったら、ラウーはどこで暮らすの?」
「執務室がある。そこで睡眠も食事も休息も可能だ。だから」
一瞬より短いわずかな時間、中佐は言い淀んだ。
「だから伝えておけ、心配無用だと」
誰に? という問いを断固拒否するオーラが中佐の眉間から湧き出ている。なにこのおぞましいシャイ・ガイ・モード、と桐花は二、三度瞬きした
……ああ、そっか。百科事典を翻訳した皮紙、読んでくれたんだ。よかったね、資料館の妖木おじいちゃん。きっと、前より悲しまなくて済むようになるよ。わたしも嬉しい。だから寝落ちした乙女には毛布かけてね。
一瞬より長く逡巡した気配の後、中佐はつかつかと距離を詰めてきた。何事かと警戒する桐花の服の裾を踏みつけて一気に銛を引き抜く。ビリビリってギャー、直腸検査に使えそうなヤバいスリットが前後に! 検査しそうな目で眺めるなーいくら軍医だからって!
「大佐が見ている」
「え?」
大佐の軍艦マーチはマストのてっぺんから聞こえるけど、あんな所から見えるなんてどんなオペラグラス内蔵?
マストを見上げようとした桐花の前にキラピカ鎧が立ちはだかる。デカい掌は桐花の視界を片手で簡単に奪った。
「仮にも婚約者だ、演技しろ」
ラウー・スマラグダス中佐流キスの講義は、先刻ほど機械的ではなかった。
ここまでたどりついてくださって、ありがとう!
まずはひと区切りのつもりなんですが。
キーワードの「R15」と「ほのぼの」が泣いている! 「恋愛」もか? 続きでがんばりたい(希望するのは自由だー