11. 殺人的人命救助
行方不明者発見の火矢を確認したのだろう。巡視船らしき小型帆船が続々と集結する。だが荒天による衝突と鮫を警戒し、沈みかけた桐花の小船を遠巻きにするだけだ。
多数の船に当たって波は干渉を起こし、複雑さを増す。桐花は船べりにつかまり、落ちないようにするだけで精一杯だった。救助しようとする船が近づいただけで転覆するだろう。
なんてことだ、これだけ人も船もいるのに。縄抜け脱出ショーが鮫の生き餌付けショーに変更されちゃうのはイヤだ!
「おー生きてたか嫁候補!」
風吹きすさび波うねる不気味な薄暗闇に、陽光の一閃のごとく快活な声が響き渡った。ひときわ大きな帆船を通すため、小型帆船たちが退いていく。
船首のバウスプリット。帆を張るロープを固定するため前方へ長く伸びた太い棒に、デカい兵士が立っている。特大のトーチを掲げる姿は海神のごとき威厳だ。
「ダルジ大佐!」
頼もしい! 何とかしてくれると思える!
「うへー鮫来てるよ! 食えばウマいが食われるのはマズいな、ハハハ」
「愛想笑いが欲しいなら、私以外の前でお願いします」
わー冬将軍きたー。何かさせられると断言できる。
桐花はダルジ大佐の後方、船首に立つスマラグダス中佐が暗くて見えないフリをした。
「で、俺の参謀。どーすんだアレ」
「あなたではなく軍の参謀です。この状況で救助は絶望的ですね」
おやフォークを落としてしまった。という台詞にだって、もう少し憐れみが含まれているぞ!
「鷲がいれば網を持たせて低空飛行させ、つかませるという手段があったのですが。厩舎に睡眠煙を焚き鷲を使用不能にしたのは、デーデ。貴様ら集う家の仕業だろう」
ダルジ大佐の足元、帆船の喫水線付近にデーデがいた。トカの不在と火矢に気付いて駆けつけてくれたのかもしれない。またがるイルカが鮫と、鮫以上に凶悪な何かに怯えてピリピリしている。
「あれは……トカを追跡させないためとマザーに言われて! まさかこんな……」
「鮫のおとりになるくらいの仁義もないなら、反省も後悔も自慰と同じだな」
「くそっ!」
中佐の口調は挑発ではなかった。ただ恐ろしく平坦に感想を述べたにすぎないようだった。それでもデーデは顔を上げ、背筋を張った。手綱を引かれ、イルカが恐怖と興奮にビチビチと尾で海面を叩いた。
「あ、つい汚い言葉を。精霊よ許したまえ。トカ、助けに行くよ!」
「待って。来なくていい!」
あと一回大きな波にはたかれたら、転覆する。あるいはその大きな波が来る前に浸水して沈む。いずれにしろ、時間はなかった。
水風呂のような小船の中で、桐花は何とか立ち上がる。足を踏ん張り、勢いをつけ、デーデめがけて投げつけた。
「イルカ、Fetch!」
「わああっ」
条件反射のように、イルカは投げられた玩具を取りに海中へ潜った。放り出されたデーデが大きな水しぶきをあげる。ぴょこんと海面へ戻ったイルカの口には、和英辞典がちゃんとくわえられていた。
「デーデ、それをラウーへ。もう一冊!」
英和辞典も投げる。
たも網でデーデの手からすくい上げられた二冊の辞典が、中佐へと渡る。大佐の持つ巨大トーチの明かりにそれを確認して、桐花は胸をなでおろしかけた。
だが瞬間、鮫があちこちでビクッと背びれを震わせた。数多のトーチの暖色も熱も吹き消すような冷気が渦巻いている。
桐花は冷気発生源から精一杯首を背けた。
「なぜ投げた」
わーい怒ってるよ! 人類の叡智の結晶とやらをズブ濡れにして投げたりしたから!
「ごめん、でもビニールカバーついてるしケース入りだし、あまり被害はないかと!」
ビニールなんてこの世界にはないだろうけど、察してくれ!
「なぜ投げた?」
あっ、お気に召さない答でしたか?
「ごめんなさい、誰かが翻訳に使うと思って!」
「なぜ投げた!」
なんて答えて欲しいのかわかりません先生!
「ビスコア!」
ばしーん! と音高く、人類の叡智の結晶とやらが甲板に投げつけられる音がした。せっかくナイスピッチングで渡したのになんてことするんだー! 文化遺産の番人はどうしたー!
「鮫の注意を逸らせ。ありったけのトーチを海へブチ込め。鯨油のものがいい」
「ダルジ大佐と呼べっての」
「水兵、捕鯨用の銛を持って来い。軍曹、私の弓を。桐花!」
鮫退治してくれるらしい。兵士たちが走り回る様子を眺めていた桐花は、怒鳴りつけられて飛び上がった。
「はいっ?」
「合図する。死にたくなければ海へ跳べ」
「はいっ?」
聞き間違いだよね。鮫がウヨウヨして、トーチが海面で燃え広がってて、高波がザッパンザッパンしてる海へ飛び込めと? 入水しろと? 自分の腸で首を吊れ的な?
「水兵、次の大波の山までカウントダウンしろ」
「6、5、」
見間違いだよね。ラウーが銛を、あろうことか捕鯨用の巨大銛を、あろうことか弓につがえて、あろうことかこっちを狙ってるんだけど! 辞書を投げた処罰かー! 介錯つきかー!
「桐花、おまえの体は壊れても痛手ではない」
知ってます。
「3、2、」
「だがおまえの中身に用がある。跳べ!」
ぴょーん。
ぴょーんというのは気持ちだけで、現実はかけ離れていた。
水の抵抗でうまく跳べず、傍目にはきっと、人から大の字形になった物体が斜めに転落した程度にしか見えなかったと思う。
それでも跳んだと言えるなら跳んだ途端、足をすくわれ投げ飛ばされたかの衝撃と共に海へ打ちつけられた。肺の空気が一気に叩き出される。次の瞬間には落ちたのと逆の方向へ、ものすごい勢いで引っ張られた。頚椎がゴキッていったゴキッてー! うわ海水が口に鼻にゴババババ。
不意に、消防車の放水を浴びるかのようだった水の圧力が消えた。咳き込む。咳き込みながら思う、なんだろうこの妙な浮遊感は。なんで目をひんむいてるデーデの顔が逆さなんだろう。首の骨が折れて霊が出ちゃったのかな。
「回収したぞ!」
足元で、わあっと喚声が上がっている。足元? 足元に目をやると足の間、字で言えば太の点、すとーんとしたネイティヴの服の裾を銛が貫通している。先端の巨大なかえしが生地をガッチリ引っかけている。持ち手にはロープが結ばれ、そのロープは帆船の舷を越え、甲板の兵士たちの手にあるようだ。つまりは。
船首にブラブラと逆さ吊りにされている。
むしろ処刑じゃないか。回収と言うならせめて甲板に上げてください、と桐花は心で泣いた。
「うはっ、ひさびさに見ちゃったなー白魔の矢。捕鯨銛をあの速度で撃ち出すうえに一発勝負であの精度って、鬼だね鬼。そう思うだろ嫁候補!」
船首のバウスプリットから、大佐が朗らかに声をかけてくる。トーチに負けない明るい笑顔。助かったんだ、と実感が湧いてくる。
それにしても、銛があと数十センチずれたら串刺しじゃないか! うんわかる、串刺しがイヤなら鮫に食われろとか答えるんだよね、あの人。串刺しの上に鮫に食われたかもしれないけどね。
だけど、なんだろう。妙に悲しい。
「むっ? おい嫁候補が泣いてるぞ、引き揚げろ!」
「イエッサー!」
兵士たちの掛け声に合わせて、体は一段、また一段と上っていく。足や腕を力強くつかまれ、甲板へと下ろされる。打ち捨てられた辞書が放置されている。涙が止まらない。
「ご無事で何よりです、トカさま!」
「ああっお怪我を! お手当てつかまつります、トカさま!」
「そそ、おまえら、俺の嫁候補だから可愛がれよ!」
「イエッサー!!」
自業自得だとわかってる。それでも。
私の助手です、と訂正されないのがこんなに悲しいなんて。