10. 繰り返す、これはマジックではない!
寒い。でもあと五分。ちゃぷんちゃぷん、うるさい。でもあと五分。顔に水しぶきかかった、冷たいなーもう、でもあと五ふ、
「ん……?」
闇夜でもわかることはある。波に揺られている、風が唸っている。固いものの上に寝ている、ひとけがない。わびしい状況らしい、でも、と桐花は思った。
起こされずに起きるなんて久しぶりだ! 目覚めた直後に命の危険が鼻先で大口を開けている、そんなことないんだ!
……ないよね、とつい首を回して金属鎧の有無を確認する自分が嘆かわしい。
ジャプンと衝撃を伴う波の音がして、足に水がかかる。反射的に足を引きつつ起き上がる、起き上がろうとした。
出来ない。
頭は動く。腕がおかしい。分厚い雲にねじ込まれた月光が、かろうじて状況を教えた。
石を抱かされている。頭ほどもある石。辞典らしき本も。それらとまとめて、ぐるぐるに縛られている。
ごおっと風が騒いで桐花の体は横滑りし、すぐ壁にブチ当たった。小さな船にいるらしい。ぶつかった背中に冷たいものがどっと流れ込んで、桐花はヒャッと海老反った。
浸水している。
問一、船に浸水するとどうなるか。答、沈没する。
問二、船が沈没する時、縛られているどどうなるか。答……
「うそっ!?」
目覚めた直後に命の危険が迫っている。やはりそんな目覚めだった。
精一杯首を伸ばして、潜望鏡のように船のふちから外を見る。大きくうねる波と、黒雲に存在を消されかけた月のおぼろげな輪郭。いかだゲルや街はおろか陸地もない。桐花の潜望鏡の回転範囲外にあるのかもしれない。ないのかもしれなかった。
どくんどくんと、心臓が音高く不安を全身へ送り出している。
最新の記憶を呼び出してみる。紫の洞窟。マザー・ガウフと兵士。一度死者の船に乗れば、戻ることはならぬ。鯨たちの霊を鎮めるため、我らも差し出さねばならぬ。精霊の嫁よ、海の精霊の元へ!
恐らく、トカを精霊の嫁として生贄にする計画が立てられていた。そのトカは気が触れ、帝国軍人と一緒に幽霊船に乗ったりしている。これはもう色々とひっくるめて、サッパリと海へ流してしまおうじゃないか。イエース大ババ様。おやこの娘、重り持参ですぜ。
事態を理解するほどに桐花の血が冷えていく。
これまで何度も死ぬかと思った。鷲のサッカーボールにされたり、生き餌にされかけたり、安全ベルトなしの急降下で空へ投げ出されそうになったり。
だけど死ぬ「か」と思っただけだった。
籠で守られていたり、生き餌や人間爆弾の回避方法を一応忠告する中佐がいたり、死は半透明の壁を隔てた向こう側で惜しそうにしているだけだった。
いまは死ぬ、と感じている。
そのための重り、そのための船、そのための場所に、独りで放置されている。死の手へ引き渡そうとする明瞭な意志によって、この装置は作られている。
桐花は身震いした。死の装置にだけでなく、それを発動してしまう強い意志に。おまえが消えても構わないのだという意志を、これほど明確に突きつけられたことはなかった。
ちゃぷん、ちゃぷんと打ち寄せる波が桐花の命まで削り取る手かのようだ。岩を砂に変えるように、少しずつ、でも着実に。
月は雲の向こうで知らぬ顔を決め込んでいる。桐花の心にまで闇を落としている。
涙が溢れる。恐ろしさと悲しさに打ちのめされる。泣いてしゃくりあげたところで、事態が一片も好転しないという容赦のなさにも。
『鷲の餌になりたいなら、そのまま寝ていろ』
不意に頭の中で声がした。
『生き餌にされたいなら、そうして恐怖を振りまくことだな』
中佐の声。
『生きたまま死者の世界へ行かれるのを見送るだけです』
中佐という地位、それに見合うだけの実践を重ねたはずの軍人の声。
あれは、と涙を飲み下しながら桐花は思った。あれは生き延びる心得だ。場をしのぐために取るべき行動を裏返して言っているんだと思っていた。それもあるが、それだけじゃない。
行動を起こせ。恐れるな。諦めた時点で死んだも同じだ。己を助けるのは己のみ。
「それに、」
と口に出してみる。
「本を翻訳しないで死んだら、死んでもネチネチ言われそうだし。……やだなソレ」
しゃべったら実感できた。大丈夫、少なくとも今はまだ生きてる。
「よし」
船の骨組みを背中で探す。体に巻きつく縄を木材の角に引っかけ、ずらしにかかる。幸い足は自由になる。狭い船の両脇に足をつっぱり、縄へ圧力をかけた。石と本と抱かされている前側も試す。勢い余って滑り、肘にヂクリとした痛みが走る。割れて削れた木の破片が刺さったようだった。それでも続ける。
沈没船縄抜け脱出ショー。挑戦者一人、観客一人。
「指導、ラウー・スマラグダス中佐」
強い風と波にあおられて、重りをつけられていても転がされる。そのたびにイモ虫のように這いずっては体勢を立て直す。徐々に、船の内部にも波が立ち始めた。海水を飲まないよう、首をねじって空を向く。浸水が進んでいる。
突如、闇夜にホイッスルが鳴り響いた。
「生きているか!」
どこからか野太い声がする。
「紡ぐ家のトカか?」
「は、はい!」
正確に言うと違うのだが、違いますオヤそれは失敬と去られるのも困る、とにかく返事をした。
「行方不明者発見、位置連絡の火矢を撃て!」
桐花は亀のように首を伸ばす。船べりの向こうの大きな波に、小型の帆船が見え隠れしている。甲板にいくつかの明かりが揺れている。トーチを掲げた人影は鎧を着ているようだ。パシュ、と軽快な音と共に、夜空高くへ火の玉が放物線を描いた。
「やった! これで俺らの隊は安泰だ!」
兵士の影が抱き合って狂喜している。
「資料館前の警備兵は中佐のひと睨みで失禁したらしいぞ」
「全域捜索の緊急配備命令を出した時の中佐には、俺だってイキそうになった」
「おっと回収しないとヤバいぞ、あの船。沈没が先か転覆が先か」
回収したいのはわたしじゃなくて船なのか。
風にさらわれ途切れ途切れながら、兵士の会話は桐花をゲンナリさせた。
助けが来た、という安堵も虚しい。むしろ恐ろしい。ラウー・スマラグダス中佐は絶賛ご立腹中のようだ。どうせなら、川に洗濯に出たおばあちゃんに拾われたかった。あっでも結局は鬼に立ち向かわなきゃいけないのか。
魂ごと息を吐き出したら、縄がするりと緩んだ。嘆息で胸腔が縮んだらしい。ばちゃばちゃと、浸水した海水を跳ね上げながら体をよじり、縄の緩みを大きくする。隙間から石が抜け落ちた。縄は一気に緩み、桐花は自由を奪い返す。
縄抜け成功! よし次は沈没船脱出だ!
起き上がり、こいつめと呪いながら石を船外へ捨てる。櫂は見当たらない。だぽん、と大きな波にぶつかって、小船の喫水線がぐんと下がった。自力航行不可、よしこい救助!
兵士の乗る巡視船へと向き直る。だがトーチを掲げる影、救助用フローターのついた縄や鉤を持った影、それらがシンとして動かない。
桐花の目の前の海面を、三角形の背びれが通過していった。
「イルカ!」
じゃない。
遠いトーチ、弱い月光が、大きな波間にチラチラ現れる無表情な目や尖った鼻先、エラを申し訳なさげに照らしていた。
桐花は自分の肘を伝い落ち、船内へ、海へと拡散し、彼らをおびき寄せたであろう血を見下ろした。
ハプニングが発生しました! 沈没船脱出イリュージョンで海に鮫が、鮫が出現したもようです。ああっ何頭もおります、船が沈むのを待つように、周囲をぐるぐると回っております。果たして無事、鮫の海を泳いで巡視船にたどり着くことが出来るのでしょうかー!
涙ながらに叫ぶ現場レポーターの幻聴が聞こえた。