4.もう一つの一目惚れ
クヴァンツ侯爵家の王都別邸の広い庭で、春のお茶会が開かれた。
シュトルベルク伯爵夫人と令嬢は、そのお茶会に招待されたが、伯爵夫人は残念ながら都合が悪くなってしまった。お詫び状を送ったところ、主催者の侯爵夫人から「それならご令嬢がお友だちを連れていらして」との返信が届いた。
「ということなの。ユリア、一緒に行ってくれないかしら」
「ええっ、侯爵夫人のお茶会なんて無理よ。場違いだわ」
ゾフィーはマグダレーネの密命を受けて、早速親友であるアルンシュタット子爵令嬢ユリアーネ・アントイネッテを訪ねた。
「私だってひとりで行くのは場違いだけど、侯爵夫人からのお誘いなのよ。お断りできないわ」
「でもゾフィーには伯爵令嬢や侯爵令嬢のお友だちもいるでしょう?」
「まあ、なにを言うのよ。おつき合いはあってもお友だちとなると別よ。ユリアは私の親友でしょう。一緒に行きたいのはユリアだわ」
侯爵夫人の依頼のためではない本心を告げると、ユリアーネは頬を染めて恥ずかしそうに笑う。
「もう、上手なんだから」
「侯爵夫人はお優しいし、きっとお客様も意地悪な方はいらっしゃらないと思うわ。ご令嬢のエレオノーレ様とは前に少しお話したことがあるけど、とても素敵なお姉様だったわ。エレオノーレ様とお喋りしていれば大丈夫よ」
それに侯爵家のお菓子はとっても美味しいわよ、というゾフィーのだめ押しが決め手となった。
オスカーも女性客ばかりの昼のお茶会なら、とあっさり許してくれたので、ゾフィーは第一段階の成功をマグダレーネに報告した。
「ユリアーネ様がお茶会にいらっしゃるそうよ。とりあえずよかったわね。ゾフィーちゃんには、きちんとお礼をしましょうね」
マグダレーネは報告の手紙を封筒に戻しながら、息子に笑顔を向けた。お気に入りのご令嬢には気安くなるらしい。
「本当ですか!」
アルベルトは喜ぶと同時に、やはり母と妹を敵に回してはいけないと再確認する。
「さて、当然ですけれど、お兄様の席はありませんよ」
エレオノーレの言葉に、アルベルトは器用に片方の眉だけを動かして、不服そうな顔をした。
「女性客だけのお茶会に、お兄様がいたらおかしいでしょう。アルンシュタット卿が出席をお許しになった理由がわかりませんの?」
「それはわかるが、ならどうしろと」
侯爵家の後継者としてはかなり優秀だ、と評判の息子である。それが今まで浮いた話のひとつもなかったのは、この不器用さが原因かとマグダレーネは理解した。
「アルベルト、ユリアーネ様は今までほとんど社交の場にいらしたことがないのよ。そのようなご令嬢が、格上の貴族に招かれて緊張しないはずがないでしょう。今回は面倒な会話をする方はお招きしてないから、なごやかに進めて、そろそろお開きにしましょうか、というあたりで挨拶にいらっしゃい。所用で出かけていましたが、帰ってきたので母の友人に挨拶に参りました、という殊勝な息子になるのです」
「私は常に殊勝な息子であるはずですが?」
「はいはい、お兄様はいつも殊勝でいらっしゃいますよ。あと、間違ってもユリアーネ様に、個別に話しかけたり、じっと見つめたりしないでくださいね」
エレオノーレの言葉の意味が、本当にわからなかったアルベルトは眉間にしわを寄せて、どうして、と言い妹を心底呆れさせた。マグダレーネも大きなため息とともに説明する。
「クヴァンツ侯爵家の嫡男が、特定のご令嬢に話しかけていた、と噂になったら困るからです。あくまでも皆様にご挨拶をして、すぐに下がりなさい。今回はユリアーネ様に、貴方を見ていただくだけです。それで彼女の心象が悪いようなら、このお話はおしまいですよ」
「会話もせずにどうやって心象を良くしろと?」
「心象を悪くしないように、気をつけたほうがいいですわよ。だいたい、アルンシュタットで少しでも話しかけていれば、こんな面倒なことをする必要はなかったのですよ、お兄様」
「万が一、ユリアーネ様が当家には相応しくない振る舞いをするようなら、そのときもこのお話はなしです」
母と妹に大量の釘を刺されたアルベルトは、身動きがとれなくなった。
当日、お茶会は春の陽気の中で穏やかに開催された。最初は緊張していたユリアーネも、ものめずらしさから貴婦人たちに次々に話しかけられると、すぐに打ち解けた。
お開きが近づく頃には随分と場になじんでおり、十七歳の令嬢としては及第点ね、とマグダレーネは胸を撫で下ろす思いになった。マグダレーネ自身も、ユリアーネのことが気に入ったのである。
そこに、帰宅した侯爵家の嫡男アルベルトが顔を見せた。
「皆様、いつも母がお世話になっております。今日は楽しまれましたでしょうか」
艶のある焦茶色の髪に、青玉の様な深い青の瞳。その瞳がユリアーネの紅玉の瞳と一瞬、ほんの一瞬であったが確かに交わった。
ゾフィーはユリアーネの隣で、息を呑んだ。
――これは、もしかすると――
アルベルトの視線が逸れた後も、ユリアーネの瞳はずっと彼を追いかけている。
主だった招待客にだけ挨拶をして、邸に戻る彼の背中をじっと見つめて、小さくため息を吐いた。
――人が恋に落ちる瞬間をはじめて見たわ――
一方のアルベルトはというと、この半年想い続けた眼裏の君をその目にとらえると、急速に顔が熱くなるのを自覚し、見続けることができなくなった。
次期侯爵が、アルンシュタット子爵令嬢を見つめて顔を赤くしていた、などと噂が立つことは絶対にあってはならないのだ。
持てる自制心を総動員して、ユリアーネを視界に入れない努力をした。その姿を目に焼きつけたいとあれほど願っていたというのに!
アルベルトが肩を落として戻っていく姿を見た母と妹は、全てを察して、またしても同じ表情で呆れていたのである。
翌日、ルイーゼとゾフィー母娘は再びクヴァンツ侯爵邸を訪れた。
当事者であるはずのアルベルトは、同席するとややこしくなる、とエレオノーレに追い払われたため、前回と同じ四名での会合である。
娘から話を聞いたルイーゼも含めて、皆この縁をどうにか結ぶために、長年の同志のような連帯感が生まれつつあった。
「で、間違いないのね? ゾフィーちゃん」
「え、ええ、帰りの馬車で『わたくしはアルベルト様の妻になるわ』って言い切ってました……。ユリアは基本的には素直な子なのですけど、ちょっとなんと言いますか、こう! と思ったら人の話が耳に入らなくなることが、たまにありまして。落ち着いたらしっかりとできる子ですから、誤解なさらないでくださいませ」
マグダレーネに「ゾフィーちゃん」と呼ばれて、目を白黒させながらも、親友の印象を悪くしないように、しかし事実を伝える。という難題をなんとかゾフィーはこなした。
マグダレーネはうんうんとうなずきながら聞いているが、ご機嫌な様子でゾフィーはひとまず安心する。
「初恋が一目惚れでちょっと興奮してしまっているのね。十七歳ならそれくらい可愛らしいわ。ねえ、ルイーゼ様」
「そうですねえ、初々しいですわね、わたくしもその場にいたかったですわ」
ゾフィーの心配は大人たちにとっては、大したことではないらしい。ほっとしたゾフィーがエレオノーレを見ると、彼女もにっこりと笑っている。
「それよりも、お母様を早くに亡くされて、社交界にも出ていなかったとは思えない様子で驚きましたわ。くせのある方はお招きしていなかったとはいえ、高位貴族のご婦人方にあっという間に溶け込んでしまって。素晴らしいですわ」
「ええ、あれは生まれもった素質でしょうね。誰にでも壁を作らせないのですわ。エレオノーレ様はどう思われまして?」
「とても可愛らしい方ですね。正直なところ兄の目は疑っていましたけれど、見初めたのがユリアーネ様で本当によかったと思いましたわ」
「ああ、本当に。それに比べてアルベルトの情け無いこと。あの子に任せていたら、ユリアーネちゃんをお嫁に迎えるなんて、夢のまた夢でしょうねえ」
「ユリアーネちゃんをお嫁に迎える」という言葉にゾフィーは目を丸くする。親友の初恋が叶うことを願いながらも、やはり難しいのではないかと思っていたのだ。しかしマグダレーネが後押しをするのであれば、夢ではなくなるかもしれない。
同じことを考えていたのであろうルイーゼが口を開く。
「マグダレーネ様、では本当に?」
「ええ、少なくとも旦那様にはもうお話ししますわ。子爵家の跡継ぎのことは確かに懸念されますけど、アルンシュタット卿もまだ引退されるようなお歳ではないでしょう? まずはユリアーネちゃんが他所に縁づく前に、当家を候補に入れていただかないと、一刻もはやく!」
「その点ではユリアが暴走しているのは、よかったかもしれませんね。お父様がお見合いの話をされても、今なら嫌がるでしょうから」
「まあ、確かにそうね!」
珍しくはきはきと話す母に、エレオノーレも驚いていた。
「お母様、でも、まずはお兄様がユリアーネ様とお話されないと」
そう、お互いに一目惚れした両思いであるはずのふたりは、まだ一言も言葉を交わしていないのである。
「そうねえ。……ルイーゼ様、ゾフィーちゃん、クヴァンツ領に避暑にいらっしゃいませんか?」
つい先日と同じ笑顔のマグダレーネが言った。