08 試練、例えるなら増していく苦み
「……潰れるって、そんな」
ようやく絞り出せた言葉は、あまりにも頼りなかった。
「現実を受け入れたくないのは分かるわ。でも、本当のことなのよ」
静かな店内に、女がカタカタとキーを叩く音がやけに大きく響く。
「ドリンク一杯の利益率とか、商品が売れた個数とか。一度、そういうのを全部ひっくるめて自分で概算してみたの。ひどいものよ。もうね、赤字の連続。今日店が開いてるのが不思議なレベルだわ」
「……適当なこと、言わないで下さい」
気づけば、俺は椅子から腰を浮かせていた。テーブルを押さえつける手に、自然と力が入る。
久保さんが一生懸命に守ってきたこの店を馬鹿にされるのだけは、どうにも我慢ならなかった。
「あなたに、うちの店の何が分かるって言うんですか」
「分かるわよ」
不意に女は手を止め、顔を上げた。そして、真正面から俺の厳しい視線を受け止めてみせた。
「私があなたくらいの年だった頃は、大学で経済学を専攻してたの。正確な数値ではないかもしれないけれど、長年通って観察してきた店なら、それくらい簡単に割り出せるわ」
カプチーノの注がれたカップを手に取り、一口飲む。赤く塗られた唇が妙に生々しかった。
「……ま、そういうことだから。店が閉まった後どうするか、今から考えておいた方が良いってこと」
中途半端に立ち上がったままの俺に、彼女は勝ち誇ったような笑顔を向けた。それからパソコンの画面へ視線を戻し、何度かキーを叩く。
何とはなしにそれを覗き込むと、画面には文字列がびっしりと並んでいた。
女の手がキーボード上を行ったり来たりするのが、徐々に遅くなる。どうやら、作業は終わりに近づいているらしかった。
「あの、何のお仕事をされてるんですか」
反論も思いつかず、仕方なく俺は腰を下ろした。敗北を認めまいとするかのように、話題の転換を図る。
シティー・フォレストがなくなるかもしれないなんて、考えたくもなかった。俺のしたことは、その意味で現実逃避に等しい。
「私、フリーランスでライターをやってるの。……よし、この記事はこれで完成ね」
台詞の後半部分は独り言のようだった。最後にエンターキーを軽快に叩き、女は仕事を終えた。
彼女の手が、灰色のスーツの胸ポケットへと伸びる。そこから一枚の紙片を取り出し、女は俺へと差し出した。
「よかったら、これ」
「はあ」
曖昧に頷いて、手のひらサイズの紙を受け取る。仕事先で配るのであろう名刺には、「フリーライター 田村雅」と丸みを帯びた書式で印字されていた。小さな文字で連絡先等も記載されている。
「バイト先がなくなって困ったら、私の手伝いをしに来てもいいのよ」
ノートパソコンを再び鞄の中へ戻し、田村さんはにっこり笑った。美しいはずの笑顔は、何故か俺の肌を泡立たせた。
「……何なら、あの人の代わりに私が可愛がってあげようか。年下も守備範囲だよ?」
あの人というのが誰なのかは、もはや尋ねるまでもなかった。
「遠慮します」
不愛想にそれだけ言って、俺は席を立った。今度は、前回のように無理やり引き止められることもなかった。
レジへ戻ると、熱くなっていた頭が少しずつ冷めてきて、物事を落ち着いて考えられるようになった。
田村さんはおそらく、以前から仕事のアシスタントを探していたんだろう。どういうわけか俺を気に入り、店の経営悪化を指摘することで動揺させ、手中に収めようとしてきた。なるほど、巧みな作戦だ。
けれども、彼女の誘いに乗りたいとは思えなかった。俺は最後まで、久保さんが愛したこの店の在り方を見届けたい。先のことはそれから考えればいい。
「あの」
びくりとして背後を振り返ると、三好さんがおずおずとこちらを見ていた。コーヒーは飲み終わったらしい。
「何かお客さんと話してたみたいですけど、大丈夫でした?」
まずいな、と俺は思った。どこまで彼女に見られたのだろう。田村さんに憤りをぶつけた瞬間だけは見てほしくなかった。俺の中の汚い部分を、三好さんに見せたくはない。
「……ああ、何でもないよ。全然問題ないから」
作り笑いを浮かべた俺に、彼女は一応安心したらしい。ほっと胸を撫で下ろし、儚げに笑った。
「よかったです。遠目に見ると、真木さんがお客さんと言い争いになってるみたいだったから。私の勘違いだったんですね」
頷く以外に、俺に選択肢はあっただろうか。
三好さんに心配事を背負わせるくらいなら、俺一人で抱え込んだ方がよっぽどいい。
バイト中に話していて常々感じるのだが、彼女の言動にはどこか影がある。推測の域を出ないけれど、過去に辛い経験をしてきたのではないか。
いかにも傷つきやすそうな三好さんには、できれば世の中の綺麗なものだけを見ていてほしいと思う。残りの汚く濁ったヘドロのような部分は、俺は引き受けてやらねば。
この孤独な決意こそが、のちに俺を苦しめるのだ。
カフェモカのように甘かったはずの時間は、少しずつ苦みを増していた。