06 対峙、そして残酷な真実
カプチーノの注がれたカップを受け取り、席についてすぐのことである。
「……ちょっと、店員さん」
先ほどの女性が小さく片手を挙げ、ひらひらとこちらに振った。何か問題が発生したのだろうかと気が気でなく、俺はレジから出て客席に向かおうとした。
「真木くん、私が対応するよ」
それを制し、久保さんが女性客へ申し訳なさそうに会釈したときだった。
「あなたじゃないわ。私が用のあるのは、その子」
ブロンドの女は、大げさに首を振った。そして、俺の目を見つめて蠱惑的な微笑を浮かべた。
今まで、こういうことを言われたのは初めてだったのだろう。久保さんは思わぬ展開に固まってしまい、風変わりな客に何も言い返せなかった。
上等だ。相手が妙な注文をつけてくるのなら、正面から受けて立ってやる。俺は彼女の横をすり抜け、問題の客の元へ足早に向かった。
そうすることで久保さんに良いところを見せられる、という計算があったかは分からない。
「何か、お困りでしょうか」
テーブルの横に立ち、緊張気味に声を掛ける。女はすぐには答えず、長い足を組み替えて沈黙を守った。スカートが短いせいで、目のやり場に困る。
「ねえ、あなた」
やがて女性の視線が上に向けられ、俺と目が合う。白い肌と赤い口紅のコントラストが、幻想的な印象を与えてくる。心なしか潜められた声は、俺たちは何か良くないことをしているのだ、と暗示するようだった。
「どう思う? この喫茶店について」
提供したカプチーノに問題があったわけではないらしい。予期しない質問に驚きながらも、俺はなるべく無難な答えを返そうとした。
「一従業員として、良い店だと思います。床材やテーブルに木を用い、内装も木目調にすることで『都会にいながら自然を感じられる店』をコンセプトに……」
「違う、違う。そういうマニュアル的な回答を求めてるんじゃないのよ」
俺の答えは、彼女の意に添わなかったようだ。顔の前で手を振り、ブロンドの女は失望感を隠そうともしない。
「私が聞きたいのは、この店の状況」
「……状況?」
「そう。特に、経営状況ね」
はっとして見返しても、女は動じた様子を見せずにからからと笑った。とても楽しそうな笑い方だった。
「お客さん、数えるほどしかいないじゃない。私も何年か前からここに通っているけれど、今ほど閑散としてはいなかったわ」
「それは、そうかもしれませんが」
一か月ほど前から働き始めた俺には、昔と現在を比較してみることはできない。だが、女の言うことは間違っていないという確信もあった。
事実、今この店は、シティー・フォレスト東京店は絶望的に客数が少ない。客が来なければ商品も売れ残り、廃棄ロスも出る。十中八九、店は赤字経営だろうと思う。
反論できない俺に、彼女は容赦なく言葉を並べ立ててくる。まるで、見えないマシンガンで体を蜂の巣にされているような感覚だ。現実という名の銃弾が、俺を貫いていくのだ。
「まあ、しょうがないかもしれないわね。駅前に新しくカフェもできたし、お客さんはそっちに流れちゃったんでしょ。仕方ないことよ」
しかし、他人事のように店を馬鹿にされ、憐れまれるのには我慢ならなかった。俺は女を軽く睨みつけ、冷たい声音で言った。
「心配して下さるのは嬉しいですけど、こっちにも仕事があるので。失礼します」
本当は、最低限やるべき業務は終わっている。それでも店員のプライドとして、俺は精一杯の意地を張って立ち去ろうとした。
「あっ、ちょっと待って」
女の細い手が無造作に伸び、俺のシャツの袖を掴んだ。意外に強い力で俺を引き寄せ、腕と腕とを絡ませてくる。ほのかな温もりと柔らかい感触にどきりとして、俺は足を止めた。
「話したいことはもう一つあるの。……あなた、あの人のことが好きなんじゃない?」
女は俺に悪戯な笑顔を向け、それから横目で久保さんを見やった。
幸か不幸か、久保さんは発注業務に集中していて、こちらで行われているやり取りには気づいていないようだった。
頬がかあっと熱くなるのを感じる。俺は無理やりに腕を振り払い、女から体を離した。呼吸が荒くなっているのを自覚した。
「何言ってるんですか。別に、そんな関係じゃないです」
「……あら、可愛くないわね」
面白くなさそうに呟き、女は眉根を寄せた。どうやら引き止めるのを諦めてくれたらしく、俺は足早にレジへ戻った。
「真木くん、おかえり」
俺に気がつくと、久保さんは少し心配そうにこちらを見上げてきた。
「何の話をしてたの?」
「いや、大したことじゃないですよ。カプチーノの味が前と違うとか、何とか」
本当のことを言えるはずもない。適当に誤魔化したところ、久保さんはそれで納得してくれたようだった。
「そっかあ、カプチーノが……うーん、どこが駄目だったんだろう」
発注用の端末から離れ、不意にぽんと手を叩く。
「よし、試しにもう一つ作ってみようか」
「えっ?」
ぽかんとしている俺をコーヒーマシンの前へ引っ張っていき、久保さんは眩しい笑顔を向けてきた。
「もしかしたら、機械に問題があるのかもしれないし。原因を探ってみようよ」
ああ、そうか。
この人はどこまでも真っ直ぐで、真面目で、一生懸命で、俺がついた嘘を何の疑いもなく信じてしまえるほどに純粋なのだ。
この人の笑顔を、幸せを守りたい。そういう衝動が不意にこみ上げてきて、俺は密かに決意した。
久保さんには、さっきの女性客の悪意に絶対に触れさせない。
何を思ったのか、彼女は話し相手として俺を選び、目を逸らしたい事実を突きつけて攻撃した。もし久保さんが同じ目に遭えば、深く傷ついてしまうかもしれない。取り返しのつかないことになるかもしれない。
女が指摘したように、俺は久保さんを好きなのだろうか。愛しているのだろうか。
正直なところ、自分ではその気持ちを認めたくなかった。学生と社会人、店長と従業員という立場の違いもさることながら、いくらかの年齢差も考えるとやはり現実的でない恋だ。
もちろん、久保さんがとても魅力的な女性であり、俺が彼女に惹かれていることは否定しがたいのだが。
二杯目のカプチーノを作り終えてから、ふと客席を眺めた。いつの間にか、ブロンドの女は店から姿を消していた。