05 暗雲、それは不穏な影
特に大きな問題もなく、バイト仲間と楽しくやりながら一か月ほどが過ぎた。
「ええーっ」
本来ならば十八時で仕事を上がるはずの久保さんは、今、事務所の固定電話を耳に押し当てて絶句していた。エプロンを脱ぎかけの姿勢のまま固まっている。
ちょうど清掃道具を事務所に取りに来ていた俺は、久保さんが慌てている様を意図せずして目撃してしまった。
事務所といっても、各自の荷物や商品の在庫を置いてあるだけの狭い部屋だ。俺の目と鼻の先で、彼女は強張った表情で何事かを話していた。
やがて通話を終了し、久保さんがこちらへ向き直る。
「……藤堂さん、仕事の都合で今日来れなくなっちゃったって」
「えっ」
今度は、俺が驚きの声を漏らす番だった。
ヘルプの藤堂さんが来なければ、十八時以降、店には俺一人になってしまう。いくら客数が少ないとはいえ、一人で全ての業務をこなせる自信はなかった。
「まずくないですか、それ」
「うん、ヤバい」
久保さんが若者言葉を使うのは珍しい気がした。頬に手を当て、ううむと考え込んでいる。今から他のヘルプを呼ぶのは難しいだろう。三好さんたち、この店の従業員を召集するのも無理がある。
「……よし。代わりに、私が残って真木くんを手伝う」
意を決し、彼女は自分に言い聞かせるように宣言した。
「これでも、一応店長だから。お店を放って帰るわけにはいかないし」
「でも、大学院の方は大丈夫なんですか?」
思わぬ展開に、俺は喜びを見せぬようにしながら尋ねた。
「今日は家で課題をしようと思ってただけだからね。ちょっとくらい平気だよ」
改めて赤いエプロンを腰に巻き、久保さんは屈託のない笑顔を俺に向けてきた。
「閉店の時間まで、一緒に頑張ろうね!」
「はいっ」
ほとんど即答だった。
久保さんには気の毒なことだが、結果として見目麗しい女性とともに時間を過ごせることになったのだ。男として、嬉しくないはずがなかった。
正直に言うと、藤堂さんが来るよりもずっと望ましい状況に思えた。我ながら醜い下心だ。
例によって、店に来る客は少ない。一通りの作業を終えると、俺は時間を持て余すこととなった。
とはいえ店長である久保さんが側にいるため、サボるわけにもいかない。手持ち無沙汰な様子を晒さぬよう、普段はあまり掃除しない部分まで丁寧に磨いた。
三十分ほどモップで床掃除を続けていると、不意に久保さんが歩み寄ってきた。レジを出て客席の方へ進み、黙々と作業をしていた俺に微笑みかける。
「頑張ってるね。ちょっと代わろっか」
モップを受け取ろうと少し俯いた拍子に、互いの距離が縮まる。首筋から甘い香りが漂ってきて、俺は一瞬くらりとした。
「いや、いいですよ。あともう一息で終わるんで」
だが、ここは男の意地だ。女性に肉体労働を押しつけるような真似をするのは、俺の美学に反する。モップの柄を握ったままの手を見て、久保さんは胸の前で両手を組んでみせた。
「えー、お願い。私にもやらせて」
それから急に俯き気味になり、ちょっぴり恥ずかしそうに続ける。
「……ずっとレジに立ってるだけだと、足がむくんじゃいそうだから。一応、私も女の子だし」
とびきりキュートな仕草に、俺はにやにやしないよう表情筋に力を込めた。「一応」どころではない。まだ二十代半ばで、俺と数歳しか違わない若い女性じゃないか。
仕事も大学院での勉強も頑張っているから、普段の久保さんは「大人の女性」という感じだ。けれども、だからこそ時折見せる可憐な一面に惹かれてしまうのだ。
結局、俺はぼそぼそと何かを言いながらモップを手渡し、彼女の代わりにレジに入った。
しばらくして、久保さんもレジに戻ってきた。
時刻は二十時を回っている。ピークの時間帯は過ぎ、店に入ってくる客よりも出て行く客の方が多い。
この時間になると、一台のレジだけで十分に対応できるようになる。列になって並ぶほど客が来ず、その処理に労力を割く必要もなくなるからだ。
したがってレジ周りに立つのは俺一人で足りるはずなのだが、久保さんは俺の横に居続けてくれた。事務所から持ってきたタブレット端末で発注業務をやりながら、店の様子を監督していてくれる。
俺がまだ新人だから、側にいた方がトラブルに対応しやすいと判断したのだろう。特別な意味は何もないはずだ。それにもかかわらず、俺はわけもなく高揚感に襲われそうになるのだった。
時々厨房へ入り、冷蔵庫の中の在庫をチェックしつつ、商品の発注を進めていく。先刻の可愛らしい姿とは裏腹に、今の久保さんは自分の成すべきことを効率よくこなす、社会人の顔を見せていた。
「……サンドイッチの材料の発注個数、どうしようかな」
数字を入力する画面でふと指を止め、彼女は思案していた。
発注する際に考えなければならないのは、いかに廃棄を出さず、かつ可能な限り多くの商品を売るかだ。食品を商品として出す職種なら必ず、売れなかった分を廃棄処分するロスが発生する。客のニーズに応え利益を出すだけでは不十分で、損失をできるだけ減らす努力も必要なのだ。
「カツサンドは作る数を減らしてもいいんじゃないですか。正直、あまり売れてないみたいですし」
助け舟を出してみると、久保さんは小首を傾げた。
「でも、一昨日は結構売れたよ」
そうか、日によって変動があるのか。一昨日はシフトを入れていなかったから、商品の売れ行きについては把握できていなかった。
ただ、廃棄が出るのは売れ残った商品からだけではない。使い切れなかった、あるいは使われなかった食材からもロスは生まれるのだ。
俺が話題に出したカツサンドは、パンに挟むカツ自体は比較的長くもつ。しかし、それをくるんでいるレタスが短期間で廃棄になるのだ。売れ行きはまずまずでも、毎日のように捨てなければならない野菜たちのことを考えると、俺はサンドイッチの販売促進に前向きな考えを持てなかった。
時計の針は、二十一時の手前を指し示している。
俺と久保さんがサンドイッチ議論を続けようとしていたところ、店の出入り口のドアが静かに開かれた。
この間と同じ、ブロンドの髪の女性である。灰色のスーツを着こなした彼女は、レジへと真っ直ぐに歩み寄り、俺の前に立った。
「アイスカプチーノのMサイズをいただくわ」
先日と全く同じ注文を、一言一句違わぬ言葉で。
にこやかに笑う女性客から、何故か俺は底知れない恐ろしさを感じていた。