03 初出勤、もしくは残された幸福
初出勤の日は、新しく学ぶことの連続だった。
レジの操作を覚えるのはさほど難しくなかったのだが、問題はドリンク作成である。多種多様なメニューの作り方を久保さんに教わり、四苦八苦しながらお客さんに提供していく。
今日のシフトは、俺と久保さん、それから三好さんの三人。
「ソイラテのホットSサイズ、オーダー入りました」
「はーい」
レジに立つ三好さんの声に、その後ろで控えている久保さんがにこやかに頷く。そして、俺にてきぱきと指示を出していく。ドリンクの作り方を記したものは店になく、先輩の説明だけを頼りに頭に叩き込むより他にない。
「真木くん、お願いね」
「はいっ」
制服の茶色いエプロンに着替えると、気合が入ったような気がする。早速、俺はドリンク作成に取りかかった。
ソイラテを作るのはこれで二つ目。少しは慣れてきたように思う。
まずはSサイズのカップを手に取り、コーヒーマシンでエスプレッソを少量注ぐ。次に、そこへ豆乳を流し込み、カップに蓋を被せて完成である。
なおホットを提供する場合は、豆乳を銀カップに入れた状態で加熱し、十分温かくしてからエスプレッソと混ぜなければならない。加熱には、マシンの右から伸びるスチーマーを用いる。金属製の管の先端を豆乳へ入れると、噴き出す蒸気がドリンクの材料をすぐに温めてくれるのだ。
慎重に豆乳をカップへと注ぎ入れ、俺は注文の品を待っているお客さんの元へと向かった。
「お待たせしました。ソイラテのSになります」
カップを受け取った老婦人が幸せそうな表情で去っていくのを見て、俺は小さな達成感を覚えていた。仕事のやりがい、と言い換えても良いだろう。
塾講師をしていた頃は、やる気のない生徒相手に延々と講義をするのが苦痛でしかなかった。けれども、今は違う。頼んだドリンクが手元に来て、嫌な顔をするお客さんはいない。皆に楽しさを届ける仕事をしているのだと思うと、接客業も案外悪くない気がしてくる。
「あーっ、駄目だよ。スチーマー拭かなきゃ」
密かに喜びを感じていたところ、久保さんの慌てた声で我に返った。液体の中に入れた後、スチーマーは布巾で掃除しなければならない。俺としたことが、うっかり忘れていた。
「すいません」
すぐに布巾を手に取った俺に、久保さんが「ううん」と首を振る。相変わらず若々しく、笑顔が素敵だ。
「真木くんは仕事覚えるのが早いから、感心しちゃうなあ」
褒められたのが何だか無性に嬉しくて、もごもごと謙遜の言葉を紡ぎ出すのがせいぜいだった。
午後七時が近づいた折、久保さんは不意にエプロンを脱ぎ始めた。下に着ている赤いセーターが露わになり、体のラインに沿ったそれは、妙に肉感的な印象を与えてきた。
「じゃあ、私はそろそろ上がっちゃうね」
「……はい、お疲れ様です」
やや唐突に発せられた台詞に、三好さんは表情を変えぬまま、ぼそぼそと答えた。彼女にとっては、久保さんがこの時間に帰ることは珍しくないらしい。
閉店まではまだ三時間ほどあるが、何か帰宅しなければならない理由があるのだろうか。状況を把握し切れていない俺に、久保さんはくるりと振り向いた。ポニーテールが可憐に揺れる。
「真木くんには言ってなかったよね。私、しばらく前から大学院に通ってるの。今日も、これから授業があって」
「大学院に?」
驚いて、思わずオウム返しに繰り返してしまった。
「そう。経営の勉強をしててね、いつかは自分のお店を持ちたいなって思ってるんだ」
ふふん、と久保さんが胸を張る。意識的にか無意識的にか、俺は彼女へ尊敬の眼差しを向けていた。
店長として喫茶店「シティー・フォレスト」を切り盛りしながら、大学院で勉強もしているとは。並大抵の努力ではないに違いない。自分の店を持ちたいという夢のために一生懸命な姿にも、とても好感が持てた。
「すごいじゃないですか。頑張ってくださいね」
ありきたりな俺の言葉にも、久保さんはにこにこ笑って応じてくれる。人格者だなあ、とつくづく思った。
「うん、ありがとうね」
三好さんから他の作業のことも教えてもらってね、と言い残して、彼女は店を後にした。
今思えば、俺はこのときに自覚しておくべきだったのだ。
変えようにも変えられない、忌々しい自分の性格を。
久保さんが退勤してからは、三好さんと二人きりである。
もちろんお客さんはいるのだが、夜になったからか、徐々に客足は鈍ってきている。一人にレジを任せ、もう一人は別の仕事をやれるくらいの余裕が出た。
レジの列が途切れたときに、彼女は店の奥から清掃道具を持ってきた。
「……えっと、掃除の仕方教えますね」
ボブカットの三好さんは、俯き気味で喋ると表情が読みづらい。身長が俺の肩くらいまでしかないことも相まって、儚げな印象を受ける。
淡々と喋る彼女の指示に従って、俺は箒とちり取り、モップを総動員して床を掃除した。
意外と、こういう単純作業も楽しく感じる。塾講師の仕事には授業準備が必須で、常に頭を働かせて説明を続けねばならなかった。今のバイトは特に準備がいらない。働けば働いた分だけお客さんのニーズに応えることができるし、こうやって磨けば磨くほど、木目調の床材はきらきらと輝き出すのだ。単調といえば単調かもしれないが、成果が目に見えるかたちで現れるというのは大きな魅力だと思う。
清掃から閉店後の後片付けまでを、俺は物静かな三好さんと一緒に手早くこなしていった。
照明を全て落とし、空調を切り、出入り口という出入り口に鍵をかける。夜のバイトの面倒なところは、閉店に伴う諸作業をやらなければならないことだ。
ようやく全ての工程を終え、俺たちは店の外に出た。
久保さんと違って、三好さんとはあまり会話が弾みそうにない。さっさと別れて、夜食を買って帰ろうかなどと俺は考えていた。
「お疲れ様」
短く言って歩き去ろうとした俺の背に、はたして彼女は呼びかけたのだった。
「……あの」
思わぬ展開に、俺は戸惑いを隠せなかった。ぎこちなく振り向くと、三好さんは頬をほんのりと染め、上目遣いに俺を見ていた。大きくて澄んだ瞳が俺を捉えていた。
「私、真木さんが入るまでは、ヘルプで来てくれる方とばかりシフトを組まされてました。正直、ちょっと寂しかったです」
それから、彼女ははにかむように微笑んだ。
「だから、真木さんが入ってくださって嬉しい」
「……よしてくれよ。そんなことを言われると、何だか照れ臭いじゃないか」
おいおい、その笑顔は反則だろう。
いくらか心が揺さぶられたのを誤魔化すように、俺は笑った。
「三好さんの方が先輩なんだし、もっとこき使ってくれてもいいんだよ」
控えめな笑顔を浮かべる彼女と、駅まで歩いて帰った。何も知らない者の目には、俺たちはどのように映っただろうか。同級生か、それともカップルか。はたまた、別の関係か。
ともかく、この頃の俺を取り巻く環境がカフェモカ並みに甘ったるかったことは間違いない。