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14 終章、誰も傷つかない結末


 徐々に客足が戻ってきて、久保さんは席を離れた。やはり、この店はシティー・フォレストより遥かに賑わっている。あの穏やかな空間は、おそらく二度と戻ってこない。

 再び一人きりになった俺の側に、また誰かが座った。久保さんがちょこんと腰かけていたのとは、反対側の席だった。

「……久しぶり」

 妖しい笑みを浮かべて、田村さんが優雅に腰を下ろした。バッグをテーブルの下に置き、紺色のコートを脱ぐ。シティー・フォレストの常連だった頃と変わらぬ服装に、少し懐かしさを覚えた。

「この店にも通ってるんですか」

「当たり前でしょ。店長さんが新しくカフェをやるって聞いてから、ほとんど毎日来てるわ」

 ノートパソコンを取り出したりはせず、彼女は俺だけを見てくすくすと笑った。今日は仕事目的ではないらしい。

「カプチーノの味も同じだしね」

 何気なく付け足された一言に、はっとさせられる。あの空間が存在しなくなったことを悲しんでいるのは、俺だけではないのだ。

 閉店作業は、実に寂しいものだった。売れずに残った商品を機械的に処分する。テーブルや椅子、店内をほのかに照らすシャンデリア、こまごまとした飾りつけ。それらを淡々と取り外し、運び出していく。

 顔を歪め、唇を引き結んで、久保さんがその様子を眺めていたことを今でも覚えている。どんなに悲しくても、決して涙は見せまいとする心の強さに憧れた。

 田村さんはスーツ姿の俺に無遠慮な視線を投げかけ、意味深に頷いてみせた。

「……なるほどね」

「はっ?」

「あなたは、自分の求めていたものを得た。でも、その結果、本当に求めていたものを失った。そうでしょう?」

 皮肉ね、と彼女が笑う。

 俺の求めていたものとは、大企業への就職だろうか。俺が本当に求めていたものとは、久保さんと恋仲になることだろうか。不思議だ。田村さんに俺の過去を話したことは一度もないのに、全部見透かされているような気がする。

「あの子とは、まだ付き合ってるの?」

 田村さんが質問を重ねてくる。誰のことを指しているのかは、嫌なくらい分かり切っていた。久保さんが営む新店でバイトを続けている、彼女だ。

 黙ったままの俺を見て、彼女は現状を察したらしい。

「好きでもない相手と付き合うだなんて、健全じゃないわ。あの子からしたら可哀想。それとも、あなたは彼女を、性欲を発散するための道具くらいにしか思ってないのかしら」

「……そんなわけないでしょう」

 田村さんを睨みつけながらも、俺は動揺を隠すのに必死だった。

 俺が彼女を、性処理の道具として見ているだと。そこに一切の恋愛感情は付随しないだと。

 そんなはずはない。

 そんなことはあり得ない。

 俺の心の揺れは、自己暗示にすぎなかった。

「私、割り切った関係は嫌いじゃないの。あなたさえよければ、そういう関係になっても構わないのよ」

 全く怯んだ様子もなく、田村さんは猫なで声で言った。俺の肩に手を置き、顔を近づけてくる。

「多分、あの子よりずっと上手いわ」

「……すみません。失礼します」

 さすがに我慢の限界だった。俺は手を振り払って席を立ち、コーヒーカップを返却口に置いた。これ以上、田村さんに付き合ってはいられない。

 レジに立っていた久保さんに会釈し、逃げるように店の自動ドアをくぐった。

 カップにはまだ半分以上、黒い液体が残ったままだった。久保さんへの冷めぬ思いを示すように、それはいつまでも湯気を立て続けていた。


 三好さんと別れることはできない。

 付き合い始めてから既に何か月かが過ぎているが、その中で分かったことが一つある。恐れていた通り、彼女はとても繊細で傷つきやすい性格だった。

 俺がデートの待ち合わせに少し遅れただけで、見捨てられたのではないかと思って不安になる。仕事で疲れているから、と抱き合うのを拒んだときは、自分に魅力が足りないからではないかと怯えていた。それ以来、できる限り彼女を喜ばせられるように気を遣っている。

 三好さんは極端に自己評価が低くて、ちょっとしたことですぐ落ち込んでしまう。彼女の過去についてはまだ断片的にしか知らないが、おそらくは想像もできないほど苦しい経験を積み重ねてきたのだろう。

 もしも本当のことを話して別れを告げれば、彼女の心は壊れてしまうに違いなかった。だから、別れるなんてできない。

 こうするしかなかったんだ、と呟く。

 こうすることで、誰も傷つかない綺麗な結末が出来上がるのだ。


 エレベータを降りると、人の気配があった。アパートの自室の前に誰かが立っている。

 目を凝らしながら近づいていくと、彼女はぱっと笑顔になった。

「真木さん、おかえりなさい」

「……三好さん、どうして」

 今日は会う約束をしていないはずだ。突然のことに、俺は狼狽していた。

「ごめんなさい。でも、どうしても会いたくなっちゃって」

 三好さんが照れ笑いを浮かべる。夕闇に溶けていきそうな黒のブラウスは、彼女の体の輪郭を曖昧にしていた。

「しょうがないな」

 俺は大げさにため息をついてみせ、それから微笑みかけた。心が揺さぶられたことはおくびにも出さない。

 彼女の心は脆い。俺が支えてやらなければ、今すぐにでも砕けてしまうだろう。

 だが、最近の彼女は今までに増して不安定だ。ありのままの自分を肯定してやることができない三好さんは、自分を受け入れてくれる俺に依存している。俺がいなければ、精神の安定を保てないのかもしれない。

 いきなり家を訪ねてくるという非常識な行為には、正直なところぞっとした。恋人に用いるには不適切な表現かもしれないが、まるでストーカーのようだ。

 そっと抱き寄せると、三好さんの体は冷え切っていた。合鍵は渡していないから、俺を待っている間、彼女はずっと外で立ち続けていたことになる。ただ、愛する人に会いたいという思いの力のみで。

 そこには、狂気じみたものすら感じる。

 玄関で靴を脱ぎ、ドアを閉める。人に見られる心配がなくなった途端、俺は三好さんの唇を貪った。舌を激しく動かすと、彼女が喘ぐのが聞こえた。

 激しくしてやらないと、彼女は自分が求められていないと感じてしまう。これくらいでちょうど良いのだ。

「……真木さん」

 唇を離すと、三好さんは恍惚とした表情で呟いた。

「大好きです」

「俺もだよ」

 真実などひとかけらも含んでいない台詞を吐き、俺は欲望のままに行為を続けた。

 でも、それ以外にどんな選択肢があったというのだろうか。誰も悲しませないためには、多分こうするより他にないのだろう。

 ワンルームの狭い部屋に、三好さんの喘ぎ声と、俺の荒い息遣いだけが聞こえている。窓の外では、ほのかに雪が降り始めている。


 こうして、俺たちの歪な関係は続いていく。

 俺の青春が辿り着いた先は、ブラックコーヒーにも似た苦々しい結末だった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この小説は、私が書いたものの中でもかなり異色です。ハッピーエンドとは言い難いですし、読んでいてもやもやする部分もあると思われます。

しかし、それが私の表現したかったことでもあるのです。主人公のエゴと恋愛感情がどう作用していくのか、彼がどんな結末を選ぶのか。夏目漱石の「こころ」を意識して執筆しました。

よろしければ、感想・評価等お寄せください。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  何度も訪れる人生の分岐点に立たされた主人公は自分の感情を押し殺し、それが最善の道だと信じ込み自分に嘘をつく。  気づいた時にはもう遅い。  いや、気づいていても見て見ぬふりをしたのかな…
[良い点] キャラの心理描写がうまく、読んでいて自然と引き込まれました。 [気になる点] 文章がかなりキツキツに書いて読みづらいと感じました。本に読み慣れている人は、そういう事は気にしないでしょうが、…
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