13 対峙、迫りくる過去
数か月後、久保さんの経営するカフェが新しくオープンした。
俺はオープニングスタッフとしてそこで一か月働き、大学卒業後は大手の商社に就職した。今でも仕事帰りに立ち寄って、コーヒーを飲むのが習慣になっている。
レジの正面に並ぶカウンター席から、改めて店内を眺める。内装はいたってシンプルだが、木材を多く使っているところはシティー・フォレストと似ている。久保さんも、閉店になったあのカフェを忘れられなかったのかもしれない。
今日は比較的客が少なく、手が空いていたらしい。そっとレジを抜け、久保さんは俺の隣の席に腰掛けた。
「いつも来てくれてありがとう」
彼女ににっこり微笑まれると、俺はどうも居心地が悪くなってしまうのだった。
「まあ、会社がこの近くなので」
実際には電車で十五分ほどかかる距離なのだが、そういうことにしている。何か口実をつくっておいた方が怪しまれないだろう、という姑息な判断だ。
「お仕事は大変そう?」
久保さんはいつものように、俺の言葉を疑う素振りすら見せなかった。
「……正直言って、きついですね。覚えなくちゃいけないことは山ほどあるし、上司も優しい人ばかりじゃないし。入る会社を間違えたかもしれないです」
「大丈夫、大丈夫」
厳しい現実を思い出してげんなりした俺を、彼女は小さくガッツポーズをして励まそうとしてくれる。久保さんみたいな人が上司にいたら良かったのに、とつくづく思う。
本当は彼女の下で、新規にオープンしたこの店で、働き続けたかったのだが。
「私も社会に出たばかりの頃は、そんな感じだったから。真木くんもきっと、すぐに慣れるよ」
「まあ、自分で選んだ仕事ですし、せいぜいメンタルをやられない程度に頑張ってみます」
とてもじゃないが、元気を取り戻せたとは言い難かった。弱気な返答しかできない俺を見て、久保さんは不意に表情を暗くした。
「……そうだよね。真木くんは今、自分の好きな仕事をしてるんだもんね。夢のために頑張ってるんだもんね」
自分に言い聞かせるような、何かを諦めたような口ぶりは彼女らしくなかった。
「あのときは、正社員にならないか、なんて勝手なことを言ってごめんね。私の描いていた未来に、真木くんを巻き込んじゃうところだった」
目を伏せて悲しそうに微笑む久保さんは、とても儚げで、それでいて美しかった。
(違う。違うんです。俺の本当の気持ちは……)
胸を抉られているかのようだった。
できることならば今すぐにでも全てを打ち明けて、彼女の前で頭を垂れたかった。しかし、そんなことをしても何にもならないという事実も、痛いほど理解していた。
俺には、夢なんかない。ただ、周りの期待に応えようとしただけだ。
大学三年になると、四国の実家に住む両親は、俺に過剰なまでの圧力をかけてきていた。
『あんたを東京へ送り出すのに、いくらかかったと思っとるんよ』
成長するにつれ、耳障りだと感じるようになった母の声。
『大学の学費も馬鹿にならんからなあ。準也には、ええ会社に入って、たくさん稼いでもらわんと』
表面上はにこにことしているが、押し潰すような圧迫感を与える父の声。
俺の育った家は、決して裕福ではなかった。関東の大学に行きたいと言ったときも、最初は難色を示された。一人暮らしに伴う家賃・生活費等の出費、さらに高い学費がハードルとなった。
奨学金を得ることを条件に許可は下りたが、それは貸与式のものだった。いずれは返済せねばならず、卒業後のプレッシャーは半端なものではない。
だから俺はいくつものアルバイトを転々とし、四年間でなるべく稼ごうとしてきた。当然、大学を出てからも高い給料を得られる仕事に就きたかった。それが俺に与えられた宿命だった。
告白すると、俺は久保さんのことが好きだったのだと思う。いや、今でも愛している。何でも一生懸命に頑張る彼女は、尊敬できる素敵な人だった。その憧れはいつしか、叶わぬ夢に似た恋愛感情へと変わっていった。
久保さんが新店を開くと言ったとき、俺は社員にならないかという申し出に飛びつきたかった。社会人と学生、店長とアルバイトという絶対的な壁が、今までの俺たちの間には存在していた。しかし、俺が彼女の店で正式に働くとなれば話は別だ。もっと関係を深めることだって夢ではない。
だが結局のところ、俺は両親からの圧力に屈してしまった。彼らを失望させたくなくて、知名度だけで選んだ商社に内定をもらった。おかげで、エントリーシートに志望動機を書くのには苦労した。
俺は、久保さんが思っているような立派な人間ではないのだ。夢や目標もなく、ただふらふらと、なるべく波風を立てぬように生きているだけの存在なのだ。
しばし訪れた沈黙の中で、俺は罪悪感に苛まれた。
俺はどうしようもなく愚かだった。自分の利益や見得を優先した結果、周りの人々を騙し、嘘で塗り固められた世界に生きている。そんな人間に価値などないだろう。




