10 刹那、すれ違う心
今、俺の中では二つの感情がせめぎ合っていた。
一つは、憧れの女性の側で働き続けたいという欲求。シフトの時間が彼女と少ししか被らないアルバイトと異なり、社員になれば長い時間店にいられる。もっと久保さんと距離を縮めることも、親密な関係になることも不可能ではないだろう。
何より、こうして彼女の店へと誘われていること自体、俺が久保さんに目をかけられている証拠だ。そこにあるのは恋愛感情ではなく、単なる仲間意識なのかもしれない。だが、これからもずっと彼女の側にいられるのなら、今はそれでも構わなかった。
もう一つは、きわめて個人的な感情だった。そのせいで俺は、一度彼女の方へ傾きかけた心を引き戻すこととなった。
やっぱり駄目だ、と思う。彼女の期待を裏切るのは不本意だが、家族の思いに応えないよりはましだ。どちらを優先するかと問われれば、自分を育ててくれた両親だと答えるだろう。
「……すみません、正社員は無理です。バイトなら、何とかなるかもしれませんけど」
深く頭を下げ、結局俺は久保さんの申し出を断った。
顔を上げるのが怖かった。彼女がどんな表情で、どんな目で自分のことを見ているのかと想像すると、肌が泡立つようだった。
「そっか。そうだよね」
何を納得しているというのだろう。恐る恐る面を上げると、久保さんはあくまで笑顔を崩さず、明るい声音で言った。
「ごめんね、変な話をしちゃって」
「いえ、全然……」
どうやら話は終わりらしい。俺は逃げるように席を立ち、レジへと戻った。
久保さんが手招きするのに応じ、俺と入れ替わりで三好さんが面談へ向かう。彼女にも同様の話を持ち掛けるのだろう。
三好さんは俺より一学年下だから、社会に出るのはまだ先の話だ。けれども、それは猶予が長いというだけである。将来的な選択肢として、久保さんの店で働く道を彼女が選ぶのかどうか。
自分の下した結論から意識を逸らそうとするように、俺は三好さんがどんな選択をするのかばかりを気にかけていた。
仕事が手につかないとは、こういう状態を指すのだなと実感する。
ぼうっとしたまま接客をしているうちに時間が過ぎ、やがて三好さんが戻ってきた。
「何の話だった?」
深刻なムードを出さぬように尋ねると、彼女はおずおずと答えた。
「……閉店後、久保さんの店で働かないかって聞かれました。いずれ社員にしてあげてもいいよって」
「それで?」
久保さんが仕事を上がり、店を出たのを視界の隅で捉える。これで気兼ねなく話ができそうだ。
急かすように聞いた俺にも、三好さんは躊躇せずに応じてくれる。
「アルバイトの件はお受けしたんですけど、正社員になるのは断りました。真木さんは?」
「偶然だな。俺も同じ質問をされて、同じように答えたよ」
そう言うと、彼女はちょっぴり嬉しそうな顔を見せた。
「……じゃあ、これからも同じお店で働けますね」
「ああ。改めてよろしく」
俺は他意なく微笑んだ。
あのときの俺は、三好さんの気持ちを理解し切れていなかったのだと思う。ヘルプの人ばかりとシフトを組んでいた寂しさから、自分を解放してくれた仕事仲間。俺のことはそんな風に認識されているのだろう、と思い込んでいた。
店内の清掃も大体終わり、再び手持ち無沙汰になる。レジに立った俺たちは、いつものように暇を持て余していた。
来月末でシティー・フォレスト東京店は閉まり、この安らかな時間は終わりを告げる。久保さんが始める店は多分もう少し賑わっていて、仕事も忙しくなりそうだ。別れを惜しむかのような余韻が、小さなシャンデリアの灯されたカフェには満ち満ちていた。
「あの」
不意に、三好さんが沈黙を破る。
「真木さんは、どうして正社員になるのを断ったんですか」
あまり答えたくない種類の質問だったし、答えたところで相手に好印象を与えることはないだろう。俺は咄嗟にそう判断し、返事をためらった。
「……三好さんは?」
質問を質問で返すのは、あまり褒められた行為ではない。しかし、俺には少し考える時間が欲しかった。
「私は……」
束の間、彼女は唇を小さく開き、それからはにかんだように笑った。
「まだはっきり決めたわけじゃないんですけど、将来の道は自分で選びたいって思ったからです。久保さんのお店で働き続けるのは、私の描く未来とは違うかもしれません」
「そうか」
俺は静かに首を縦に振った。
それでいい。若いうちから夢が定まっている人間の方が珍しいのだ。彼女も大いに悩んで、迷って、葛藤の中で自分の進むべき道を見つけていくのだろう。
ふと、三好さんがきょとんとしているのに気づき、俺は狼狽した。言うべき答えは思い浮かんでいないが、そろそろ答えざるを得ない。
「俺は……何ていえば良いんだろうな」
言葉を濁し、視線を虚空にさまよわせる。
「久保さんと一緒にいたい、というよりは、三好さんと一緒にいたいと思ったから」
本当の理由は明かさず、俺はかなりぼかした表現で思いを伝えた。今の人間関係を維持できればそれでいい、くらいのニュアンスのつもりだった。
俺がこの喫茶店が好きなのは、穏やかで平和な空間で心を安らげることができるからだ。久保さんが切り開く新天地で、それが可能だとは限らない。店が閉まった後も、バイト仲間たちとの交流が続けば良いなと考えていた。
三好さんの名前を挙げたのは、無意識に近いかもしれない。よく顔を合わせる相手だし、何だかんだで彼女には長い間お世話になっている。
こんな言い回しで正解だったのだろうか、と少し考え事をしていたせいで、俺は三好さんの表情の変化に気づけなかった。
はっと目を瞠り、指先が僅かに震えている。
何より皮肉なのは、この結末を招いた原因が俺にあることなのだ。




