表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/14

10 刹那、すれ違う心

 今、俺の中では二つの感情がせめぎ合っていた。

 一つは、憧れの女性の側で働き続けたいという欲求。シフトの時間が彼女と少ししか被らないアルバイトと異なり、社員になれば長い時間店にいられる。もっと久保さんと距離を縮めることも、親密な関係になることも不可能ではないだろう。

 何より、こうして彼女の店へと誘われていること自体、俺が久保さんに目をかけられている証拠だ。そこにあるのは恋愛感情ではなく、単なる仲間意識なのかもしれない。だが、これからもずっと彼女の側にいられるのなら、今はそれでも構わなかった。

 もう一つは、きわめて個人的な感情だった。そのせいで俺は、一度彼女の方へ傾きかけた心を引き戻すこととなった。

 やっぱり駄目だ、と思う。彼女の期待を裏切るのは不本意だが、家族の思いに応えないよりはましだ。どちらを優先するかと問われれば、自分を育ててくれた両親だと答えるだろう。

「……すみません、正社員は無理です。バイトなら、何とかなるかもしれませんけど」

 深く頭を下げ、結局俺は久保さんの申し出を断った。

 顔を上げるのが怖かった。彼女がどんな表情で、どんな目で自分のことを見ているのかと想像すると、肌が泡立つようだった。

「そっか。そうだよね」

 何を納得しているというのだろう。恐る恐る面を上げると、久保さんはあくまで笑顔を崩さず、明るい声音で言った。

「ごめんね、変な話をしちゃって」

「いえ、全然……」

 どうやら話は終わりらしい。俺は逃げるように席を立ち、レジへと戻った。

 久保さんが手招きするのに応じ、俺と入れ替わりで三好さんが面談へ向かう。彼女にも同様の話を持ち掛けるのだろう。

 三好さんは俺より一学年下だから、社会に出るのはまだ先の話だ。けれども、それは猶予が長いというだけである。将来的な選択肢として、久保さんの店で働く道を彼女が選ぶのかどうか。

 自分の下した結論から意識を逸らそうとするように、俺は三好さんがどんな選択をするのかばかりを気にかけていた。


 仕事が手につかないとは、こういう状態を指すのだなと実感する。

 ぼうっとしたまま接客をしているうちに時間が過ぎ、やがて三好さんが戻ってきた。

「何の話だった?」

 深刻なムードを出さぬように尋ねると、彼女はおずおずと答えた。

「……閉店後、久保さんの店で働かないかって聞かれました。いずれ社員にしてあげてもいいよって」

「それで?」

 久保さんが仕事を上がり、店を出たのを視界の隅で捉える。これで気兼ねなく話ができそうだ。

 急かすように聞いた俺にも、三好さんは躊躇せずに応じてくれる。

「アルバイトの件はお受けしたんですけど、正社員になるのは断りました。真木さんは?」

「偶然だな。俺も同じ質問をされて、同じように答えたよ」

 そう言うと、彼女はちょっぴり嬉しそうな顔を見せた。

「……じゃあ、これからも同じお店で働けますね」

「ああ。改めてよろしく」

 俺は他意なく微笑んだ。

 あのときの俺は、三好さんの気持ちを理解し切れていなかったのだと思う。ヘルプの人ばかりとシフトを組んでいた寂しさから、自分を解放してくれた仕事仲間。俺のことはそんな風に認識されているのだろう、と思い込んでいた。


 店内の清掃も大体終わり、再び手持ち無沙汰になる。レジに立った俺たちは、いつものように暇を持て余していた。

 来月末でシティー・フォレスト東京店は閉まり、この安らかな時間は終わりを告げる。久保さんが始める店は多分もう少し賑わっていて、仕事も忙しくなりそうだ。別れを惜しむかのような余韻が、小さなシャンデリアの灯されたカフェには満ち満ちていた。

「あの」

 不意に、三好さんが沈黙を破る。

「真木さんは、どうして正社員になるのを断ったんですか」

 あまり答えたくない種類の質問だったし、答えたところで相手に好印象を与えることはないだろう。俺は咄嗟にそう判断し、返事をためらった。

「……三好さんは?」

 質問を質問で返すのは、あまり褒められた行為ではない。しかし、俺には少し考える時間が欲しかった。

「私は……」

 束の間、彼女は唇を小さく開き、それからはにかんだように笑った。

「まだはっきり決めたわけじゃないんですけど、将来の道は自分で選びたいって思ったからです。久保さんのお店で働き続けるのは、私の描く未来とは違うかもしれません」

「そうか」

 俺は静かに首を縦に振った。

 それでいい。若いうちから夢が定まっている人間の方が珍しいのだ。彼女も大いに悩んで、迷って、葛藤の中で自分の進むべき道を見つけていくのだろう。

 ふと、三好さんがきょとんとしているのに気づき、俺は狼狽した。言うべき答えは思い浮かんでいないが、そろそろ答えざるを得ない。

「俺は……何ていえば良いんだろうな」

 言葉を濁し、視線を虚空にさまよわせる。

「久保さんと一緒にいたい、というよりは、三好さんと一緒にいたいと思ったから」

 本当の理由は明かさず、俺はかなりぼかした表現で思いを伝えた。今の人間関係を維持できればそれでいい、くらいのニュアンスのつもりだった。

 俺がこの喫茶店が好きなのは、穏やかで平和な空間で心を安らげることができるからだ。久保さんが切り開く新天地で、それが可能だとは限らない。店が閉まった後も、バイト仲間たちとの交流が続けば良いなと考えていた。

 三好さんの名前を挙げたのは、無意識に近いかもしれない。よく顔を合わせる相手だし、何だかんだで彼女には長い間お世話になっている。

 こんな言い回しで正解だったのだろうか、と少し考え事をしていたせいで、俺は三好さんの表情の変化に気づけなかった。

 はっと目を瞠り、指先が僅かに震えている。

 何より皮肉なのは、この結末を招いた原因が俺にあることなのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ