第45話 臆病な白鬼
第五位階下位
ゾクリッと背筋が震えた。
冷や汗が頬を伝い、体は凍り付いた様に動かず、それから視線を外す事が出来ない。
——それは深淵だった。
底の見えない永劫の暗闇。
濁り、澱んだ果てしない邪悪の黒。
——目があった気がした。
いや、目があったのだ。
あれは私をはっきりと見ていた。
——深淵など覗き込むべきでは無かったのだ。
其処にある物が何なのか、私は既に知っていたのだから。
「はぁはぁはぁ……おぇ……げほっ」
浅い呼吸を繰り返す。
震えが止まらない冷え切った体を抱きしめ、止まらない吐き気に嘔吐き咳き込む。
ユキが張った天幕の中、私は夜闇に怯えていた。
僅かに開いた入り口に怯え、それを閉じに行く事も目を離す事さえ出来ずに毛布を被り震えていた。
——あんな化け物に勝てる訳が無い。
私にはあれを前に平然としていた他の連中すら化け物に見えた。
日の出から直ぐに戦いを始めると言っていた。
信じられない。狂っている。
目を瞑ればはっきりと見える。
暗闇の底から濁った黄色い瞳が私を見詰めているのを。
「むにゃ」
「ひっ」
直ぐ隣から聞こえて来た小さな声に悲鳴をあげる。
体がびくりと強張り、心臓が跳ねた。
小さな声の正体はあかの寝言だった。
「ふ、ふざっ……けん、な……」
一瞬噴き上がった怒りに大きな声を上げそうになったが、直ぐに恐怖が再来した。
大声を上げれば奴が来るかもしれない。
いや、来る。
奴が来たら死ぬんだ。
殺されるんだ。
怖い。怖い。怖いこわいこわいコワイコワイコワ——
「……ぁ」
——光が射した。
怯えて震え、目を離さずにいた天幕の外、見えて来たのは崖に空いた穴。
この終わりなき深淵からの出口。
確かに其処に存在する希望への入り口。
「…………行かなきゃ……」
重い体に鞭打って立ち上がった瞬間、何処か遠い所で誰かの叫ぶ声が聞こえた気がした。
◇
「……ふぅ」
其処へ一歩踏み込むと、体が軽くなった気がした。
猛り狂った様に煩かった心臓は少しずつ平静を取り戻し、額を伝う冷や汗を拭う余裕が生まれた。
小煩かった心臓は、落ち着くに伴いズキリと痛みを訴えて来る。
苦しい呼吸を整え、痛みを和らげる様に胸元をさすった。
胸の痛みはいつまで経っても消えてくれない。
歩みを進める。
踏み出す足取りは軽い。しかし一歩踏み込む毎に心臓の痛みは増し、まるで全力疾走をした後の様に視界がふわふわと揺らぎ、脳が溶ける様な奇妙な錯覚を覚えた。
「あか、行くよ」
「……」
後ろにいるあかに声を掛けた。
あんな馬鹿共に付き合ってなどいられ無い。
どうせあの化け物の大きさじゃあ此処から外に出る事は出来ないのだ。
外に出れば安全に違いない。
「……でも、仲間が——」
「——ッ! 仲間なんかじゃ無いって言ってるだろッ!」
あかの言葉を否定する。
自分が出した大声に心臓が跳ねた。
体が震えて吐き気がする。
大きな声を出したせいか心臓が痛い。
大きな声を出したからか思考に掛かっていた靄が晴れるのを感じた。
視界が僅かに明るくなる。
そうだ、仲間なんかじゃ無い。
銃口を突き付けられ、無理矢理奴隷にされていた。
最初から戦ってやる義理なんて無い。
あんな奴ら、どうなったって知ったことかッ!
「はぁ……はぁ……」
ばくばくと鼓動する煩い心臓を抑え、呼吸を整える。
そうだ、どうでも良い。
いつも上から目線のユキも。
生意気なクラウも。
勝手に戦って勝手に死ねば良い。
どうせ仲間じゃない。
仲間じゃないんだ。
「……なぁ、しろ」
「……何さ」
少し遠くから聞こえる気がするあかの呟きに、言葉少なく返事をする。
少しバツが悪かった。
あかは少し馬鹿なだけ。怒鳴り付けてもそれはただの——
「——俺も、しろみたいに、仲間を助けたいって、思って、良いかな」
「っ!」
息が詰まった。
晴れかけた意識に影が射し、視界が狭まる。
私はあかを利用しているだけなんだ。
ただ私が生き残る為に。
利用出来ると思ったから助けた。
使えるから色々教えた。
私は……。
「しろみたいに、かっこ良く——」
「——煩いッ!」
分かってる。
私は臆病で利己的で最低なイキモノだ。
あかが思ってる程綺麗じゃないし、増してやかっこ良いなんてあり得ない。
本当にかっこ良い人は此処で逃げ出したりなんかしない。
「ばあかは黙って私について来ればいいんだ」
私はかっこ良くなんてない。
こうやって言えば、あかはいつもみたいに謝って、私について来てくれる。
いつもこうしてあかを利用している。
「……ごめん」
「分かれば良いさね」
そうだ、分かれば良い。
だって約束したんだ。
2人で一緒に地上に行くって。
こんな狭い世界から抜け出して、真の大地に行くんだって。
……そしたらどこに行こうか?
あかは海に行きたいって言ってた。
何処までも広がる広大でしょっぱい水溜りが見てみたいって。
私は人の街に行ってみたい。
きっと色んな物があるし、ユキが作ったみたいに美味しいご飯がいっぱいある。
——2人ならきっと何処にでも行ける。
あかならずっとついて来てくれる。
こんな私でも、あかなら……。
ふと、振り返った先には——
「……何で」
——あかの姿は無かった。
遥か遠くに見える山が、白い光を放つのが見えた。





