第32話 魂の器に
第六位階中位
そんな馬鹿な、ありえない。
ルテールの里が、賢者様がやられた……? これも奴等がやったのか? ……いや、仄かに残る竜の残滓から、何等かの竜の襲撃を受けたのだろう。
賢者様は、ルテールの民は何処へ行った? 乾いた血の跡こそあちこちにあるが、死体は無い、骨も無い。
逃げおおせたのだろうか? きっとそうだ。賢者様がそう簡単にやられるとは思えない。
これだけの襲撃だ、きっと賢者様達は、私達を巻き込まない様に、東へ向かったのだろう。
それに、遥か東には街の賢者様と言う方がいる。そこへ応援を要請しに行ったのかもしれない。
……いや、今はそんな事、関係無いか。
私達だけでは勝てない敵が私達に迫り、それに勝てる賢者様は此処にはいない。
それが今ここにある全てだった。
どうする?
幸いだ。考える時間だけはある。
『東進よ!』
民の、兵の困惑を、嘆きを振り切り、進軍させる。
退路は無い。
迷い、立ち止まれば、その分だけ命を縮める。
——迷ってでも進め……!
距離は? 正確には分からないが、幼い頃、人間の街の近くにあるローシェの里に行った事がある。
あの時は追われていないが、森の合間で休みつつ、10日か9日は掛かったか……このままだとその半分、5日程度は掛かるだろう。
そして……民も兵も、3日と持たない。
物資は無い。捨てた。
その選択が間違いだったとは思わない。物資を捨てなければ、その代わりに民を見捨てる事になっていただろう。
故に、持って3日。
その間に、奴等にとっての好機は、必ず訪れるだろう。
それが明後日か、明日か、それとも今かは、最早分からない。
だが……可能性の話だ。
残る食料を子供達に与え、3日の行軍を耐え忍び、私達と兵が、古老が打って出て、死んででも半日時間を稼げば。そして、子供達をバラバラに逃せば……誰か1人でも助かるかもしれない。
或いは、今、打って出るべきなのだろうか?
奴が弱っている可能性に賭け、乾坤一擲仕掛ければ、皆が生き残る事は出来るのでは?
……賭けに出るにはあまりにも根拠が足りない。
持ち得る手札に……広がる盤上に……勝ちの目が、無い。
東へ進み、無意味に等しい距離を稼ぎつつ、幾つもの手を考えては否定する。
今ある物では何も成せない。それでも何か出来ないかと考えては、心は千々に乱れ行く。
現実逃避にも等しいそれは片隅に、何か、何か状況を打開出来る物は無いかと、里の跡地を知覚して——それに気付いた。
それもまた、此方に気付いていた。
聖大樹の生えていた場所。
そこに空いた穴から、何か、大きな気配が這い出して来る。
——風が吹いた。
命溢れる、森の風が。
声が広く、伝播する。
『汝等ルテールの隣人、プラリネとドラジェの妖精達よ』
幾多もの声が重なって聞こえる。
慈愛に満ちたその声等は、まるで合唱の様に響く。
『疾く、東へ駆けよ。我等が神は、東に御座す』
里の中心、聖大樹があったその場から、夜闇を切り裂く光が広がっていく。
膨れ上がる、魔力の、生命の光だ。
『我は名も無き、伝令役』
大きな光の玉から次々と、エルフの形をした光が分たれ、私達の横を駆け抜けて行く。
『迷える同胞を導く、神命を果たす者也り』
数百の光の兵が抜け、後に残った巨大な光が、大きな人型を形成する。
その中心には、白い、大きな鎧がいた。
神が何を指すかは分からない。だが、それは私達を知っていて、私達を助けようとしてくれている。
その声には、確かな信念を感じた。
故にこそ、私も声に心を乗せて——
『武運を!』
『生き延びよ!』
——僅かな言葉を交わした。
駆け抜ける間に、多くを考える。
このまま反転攻勢すれば? 否、彼の者の魔力量はオーブ程では無い。
例え私達が加わっても、全滅は避けられない。
彼の者を置いて行って良いのか? 待ち受ける運命は、死のみ。
見殺しにするのと、何が違う。
彼の者は、信念を持って我等を守り、決死と知って挑もうとしている。
だが、それはあちらの事情。
同胞を、我等を守ろうとしてくれた人を、ただただ見殺しにして……私は、明日も私でいられるの?
——迷いは一瞬だった。
即座に振り返り、刹那——誰かに抱き締められる。
「ぐ、グオード!?」
「恨め!」
私を抑えるグオード。見上げたその顔は悲壮な覚悟に満ちていた。
「俺を恨め……!」
心臓が、ギュッと痛んだ。
弟分にそんな顔をさせてしまった事。そんな言葉を使わせてしまった事。そんな覚悟をさせてしまった事。
あぁ、どちらを選んでも、私はどちらかに誠実で無い。
自らの弱さに、嘆かずにはいられない。
遠ざかる光の巨人。
エルフの形をした戦士達は弓を構え、次々と光の矢を放つ。
敵の小集団はたちまちに殲滅され、光の戦士達は次の標的へ向かう。
彼等はきっと、敵の本隊にも怯まず戦い、邪神の眷属にさえ平然と挑むだろう。
例え、免れ得ぬ死へ突き進んでいるのだとしても、揺るぎない、神命と言う名の信念があるから。
私はどうだろうか……? 信念と呼ぶべきかすらも不確かな意志を曲げられ、私は、グオードを恨むだろうか……? ……きっと、そうはならない。
弟分の優しさを、恨む気持ちなど欠片も無い。
背負う嘆きの幾らかが、弟分の優しさに変わった。それだけの事だ。
「……強くなろう」
「……あぁ」
生き延びよう。
こんな思いは、二度とごめんだ。




