鬼どもの宴
水橋パルスィと星熊勇儀の殴り合い。比喩ではなく。それが魂魄妖夢と橙が旧都で最初に目にした景色だった。星熊勇儀が仕掛けて水橋パルスィがいなす。五秒傍観している間に幾つの拳が繰り出され躱されたのか。星熊勇儀の猛攻に見境は無く、水橋パルスィが家屋を背にしようものなら平気で壁を突き破る程。大分前からそうしていたのか、既に辺りには野次馬のひとり居なかった。
「妖夢さん、今の内に地霊殿まで駆け抜けちゃいましょう」
橙の提案は当然の様に魂魄妖夢に受け入れられた。その一歩を踏みそうとした瞬間、
身も凍る程の寒気が大穴から吹き抜けて来た。
轟々と台風の様な音を纏って黒谷ヤマメが弾丸の様に降って来た。着地の瞬間の衝撃は草木を揺らし、数十メートル離れた四人の視線を集める程。
「案内役を無視するとこわーい妖怪に食べられちゃうぞ?」
黒谷ヤマメの肌は赤い斑点の混ざった黒い金属質なものに変質し、眉の上から親指サイズの角が二本生えていた。
七枚の式神が一分と持たず。使役者が四尾の妖獣とはいえ、八雲の型に倣った式神たちだったのだ。並みの妖怪では押し切れる筈がなかった。
「妖夢さん、先に行ってて下さい」
橙は右手に二枚の御札を構えた。尾は膨らみ、瞳孔が細まっている。
「それでは、また後で」
魂魄妖夢はそう言うと橙に背を向け、鬼どもの殴り合いを避けるように路地へと姿を消した。
「格好良いわねえ。けど……」
黒谷ヤマメが歩み寄る。無遠慮に、無警戒に、にたりと笑うピエロの様な表情で。
「何故後退るのかなあ?」
一歩。
黒谷ヤマメが近付くごとに橙もまた退く。吸血鬼をも侵す病原体。その脅威の及ぶ範囲を測れた者は未だ居ない。故に橙は黒谷ヤマメが足を止めないよう退き続けた。
黒谷ヤマメが姿勢を低くし。
その次の一歩で互いに大きく進退しようとした瞬間、橙の背に誰かがぶつかる。
「退いて!」
水橋パルスィだ。彼女もまたじりじりと圧されていたのだ。
「横に跳んで下さい! ヤマメさんがヤバいです!」
橙は咄嗟にそう叫び家屋の屋根の上に飛び乗った。そしてそれと同じ方向に水橋パルスィも飛び退いた。
「鬼門金神」
橙は持っていた御札をそれぞれの鬼の居る方向へと投げた。御札は数メートル飛ぶと鳥居に変化して地に刺さった。そして鳥居の中から、何も特別なものは無い空間から、長巻を持ち禍々しい笑顔の鬼の面をした甲冑が現れた。甲冑はそれぞれ星熊勇儀と黒谷ヤマメを捉えると誰の指示も無く切り掛かった。
「助かったけど私には何もしないの?」
水橋パルスィが問い掛けた。彼女の左腕は丁度真ん中で折れ、左耳も潰れてしまっていた。それでも表情には苦悶一つ見せなかった。
「声を掛けてくれた時点で敵じゃないと判断しました。だから、手を貸して下さい」
橙は人型の紙を二枚袖から出して黒谷ヤマメの居るであろう方向へ投げ付けた。
「ヤマメが本気出してたら流石の私でも逃げるわよ?」
誰がどうなったのか、星熊勇儀の居る方向で家屋が一軒崩壊した。
「ヤマメさんは多分、こいしさんに操られているんです。逆に考えればこいしさんの近くまで逃げれば能力を無暗には使わないって事も有り得るんじゃないかなって思うんです」
二体の甲冑が殆ど同時に空中に打ち上げられた。星熊勇儀に充てられた甲冑に至っては既に両腕を失っていた。
「……勇儀の相手も無理よ、あれ」
「はい。だから一緒に来て下さい。地霊殿までの安全な道の案内と弾幕による居場所の撹乱をお願いします。家が全部壊される前に」
水橋パルスィは一瞬茫然とした。無様に落ちて行く甲冑を、ただただ眺め。そして次の瞬間、纏わり付く様な寒気を溢れさせながら愉快そうに笑い声を上げた。
「舌切雀「大きな葛籠と小さな葛籠」」
水橋パルスィは一頻り笑うと、すっと真面目な顔をしてそう呟いた。彼女の隣に現れたのはもう一人の、無傷な彼女だった。
「私が引き付けておくから今の内に行きなさい」
傷だらけの水橋パルスィが飛沫の如き小さな無数の弾幕を両手から溢し始めた。
「所詮偽物のクセに私より長生きなんて、羨ましい限りね」
「そっちこそ美味しいとこ取りでカッコつけちゃって……」
切磋琢磨とは懸け離れた、それでもお互いに高まり合う環境。二人の水橋パルスィから溢れるそれは最早寒気や吐き気では済まされない程に膨れ澱み始めていた。同じ空間に居るだけで幸せな思い出を全て忘れてしまいそうな程の嫌悪感。全人類が怨敵だと錯覚させられる程の仄暗くドロドロとした感情。
その場に居る三人の心を吸い上げて、二人の水橋パルスィが際限無く力を増幅させていく。
星熊勇儀と黒谷ヤマメが二軒先の家屋の屋根の上に飛び乗ってきた。二人とも目立った外傷は無く、息が上がっている様子すらも見られなかった。
そして彼女はまた嫉妬し。
「それじゃあ、行きなさい」
「言われなくても」
偽物の水橋パルスィは橙を抱え上げ、家屋の陰に飛び降りて地霊殿に向けて全力で走り始めた。
「あれじゃあ――」
「妬ましいわね。大して面識も無いクセに心配されて……。大丈夫も何も、私は今までずっとこうやって生き延びてきたのだもの。今更だわ」
水橋パルスィは走る速度を更に上げた。
何かが何かにぶつかる音がどんどん遠退いていく。