幻想と現実の境界
八雲紫御一行は人里を覆う結界を前に足を止めていた。
「何故ピンポイントの座標にスキマを繋がなかったのですか?」
射命丸文の声に、しかし迫るものは無く。寧ろ興味津々に結界をカメラに収めていた。
「結界内が瘴気に満ちていたら私の家が汚れるでしょう?」
八雲紫は目の前に縦長のスキマを、何の前置きも無く開いた。その向こうは今居る場所から数メートル先、結界から十歩も歩かない程度の人里の内部だった。八雲紫が懸念していた事態は起きず、人が倒れている以外はいつも通りの人里だった。
「妖夢と射命丸はここで待機。姫海棠は私の後方から見てなさい」
意気込んで踏み込もうとした。その一歩目。八雲紫の足が地に着くが早いか、人里を覆っていた結界が砕けた。否、砕かれた。幻想郷全体の空気を震わす程の雷が一筋、結界の中心へと向かって走ったのだ。
その先の遥か上空を見上げ、戦慄する。
「龍神……?」
凶兆。八雲紫の与り知らない、幻想郷全体を揺るがす程の異変が起きている。彼女は足元に巨大なスキマを開き、禍根へと四人を引き摺り込んだ。
古明地こいしに耳元で何かを囁かれている博麗霊夢。足元に散らばる紫色の結界の破片と夥しい数の死体も相俟って、その光景は八雲紫にすら悍ましさを植え付けた。そしてそれ以上の異変。古明地こいしに第三の目が二つ付いている。閉じた青い瞳と、見開かれた黒い瞳。
博麗霊夢が古明地こいしに心を読まれ無意識すらも操られているのかもしれないと、誰もがそう思わずにはいられなかった。それ程までに目の前にいる少女は、博麗霊夢だった。
「さっすが古明地さん! あっ、でもここ危なさそうだから逃げてね?」
「これくらい慣れてるから平気だよー。それに、デイジーが帰って来れば良いだけの話でしょー? 大丈夫。僕はデイジーの事、信頼してるからさ」
博麗霊夢が恥ずかしそうに笑った。
茫然。
次の瞬間、博麗霊夢の姿は消えていた。それと同時に、上空から微かな悲鳴が届く。
龍神の頭が丸々消えていた。首先は切り落とされたというよりも引き千切られている様だった。意識を失った体は痛みとも怒りとも取れるうねりを見せながら落ち始める。そしてその意識と取って変わるかの様に、かつて頭があった空間で博麗霊夢が蹲って悲鳴を上げていた。彼女もまた、落ちていた。
「霊夢を回収しなさい!」
「僕の所に運んで来て欲しいなー」
八雲紫が叫んだ直後、古明地こいしが笑った。二つの開いた目が二人の天狗を見ていた。
オーバーライト。
八雲紫がその事に気付くより早く、魂魄妖夢が動いていた。古明地こいしの能力の解除、その為の最短ルートを。距離にして十メートル。彼女の足であれば一秒と掛からないその僅かな間で、古明地こいしもまた姿を消していた。
「ねえ! 僕は何も悪い事はしてないんだよ? それなのにいきなり切り付けるなんてちょっと酷いんじゃない?」
声の主が直ぐ近くの家屋の屋根の上に居た。瓦に足を滑らせたのか、ぺたりと座り込んでお尻を擦っていた。
彼女の頭上に巨大なスキマが開き、白い手袋をした家屋二軒は裕と潰せそうな程に巨大な拳骨が殴り掛かる。
然しもの古明地こいしも避け切れなかった。避け切れなかったが、退けられた。姫海棠はたてが彼女を拾って近くの地面へと降ろしていたのだ。そして丁度そこに博麗霊夢を抱えて射命丸文が降り立った。
「ご苦労様、二人とも。もう戻って良いよ」
博麗霊夢を受け取って、彼女はそう言った。
「それじゃあ皆様、崩れゆく幻想を心行くまでお楽しみ下さい」
一礼をし、そして古明地こいしと博麗霊夢は姿を消した。その跡を、魂魄妖夢ですら追う事は叶わなかった。
龍神だったモノの残骸が人里を取り囲む様にして地に落ちた。
「申し訳ありません。用意はしていたのですが……」
「妖夢の所為じゃないわ。それに、貴女達も悪意が有った訳じゃない。異変はまだ解決していないのだから、反省会はその後になさい」
八雲紫は目の前にスキマを開いた。行き先は八雲邸。
「射命丸文は閻魔様に言伝をお願い。博麗大結界の中と外で白黒をはっきりとさせておきなさい、と。姫海棠はたては橙を私の元に運んで頂戴。妖夢は私と一緒に戻るわよ。それでは」
八雲紫は返事も聞かずに魂魄妖夢を連れてスキマの向こうへと消えてしまった。残された二人は暫くお互いに顔を見合わせ、そして方々に散って行った。