3
―しい我が…―
夢の中で歌が流れる。
音量はやっぱり小さい。
慎重に聞き取らないと、気付かないくらいに。
気持ちが焦る。
追い立てられるような、苦しい感覚。
でもその日は少し、いつもと違った。
いつもなら目が覚めるこの瞬間を、必死に堪える。
もう少し、もう少しだけ。
歌がいつもよりはっきり聞こえたような気がした。
母の手に…れて…しい我が…優しい夢を―――
目が覚める。
あぁそうか、これは子守唄…
いつも枕元で、母さんが歌ってくれた子守唄。
僕は穏やかな気分で遠い記憶を懐かしむ。
でも同時に、言いようのない不安が込み上げた。
慌ててベッドから降りる。
自分で取った行動ではあったけど、こんなに体がすんなり動くとは思いもしなかった。
いつもの体を蝕む緊張がない。
時計を見る。
時刻は既に9時を回っていた。
さっきまでの安らぎや焦燥を忘れ、僕は慌てて家を飛び出す。
誰もいない空間、自転車に飛び乗り、自分の精一杯の力でそのペダルを踏んだ。
珍しく大雨で、空は重く、辺りは朝とは思えないほど薄暗い。
強風でレインコートのフードは一瞬のうちに剥がれ、僕はそれを直すこともせず、頭からずぶ濡れになりながら走り続けた。
遅刻を最小限に止めるために、近道だけどいつもは使わない裏道を選ぶ。
水路に平行して伸びる細道の両側に広がる田んぼでは、風と雨でへし折られた稲が大群になって倒れている。
僕はその光景に目を奪われた。
濡れた稲は薄暗い空間の微かな光を反射して、まるで艶やかな金色の絨毯のようが風に揺らめくようだった。
途端、足下でガッと鈍い音がして、僕の意識は現実に引き戻される。
でも引き戻された世界は全てがスローモーションのようにゆっくり動き、白昼夢でも見ているような感覚だった。
金色の絨毯は穏やかに揺らめきながら視界の端へ移行し、そして外へと逃げていく。
入れ替わるように現れたコンクリートの似通った凹凸と暗い灰色が、右へ右へと流れていく。
僕は自分の体が宙に浮いているのを感じた。
そして重力に誘われるまま、より深くへと落ちていく。
ようやく地面に着いたとき、今までに感じたことのない鋭い痛みがわき腹を貫いた。
顔の左半分を流れる水が覆う。
体が動かない。
ザァザァと降り続ける雨が体を打ち付け、守るもののない右耳に流れ込む。
ゴボボと脳に響く音と痛みが襲うと、うるさい雨音は鈍く響く空気の音にかき消された。
目の前にはコンクリートの壁。
薄暗い空を見上げようにも、首が動かない。
僕はようやく理解した。
あぁそうか、僕は水路に落ちたんだ。
少し目線を下げると、勢い良く流れる水が赤みを帯びているのが見えた。
頭がじりじりと痺れているから、頭を打って出血しているのかも知れない。
胸のあたりを中心に体が燃えるように熱いから、胸も怪我しているんだろう。
確かめようにも、目線は鼻先くらいまでしか下げることができない。
両手両足の感覚が無いのに、僕は自分がいやに冷静なことに気が付いた。
さっき感じた痛みは一時的で、今はもう熱さと息苦しさだけしかない。
僕はゆっくり目を閉じた。
鈍い音が響く世界の中で、熱い皮膚に冷たい水だけが打ち付ける。
誰もいない空間。
僕だけが、ここにいる。