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第一話 廃業日の女湯から、最強探索者が落ちてきた

1話7000文字~12000文字程度で長めです。

第一話 廃業日の女湯から、最強探索者が落ちてきた


 祖母の葬式を終えた夜、廃業するはずだった女湯から、血まみれの女が落ちてきた。


「……配信を、切って」


 それが彼女の第一声だった。


 もっとも、俺はすぐには返事ができなかった。

 脱衣所と浴室を隔てる曇りガラスが内側から爆発したように砕け、黒い鎧を着た女が濡れたタイルの上を三メートルほど滑って、ケロリン桶の山に突っ込んだのだ。


 午後十一時四十七分。

 夕凪湯、最後の営業を終えてから二時間後。

 客は全員帰り、表の暖簾も片づけ、俺は番台で廃業届の控えを眺めていた。


 だから、最初に思ったのは不法侵入でも強盗でもない。


 ――女湯のガラス、特注なんだけど。


 祖母なら、まず人の心配をしろと怒っただろう。


「聞こえた……? 配信、切って……」


 女はうつ伏せのまま、もう一度言った。

 右手に握った細身の剣は半ばから折れ、黒い鎧には獣の爪で抉られたような裂け目が走っている。肩から脇腹までが赤黒く濡れ、床に落ちた血が湯気の残るタイルに細い筋を作った。


 その頭上を、拳ほどの銀色の球体がふらふら飛んでいた。

 表面に赤いランプ。

 配信用の浮遊カメラだ。


 俺はようやく状況を理解した。


「黒瀬……ミナ?」


 ダンジョンに興味のない俺でも、その顔と名前は知っていた。


 国内に十二人しかいないS級探索者。

 配信チャンネル登録者、一千八百万人。

 単独で深層を踏破することから、《黒鉄のミナ》と呼ばれる女。


 ニュースではいつも、傷一つない黒いコート姿で笑っている。

 目の前の彼女は、その宣材写真とはまるで違った。


 青白い顔。震える指。焦点の定まらない瞳。

 左脚はおかしな方向に曲がり、脇腹の傷からは、血ではない青い光が砂のようにこぼれている。


 迷宮侵蝕。

 教科書でしか見たことのない、深層探索者特有の症状だった。


「カメラの止め方は?」

「音声……認証。クロガネ、配信終了」


 しかし球体は止まらなかった。

 赤いランプの横に、《通信障害・終了命令を受理できません》という文字が浮かぶ。


「最悪……」


 女――黒瀬ミナは目を閉じた。


 俺は銀球をつかみ、近くにあった空の牛乳箱へ放り込んだ。上からバスタオルを三枚押し込み、蓋をして、その上に体重計を載せる。


「映像は切れた。音は知らない」

「十分……」


「救急車を呼ぶ」

「駄目」

「駄目じゃない。左脚骨折、裂傷、たぶん大量出血。侵蝕率も――」

「救急車が、ここまで来る前に……ゲートが開く」


 直後、割れた曇りガラスの向こうで、何かが鳴いた。


 地の底から巨大な鉄板を引きずるような音だった。

 銭湯の古い窓がびりびり震え、鏡に残った水滴が一斉に落ちる。


 俺は女湯を覗き込んだ。


 富士山のペンキ絵があるはずの壁に、見覚えのない扉が立っていた。

 高さ三メートルほどの、黒い石の門。

 隙間から紫色の霧が流れ出し、湯気と混ざって床を這っている。

 門の向こうには、夕凪湯ではない空間が見えた。


 黒い岩山。

 赤い空。

 山より大きな何かの影。


 八年前、世界中に突然現れた《迷宮》の一つ。

 テレビ越しに何度も見た、東京湾第三ダンジョンの深層だった。


「どうして銭湯に……」

「私が聞きたい」


 ミナは肘で身体を起こそうとした。左脚が動き、喉の奥から押し殺した悲鳴が漏れる。


「動くな」

「戻らないと」

「その身体で?」

「私が抜けたら、あれが地上に上がる。封鎖班は全滅。帰還石も砕かれた。私が……倒すしかない」


 門の向こうで、再び咆哮が響く。

 紫の霧が濃くなり、浴室の照明が明滅した。


 俺はスマートフォンを取り出したが、画面は圏外になっていた。

 固定電話も雑音しか返さない。


 八年前の迷宮災害以来、誰もが知っている原則がある。


 ダンジョンの中で起きたことは、基本的に探索者が解決する。

 外の人間は、祈ることしかできない。


 俺は探索者ではない。

 適性検査は最低値。固有技能なし。魔力反応なし。

 学生時代に一度だけ訓練迷宮へ入って、スライムを前に腰を抜かし、二度とゲートに近づかないと決めた一般人だ。


 けれど、ここはダンジョンではない。


 祖母が六十年守った、夕凪湯だ。


「戻るにしても、先に止血する」

「普通の薬は効かない」

「普通じゃなくても、血が出ているなら圧迫はできる。鎧、切るぞ」


 返事を待たず、救急箱と裁ちばさみを持ってきた。

 夕凪湯は古いが、祖母は救命講習だけは毎年受けていた。救急箱にはガーゼ、圧迫帯、三角巾、滅菌水、簡易副木まで揃っている。


 鎧は見た目ほど硬くなかった。傷の周囲にある留め具を外すと、黒い板が花弁のように開く。脇腹には四本の裂傷があり、その奥で青い光が脈打っていた。


「触るな。侵蝕が移る」

「移ったら?」

「運がよければ三日熱が出る。悪ければ、あなたの内臓が別の生き物になる」

「説明が遅い」


 俺はゴム手袋を二重にした。


 圧迫帯を当てても、青い光は染み出してくる。血液というより、身体そのものがほどけているように見えた。


「侵蝕を止める薬は?」

「表層用なら腰のポーチ。でも、ここまで進んだら意味がない」


 ポーチには銀色の注射器が二本入っていた。一本を渡すと、彼女は首筋に打った。

 震えはわずかに収まったが、傷は閉じない。


「水……」


 俺がペットボトルを差し出すと、ミナは首を振った。


「違う。音がする」

「音?」

「お湯の音」


 耳を澄ます。


 営業は終わっている。循環ポンプも止めた。浴槽の栓も抜き、明日の朝に残り湯を流す予定だった。

 それなのに、浴室の奥から、ちゃぷ、と小さな音がした。


 女湯の主浴槽。

 本来なら底が見えるほど水位が下がっているはずの浴槽に、湯が満ちていた。


 黒に近い琥珀色の湯。

 夕凪湯の地下百二十メートルから汲み上げる、天然温泉だ。

 廃業を決めた最大の理由は、井戸のポンプが壊れ、もう湯を汲めなくなったことだった。


「なんで……」


 浴槽の縁から湯が溢れ、床を流れている。

 壁の温度計は四十二度を指していた。

 湯気の向こうに、赤い暖簾が揺れていた。


 女湯の中に暖簾などない。

 まして、見たこともない文字が白く染め抜かれている。


 《帰》


 ミナが息を呑んだ。


「セーフルーム……?」

「何だ、それ」

「ごくまれに、深層で発生する安全地帯。魔物が入れず、侵蝕が薄くなる。でも、こんな……建物ごとなんて聞いたことがない」


 浴槽の湯が、青白く光った。

 ミナの傷からこぼれていた光の砂が、湯の方へ引かれていく。


「入ればいいのか」

「待って。正体が分からない。回復を装って、探索者を溶かす擬態型かもしれない」

「うちの風呂を化け物扱いするな」

「あなたも正体を知らないでしょう」

「それはそうだけど」


 祖母ならどうしただろう。


 客が転び、血を流し、寒そうにしている。

 風呂は沸いている。


 なら答えは一つだった。


「服を脱げとは言わない。鎧の金属だけ外す。傷口を湯につけるのが危なそうなら、まず足先から試す」

「慎重なのか雑なのか分からない」

「銭湯の番台は、安全第一なんだよ」


 俺は浴室用の車椅子を持ってきた。祖母が足の悪い常連のために、市の補助金で買ったものだ。

 ミナを乗せ、主浴槽の前まで運ぶ。


 折れた左脚に簡易副木を当てたまま、右足のブーツを脱がせる。指先まで青い紋様が広がっていた。


 彼女は覚悟を決め、右足を湯へ入れた。


 しゅう、と焼けた鉄を水につけたような音がした。


「っ……!」


「熱いか?」

「逆。冷たい……違う。何かが、抜ける」


 青い紋様が、足先から薄れていく。

 湯の中に黒い靄が溶け、それを金色の光が包んで消した。


 浴室の壁に、文字が浮かんだ。


 《入浴者一名》

 《迷宮侵蝕率 九七・四%》

 《重度裂傷/左大腿骨複雑骨折/魔力枯渇》

 《回復可能》

 《入浴料 四百八十円》


「四百八十円?」


 ミナが呆然と呟いた。


「大人料金だな」

「そこ?」

「東京都の公衆浴場料金。去年上がった」


 壁の文字が一行増えた。


 《前払い》


「厳しいな」


 ミナは鎧の内側を探り、血まみれの五百円玉を出した。

 俺は反射的に受け取り、腰につけていた番台用の小銭入れから二十円を返す。


「毎度」


 ちりん、とどこかで鈴が鳴った。


 赤い暖簾が大きく揺れ、浴槽の湯が一瞬だけ白く輝いた。


 ミナの身体が宙に浮いた。


「え」

「ちょっ――」


 見えない手に抱えられたように、彼女は車椅子から持ち上がり、そのまま浴槽の中央へ落ちた。


 盛大な水しぶきが上がった。


「ごぼっ、ちょっと! 鎧! 端末!」


「俺のせいじゃない!」


 慌てて引き上げようとしたが、ミナはすぐに立ち上がった。


 立ち上がった。


 折れていたはずの左脚で。


 脇腹の傷が、湯気の向こうで閉じていく。裂けた皮膚が巻き戻すようにつながり、青い光の砂がすべて湯に吸い込まれた。頬に血色が戻り、濁っていた瞳が黒曜石のような輝きを取り戻す。


 壁の表示が変わった。


 《迷宮侵蝕率 〇・三%》

 《外傷回復》

 《魔力充填中》

 《残り入浴推奨時間 九分五十二秒》


「あり得ない……」


 ミナは自分の脇腹を触り、左脚を曲げ伸ばしした。


「最高級の回復薬でも、骨と魔力回路を同時には直せない。教会の聖域だって侵蝕率を二割落とすのが限界なのに」


「うちの湯は肩こりと冷え性に効くって評判だった」

「規模が違いすぎるでしょう」


 黒い鎧まで修復され始めていた。

 湯に浸かった部分から亀裂が塞がり、半ばで折れていた剣も、浴槽の縁に立てかけた途端、黒い粒子を集めて元の長さを取り戻す。


 牛乳箱の中から、くぐもった電子音が聞こえた。


 通信が戻ったらしい。

 同時に俺のスマートフォンも激しく震え始めた。圏外表示が消え、着信と通知が滝のように流れ込む。


「配信……まだ生きてる」


 ミナが顔をしかめた。


 俺は牛乳箱から銀球を取り出した。レンズはタオルに塞がれているが、横の小さな画面には数字が表示されていた。


 同時視聴者数、一八四万二千三百十一人。


 コメント欄が速すぎて読めない。


《生きてる!?》

《今どこ》

《銭湯?》

《男の声したぞ》

《四百八十円で全回復って言った?》

《場所特定班はよ》

《映像戻してお願い》

《クロガネ泣いてる?》


「泣いてない」


 ミナは即答した。

 目尻に浮かんだ水滴は、たぶん湯気のせいだ。


「配信、再開する」

「風呂場で?」

「映すわけないでしょう。門だけ。あいつを倒すところまで見せる」


「戻るのか」


「戻る」


 迷いのない声だった。

 けれど、浴槽の縁を握る指がわずかに震えているのを、俺は見た。


「怖くないのか」

「怖いよ」


 有名なS級探索者は、案外あっさり認めた。


「怖くない人間は深層まで来られない。怖さを忘れたら、自分が死ぬだけじゃなくて、後ろの人を殺すから」


 門の向こうで、三度目の咆哮が響いた。

 紫の霧に混じって、巨大な爪の先が扉を引っかく。


「でも、帰れるなら戦える」


 ミナは湯から上がった。

 俺が差し出した大判タオルを受け取り、鎧の上から身体を拭く。濡れた黒髪を後ろで束ね、修復された剣を握ると、さっきまで死にかけていた人間とは思えない圧が浴室を満たした。


 壁に新しい表示が出た。


 《一時帰還地点を登録しますか》

 《登録した入浴者は二十四時間以内に限り、退出地点へ再入場できます》

 《死亡状態からの回復はできません》

 《再入場には番台の送客承認が必要です》


「セーブポイント……」


 ミナが呟く。


「ゲームみたいに言うな。死んだら戻らないって書いてある」

「分かってる。でも、探索者にとっては革命だよ。深層から装備を維持したまま休息して、同じ場所へ戻れる施設なんて、世界中のどこにもない」


 彼女は壁の《登録》に触れた。


 ちりん、とまた鈴が鳴る。

 脱衣所の木製ロッカー、その三十七番の鍵札が赤く光った。


「番台の承認って、どうやるんだ」

「あなたが番台なんでしょう」

「今日で辞める予定だった」

「あと十分だけ延長営業して」


 ミナは笑った。

 配信で見る、自信満々の笑みとは少し違う。

 怖いと認めた人間が、それでも前を向くときの顔だった。


 俺は銀球のタオルを外した。


「浴室は映すなよ。公衆浴場法以前に、常識の問題だからな」

「今、客は私しかいない」

「これから来るかもしれない」

「こんな時間に?」


 そのとき、男湯の方で、どぼん、と大きな音がした。


 続いて、野太い声。


「ここはどこだああああ! 俺の腕が生えてるうううう!」


 俺とミナは顔を見合わせた。


 男湯へ走ると、浴槽の中で筋骨隆々の外国人が自分の右腕を抱きしめて泣いていた。肩口から先を失ったはずなのだろう。再生したばかりの腕は赤ん坊のように白い。

 浴槽の横には金色の鎧と大斧。頭上には英語の表示。


 《入浴者一名》

 《入浴料 四百八十円相当》

 《未払い》


「誰?」


 俺が聞くと、ミナが珍しく目を丸くした。


「アレックス・グラント。世界ランキング三位。今朝、南極迷宮で消息を絶ったって速報が出てた」


 アレックスは俺たちに気づくと、泣きながら何かをまくしたてた。英語の半分も聞き取れないが、助かった、神の風呂、ありがとう、という単語は分かった。


 そして最後に、申し訳なさそうに両手を広げた。


 財布はないらしい。


「ツケは駄目だぞ」

「世界三位から取り立てる気?」

「祖母の遺言だ。常連ほどきっちり払わせろって」


 壁の表示が点滅した。


 《番台による立替払いが可能です》


 俺はため息をつき、小銭入れから五百円玉を出した。


「二十円は後で返せよ」


 投入箱らしきものはない。試しに番台方向へ掲げると、硬貨が淡い光になって消え、足元に二十円が落ちた。


 アレックスの頭上に《支払済》と表示される。


 彼は両手を合わせ、俺を拝み始めた。


「神じゃない。番台だ」


 通じていないだろうが、一応訂正した。


 男湯にも黒い石の門が現れていた。向こう側は吹雪の荒野だ。白い巨人の群れが遠くを徘徊している。


 アレックスは新しい右腕を握りしめ、浴槽から上がった。金色の鎧を身につけ、大斧を肩に担ぐ。


 ミナと同じように、ロッカーの鍵札が赤く光る。


「どうやって送る?」


 壁に答えが浮かんだ。


 《登録入浴者を送り出す際は、番台よりお声がけください》


「声がけ?」


 祖母が毎日していたことを思い出す。

 朝一番の常連にも、学校帰りの子どもにも、夜勤前の看護師にも。


 客が入ってきたときは、おいでなさい。

 帰ってきたときは、おかえり。

 外へ出るときは――。


 俺は門の前に立つアレックスへ言った。


「いってらっしゃい」


 赤い暖簾が翻った。

 アレックスの身体が金色の光に包まれ、一瞬で門の向こうへ消える。


 銀球の画面に、海外配信の映像が割り込んだ。

 南極迷宮の吹雪の中に戻ったアレックスが、待ち構えていた白い巨人を新品の右腕で殴り飛ばしている。


 コメント欄が爆発した。


《WHAT WAS THAT BATH!?》

《腕が再生した》

《日本の温泉やばい》

《番台の男は誰だ》

《四百八十円????》


「次、私」


 ミナが黒い門の前に立った。


「本当に大丈夫か」

「十分前より百倍は」


「死んだら戻せない」

「分かってる」


「だったら、生きて帰れ」


 自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。

 祖母なら、もっと気の利いた言葉をかけただろう。


 ミナは少しだけ目を見開いたあと、頷いた。


「うん」


 俺は息を吸う。


「いってらっしゃい」


 黒い鎧が光に包まれ、消えた。


 次の瞬間、銀球が彼女の配信映像を映し始める。


 赤い空の下。

 砕けた岩山の頂上。

 ミナの目の前に、六枚の翼と百近い眼を持つ巨大な獣がいた。


 災害指定迷宮主《百眼天獣バルグラム》。

 推定危険度SS。

 討伐失敗時、東京湾沿岸二百万人に避難命令が出ると、夕方のニュースで言っていた。


 百の眼が一斉に開き、紫の光線が放たれる。


 ミナは避けなかった。

 修復された黒剣を正面に構え、光の奔流を真っ二つに裂く。


『待たせたね』


 配信越しの声は、もう震えていなかった。


『第二ラウンド。今度は、帰る場所がある』


 彼女の足元から、黒い雷が走った。


 戦いは七分で終わった。


 俺には速すぎて、何が起きているのか半分も分からなかった。

 百の眼から放たれる光線の間をミナが駆け、空中で方向を変え、巨大な翼を一本ずつ切り落とす。最後は天高く跳び、黒剣を獣の額へ突き立てた。


 迷宮主の身体が、星屑のように崩れる。

 赤い空が青へ戻り、遠くで警報解除の鐘が鳴った。


 同時視聴者数は、六百万人を超えていた。


『討伐完了』


 ミナは息を切らしながら、カメラへ向き直った。


『それから、さっき助けてくれた人へ。聞こえてる?』


 銀球越しに目が合う。


『二十円、じゃなかった。四百八十円分。ちゃんと払いに戻るから』


 門が現れた。

 今度は黒い石ではない。

 夕凪湯の、見慣れた赤い暖簾だった。


 ミナがそれをくぐる。


 女湯の浴室に光が満ち、彼女が戻ってきた。


「ただいま」


 自然な声だった。


 俺も、考えるより先に答えていた。


「おかえり」


 ちりん、と鈴が鳴る。


 その音は、今までで一番長く響いた。


 浴室だけではない。

 脱衣所、番台、誰もいない休憩室、閉めたはずの玄関。

 夕凪湯の建物全体を通り抜け、夜の商店街へ広がっていく。


 スマートフォンがまた震え始めた。


 探索者向け緊急アプリからの通知だった。


《新規共通帰還地点が登録されました》

《名称:夕凪湯》

《管理者:久世湊》

《利用可能迷宮:確認中》


 確認中、の文字が数秒点滅する。


 やがて表示が切り替わった。


《利用可能迷宮:全迷宮》


「全……?」


 ミナの声と、俺の声が重なった。


 その夜。


 東京湾、南極、サハラ砂漠、ロンドン地下、アマゾン流域。

 世界中に存在する百八のダンジョンで、同じ現象が起きた。


 帰還不能になった探索者の前へ、赤い暖簾が現れたのだ。


 暖簾には、白い文字でこう染め抜かれていたという。


 《夕凪湯》


 そして俺はまだ知らなかった。


 祖母が守っていたこの古い銭湯が、世界で唯一の《セーブポイント》であることを。


 その番台に座った俺が、翌朝までに三千七百件の救助要請と、国からの営業停止命令と、三十億円の買収提案を受けることになるなんて。


 もちろん、そのどれも。


 入浴料四百八十円より面倒な話だった。


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