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主婦と珈琲

「旦那さんは定年だっけ?」

「そう。去年ね。な~んにもしないのに、家にいるのが鬱陶しいのよ。」

「“亭主元気で留守がいい”ってよく言ったものね〜!」


 家の中の不満を吐き出すこの時が一番楽しい。この人達と知り合ったのは、スーパー入り口で配っていたチラシの“食パン1斤”の文字に釣られて行った、体操教室の説明会だった。


 今じゃその体操教室なんて行ってないし、なんなら食パンじゃなくて菓子パンを買って、皆でこうして買い物帰りに珈琲を飲むのが習慣になっている。


「お待たせいたしました。厚焼きホットケーキです。こちらにナイフとフォークが入っております。ごゆっくりどうぞ。」


 テーブルで大きな存在感を放つふわふわなホットケーキは、家では作れない。ぺたっと薄ーいパンケーキですら家では面倒くさい。だって作ったら、使った食器もフライパンもボウルに付いたベタベタした生地も、全て片付けるのは私だから。


 此処のホットケーキは2段重ねで、大きめのバターが一欠片乗り、艶々に蜂蜜のベールを纏っている。お姫様のように柔いその生地にナイフを突き立て、私達は貪るように食べる。


「取り皿貰おうか?⋯すみませーん!」

「はい。取り皿ですね!今お持ち致します!」

「あぁ〜ありがとう〜!」


 ぺこりと頭を下げてレジへ急ぐ彼女は、気が利くというよりも気さくな店員さんだ。私達も慣れて、彼女も慣れた。それだけ常連になってしまったのは、居心地の良さと珈琲の魔法かしら?


「そうそう!これ興味ない?」


 1人が大きめのショルダーバッグから取り出したのは、フラダンス教室のチラシ。


「最近⋯じゃないけど、年々太ってきてお腹周り動かすフラダンスなら痩せるって聞いて。どう?」

「私、運動は⋯。それに、子供の習い事が始まってお金もねぇ。」

「私もパートがあるから⋯毎週なんでしょう?」

「隔週よ?ねぇ、どう?」


 明らかに嫌そうな二人に早々に見切りをつけた彼女は、目を輝かせて私に狙いを定める。


 あゝ嫌だ⋯。直感で興味もないフラダンスにお金を出したくないと思った。


 通うのに遠すぎない距離と“初回無料体験会”“トイレットペーパープレゼント”で押してくる。一度行けば、数ヶ月は通う羽目になる。そのお金で何杯珈琲を飲めるだろうか⋯。


 私の中の『行きたくない』は彼女の失望する顔を見るに値するのか、勝手に天秤にかけている。昔からそんな自分が嫌い。答えが決まっているのに、NOと言った時に自分が一人になるのが怖い。


 こんな時仕事をしている二人が羨ましいと思う。素直に断る理由があって、相手にも納得してもらえる。


 “仕事”って言葉は何処までも許容範囲がある気がする。

『俺仕事だから。』

『ごめん!急に仕事が入って⋯』

 幾度となく私との約束は、仕事を理由に破られた。何が立派なのか?専業主婦の息抜きに付き合ってくれる人は居ないのか?


「そう⋯ねぇ⋯。」


 言葉に詰まり霧に包まれたテーブルに、店員さんがやって来てコップに水を足してくれる。


「お水失礼しますね。」

「ねぇ、お姉さんはフラダンス興味ある?」


 まさか彼女に聞くとは思わなかった。戸惑う彼女に助け舟を出すことができない。矛先が変わった事で話が流れてしまわないかと、卑しい心が口を噤む。


「フラダンス⋯ですか?踊れたら楽しいかもしれませんね。」

「そうでしょう?」

「でも、フラダンス通われるようになったら、うちのお店に来てくださらないんですか?」

「それもそうね。」

「お喋りも楽しいですよねぇ。」

「「ねぇ~!」」


 にこやかに頭を下げキッチンへ戻っていく彼女が、天使に見えた。

 仕事をしている二人を巻き込んで“お喋りが楽しい”とその可愛らしい言葉ひとつで、テーブルの上からチラシを吹き飛ばしてくれた。


 すっかり晴れ渡ったテーブルの上で切り分けられたふわふわなホットケーキが、仕事の愚痴も旦那の愚痴も吸い取って、あっという間に消えてゆく。


「ご馳走様でした。」

「あぁ~美味しかったぁ!また、2週間後に此処で。」

「「「はーい!」」」

「またね〜!私、お手洗い行ってから帰るわ。」

「じゃ、お先〜!」


 気持ち良く手を振り返す。今日の私のMVPは彼女だ。ゴソゴソと鞄を漁り、レジへと向かう。


「ありがとうございます。750円です。」

「ご馳走様でした。」


 4人で割り勘のホットケーキと各々のドリンク代で計算してくれる。


「丁度お預かり致します。こちらレシートです。」


 チンッ!と懐かしいレジの音が響くと、両手で渡してくれるレシート。むず痒いほど丁寧な所作。


「いつもありがとう。」


 レシートを受け取った変わりに、個包装の飴ちゃんを乗せる。

 驚いて慌てる彼女にそっと手を振った。


「また来るね!」


「あ、ありがとうございます。またのご来店お待ちしております。」


 ――カランカラン−−⋯


 外は眩しいほどの夕焼けに染まっている。

 家に帰れば、面倒な旦那のご飯を作らなくてはいけない。考えただけで溜息が出る。


 だからどうしてもこの時間が大切なのは、自分が自分でいられるからなのだろう。


「ヨシ!頑張りますか!」


 また誰かに入れてもらった温かい珈琲を飲むために、私は今日も主婦に勤しむ。

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