男の仕事
朝の10時。濃い飴色の少し重いドア引く。
――カランカラン−−⋯
軽いベルの音が鳴れば、外へと吸い出される空気と共に香ばしい香りが鼻をくすぐる。店内の温かみのあるオレンジのライトが、空の青さよりも好きだ。
ほどなく明るい女性の声。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」
店内に先客は居ない。ラッキーだ。だからこそ、この時間にしていると言っても過言では無い。
窓際のお気に入りの席に座る。大きな窓から見えるのは、行き交う人々と手入れされた植栽。
静かな店内に流れるのはクラシックピアノの音楽。誰の何という曲かも知らないが、心地良いリズムと静か過ぎない音量でついつい長居をしてしまう。
「お決まりでしたらお伺い致します。」
そっと置かれたお冷やは、透明なコップに大きめの氷が2つ。此処のはレモン水なのがポイント高い。彼女は優しく微笑み、手書きのお会計票を持ち斜め後ろで待っている。
俺はいつも決まっている。それを彼女も知っている。
だが、“いつもの”と言うほど常連ではない。俺も言いたくはない。ちょっと生意気だと思われるのも嫌だし。
“この人自分で常連だと思ってるの?”と絶対に言わないだろう彼女は、俺の口からメニュー名を聞こうとしてくれる。それもちょっと嬉しい。
「本日のコーヒー、と、チーズケーキを。」
「かしこまりました。お待ち下さい。」
彼女は店の奥へ消えると、再びオープンキッチンに姿を現す。通い始めて1年、今まで店員は彼女ひとりしか見たことがない。だが、店長では無いらしい⋯。
つまり、、、大変そうだ。
ガリガリガリッ⋯と豆を挽く音と共に空間に広がる香りは新鮮で濃ゆい。ハンドドリップで淹れる姿を見てみたいが、視線が気になるだろうとぐっと我慢する。
立てられたメニューを無目的に見ていると、背中に食器の音と珈琲の香りが漂ってくる。
「お待たせいたしました。チーズケーキと、本日のコーヒーはグァテマラ アンティグアです。ごゆっくりどうぞ。」
「ありがとうございます。」
三角の綺麗なベイクドチーズケーキは、滑らかな生クリームとブルーベリーのソースで彩られている。
珈琲の名前が毎回聞き取れず申し訳ないと思いつつ、ヨーロピアンなカップに注がれた濃褐色の珈琲を鼻先に近付ける。空間に漂っていた香りとは違う、湯気の中に爽やかな香りが混じり一口含めば舌に感じる酸味と柔らかな甘み。苦味がビターチョコの様に後を引く。
温かい珈琲は、自分だけが時間の流れが遅くなる魔法を掛けてくれる。
皿に目を遣りフォークを手に取る。グサリと三角の先を刺して大きめの一欠片を頬張る。
酸味は強すぎずねっとりした食感のチーズケーキは、ボトムのビスケットがほろりと解ける。
「⋯美味しい。」
思わず零れた言葉を掻き消すように、スマホの着信音が大音量で鳴った。
「すみません!!」
ぎゅうっとスマホを握って急いで外へ行く。他に客は居ないのだから気にする事など無いのだろうけど、こんな静かな店内ではデフォルトの着信音が爆音に感じてしまい店外で電話に出る。
「⋯ッはい。もしもし。⋯ああ、坂崎さん。はい⋯⋯はい⋯⋯分かりました。後で資料送ります。⋯失礼します。」
仕事の電話だった。今から少し資料を作って送らなくてはいけなくなった。リモートワークが通常になり、どこでも出来る仕事が良いのか悪いのか段々と分からなくなってきた。
――カランカラン−−⋯
ふぅ。っと溜息をついて席に戻る。
食べかけのケーキに誘惑され、グサリとフォークを再び刺し、今度は生クリームとブルーベリーソースを付けて一口。甘いクリームでチーズケーキが包まれ、ブルーベリーの果実は口の中でぷちっと弾け甘酸っぱさが広がる。
嫌なことを忘れられる魔法が掛かったら良いなと思う。
パクパクと食べ進めて、皿に残ったクリームもソースもチーズケーキで綺麗に拭って頬張った。
珈琲を飲んで口の中をさっぱりさせる。
「⋯すみません!」
店員を呼んで皿を片付けて貰い、序でにパソコンの使用許可を取る。
「勿論大丈夫ですよ。お電話も他のお客様がいらっしゃいませんので、お気になさらずどうぞ。」
気を遣わせてしまったようだ。
「ありがとうございます。」
にこりと笑う彼女は、皿を下げて再びキッチンに消えた。
さて、仕事をしなくては。
開いたパソコンに集中し、言われた通り資料を作る。送信すれば、電話を掛け伺いを立てると再び仕事を振られる。何度か繰り返しているうち、いつの間にか他の客が入って来ていた。
「今晩何作るの?」
「今日は旦那が居ないから出前取るのよ。」
「あら、いいわね〜!ウチなんかバレたら面倒なのに。」
「同じよ!けど、明日ゴミ出しだから!食べれるのよ。仕事行く時、さっさと出しちゃえば分かんないから。」
⋯騒がしくなりそうだ。一段落ついた所で時計を見ると既に夕方3時。5時間も滞在してしまった。此処はランチをやっていないから昼食後のカフェタイムから混み始める。そろそろ退店するか。
飲み残していた珈琲を啜ると、冷めて酸味が強くなっていた。温かいうちに飲めなかった罪悪感ともう一杯飲みたい気持ちが交差して、後ろ髪を引かれる思いで会計をする。
「ありがとうございました。またのご来店お待ちしております。」
彼女のにこやかな笑顔で、次の来店までのちょっと遠い未来がちょっと近い未来へと姿を変える。
「ご馳走様でした。」
――カランカラン−−⋯
暖かな日差しの中を軽い足取りで歩いてゆく。




