第四話 できない日
朝は、思ったより静かに訪れた。
鳥の声で目を覚まし、しばらくの間、ミツキは自分がどこにいるのか分からなかった。天井がない。壁もない。視界いっぱいに空が広がっている。
「ああ……」
ひだまりの丘だ。
体を起こすと、毛布は朝露を少し含んでいたが、不快ではなかった。冷えもそれほど感じない。むしろ、よく眠れたという感覚のほうが強い。
――今日は、続きを。
そう思って立ち上がった瞬間、ふらりと足元が揺れた。
「……」
大丈夫、と自分に言い聞かせるように深呼吸する。昨日より体が重い。筋肉痛なのだろう。慣れない作業をした自覚は、今になってはっきり出てきた。
木組みの前に立ち、手を伸ばす。
――何を、どうするんだっけ。
屋根。
壁。
順番。
頭の中で整理しようとするほど、考えが絡まっていく。
前の世界では、手順は常に決まっていた。
マニュアルがあり、締切があり、やるべきことは「与えられる」ものだった。
でもここでは、誰も指示を出さない。
間違えても、誰も修正してくれない。
「……できない」
ぽつりと、声が落ちた。
何もしていないのに、もう疲れている。
動き出せない自分に、苛立ちが湧く。
――せっかく時間があるのに。
――昨日はあんなに進んだのに。
気づけば、地面に腰を下ろしていた。
丘を吹き抜ける風が、草を揺らす。
村からは、遠くで誰かが笑う声が聞こえた。
それが、少しだけ胸に刺さった。
「……私は、何をしてるんだろ」
転生して、村に来て、家を建てると決めた。
それなのに、今日は何一つ進んでいない。
前の人生でも、こんな日はあった。
やるべきことがあるのに、手が動かない日。
そのたびに、無理やり動いていた。
動かない自分を、叱って。
でも今日は――
誰も叱らない。
その事実が、逆に不安だった。
「……休んでいい、のかな」
問いかけても、返事はない。
しばらくして、丘の下から足音が聞こえた。
「ミツキさーん」
リラの声だった。
振り向くと、畑用の籠を抱えた彼女が手を振っている。
「今日は進んでる?」
悪気のない一言に、ミツキは一瞬、言葉に詰まった。
「……いえ」
「そっか」
それだけだった。
リラは丘に上がり、木組みを一瞥してから、ミツキの隣に腰を下ろす。
「できない日?」
「……はい」
「あるある」
即答だった。
「でも……何もしてないんです」
「してるじゃない」
「え?」
「起きて、ここにいる」
リラは空を見上げる。
「この村ね、『何も起きない』って言われてるでしょ」
ミツキは黙って頷いた。
「それってね、何もしなくていい日があっても、誰も困らないって意味なの」
籠からリンゴを一つ取り出し、差し出される。
「今日は休む日。そういう日も、暮らしの一部よ」
受け取ったリンゴは、ひんやりしていた。
「……前の場所では」
言葉が、自然とこぼれる。
「休むのは、理由がいることでした」
「ここでは、いらない」
リラははっきり言った。
「理由がなくても、止まっていい」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
ミツキはリンゴをかじった。
甘くて、少し酸っぱい。
「じゃあ……今日は」
「何もしない?」
「……はい」
「いいわね」
それ以上、会話は続かなかった。
ただ並んで、丘を眺める。
木組みは、昨日と同じまま。
でも、不思議と焦りはなかった。
――進まない日も、暮らし。
その考えを、ミツキは初めて受け入れた。
夕方、リラは畑に戻っていった。
ミツキは最後にもう一度、木組みに触れる。
「……明日、やろう」
それは逃げではなく、約束だった。
何も起きない一日が、
静かに、確かに終わっていった。




