第二十九話 店の名前
夕暮れ。家の中には針の音も、笑い声もない。
ミツキは少女の服を片付けながら、カイと向かい合って座った。
「そろそろ、名前を決めるか」
カイがぽつりと言う。
「名前……ですか」
「うん。店の、な」
外ではギンが川の水音を響かせている。
リラは畑仕事から戻り、布をたたんでいた。
ミツキは、ふと自分の過去のことを思い出す。
針を握った感覚。
布の匂い。
繕いながら、心が落ち着いたあの日々。
そして、あの少女の顔。
不安そうで、それでもどこか懐かしい瞳。
「……カイさん」
ミツキは、少し迷ってから口を開いた。
「娘さんの名前、聞いてもいいですか」
カイは一瞬、目を伏せた。
それから、小さく息を吐く。
「……〇〇だ」
その名前を聞いた瞬間、
ミツキの胸の奥で、何かが静かに重なった。
無意識に、隣を見る。
少女は首をかしげながらも、
こちらをまっすぐ見ていた。
「……同じですね」
ミツキの言葉に、
カイはゆっくりと少女を見る。
しばらくの沈黙のあと、
カイは、ほんの少しだけ笑った。
「……そうか」
それ以上、何も言わない。
ミツキは、ぼんやりと理解する。
前世の記憶と、今の感覚が、静かにつながっていく。
布。
安心。
名前。
そして、人を思う気持ち。
「この店の名前……これで、どうでしょう」
ミツキは、少女に向かって言った。
少女は意味が分からないまま、
それでも目を輝かせて聞いている。
「――ハートピアス」
自然に口をついて出た。
ハートの形の布タグを思い浮かべながら、ミツキは続ける。
ここに来る人も、布に触れると安心できる」
私が、ここで縫うものは全部、そういう意味で」
カイは静かに頷いた。
リラもギンも、何も言わず、それを受け入れる。
夜、店の入り口に看板を掛ける。
文字はシンプル。
でも、意味は大きい。
ハートピアス
何も起きない村で、
名前と共に、新しい日々が始まる。
ミツキは、少女の肩にそっと手を置く。
「ここで縫うのは、あなたも、私も、みんなのため」
少女は頷く。
そして、少しだけ笑った。
風が吹き、家の中に布の香りが広がる。
ハートピアスは、
村の中で静かに、でも確かに息をしていた。




