第二十三話 呼び名
「おはよう、仕立て屋さん」
そう声をかけられて、ミツキは手を止めた。
「……私ですか」
「他に誰がいるの」
リラは当然のように言う。
最近、皆そう呼ぶ。
仕立て屋。
店主。
あの人。
名前で呼ばれることは、少なくなった。
悪い気はしない。
でも、少し落ち着かない。
昼前、カイが来る。
何も言わず、戸口に立つ。
中の様子を一通り確認してから、短く言う。
「混んでるな」
「はい」
「無理はするな」
それだけ言って、帰る。
それが、毎日になった。
夕方。
作業を終えるころ、またカイが来る。
「食うか」
それも、毎日だ。
最初は遠慮した。
でも、断る理由がなくなった。
二人で食べる夕飯は、静かだった。
「今日はどうだった」
「直しが多かったです」
「そうか」
会話は少ない。
でも、落ち着く。
ある夜、カイがふと聞いた。
「呼ばれ方、気になるか」
ミツキは少し考える。
「……慣れません」
「名前か」
「はい」
カイは頷いた。
「店には、名前が要る」
「……そうですね」
ミツキは湯気の向こうを見る。
名前。
思い出そうとすると、何も浮かばない。
転生前の記憶は、霧の向こうだ。
仕事をして、
帰って、
また同じ日を繰り返す。
でも――。
「……布の匂いは、覚えています」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
「子どもの頃じゃなくて」
「大人になってからです」
カイの手が止まる。
「ほう」
「理由は分かりません」
「でも、落ち着いた気がして」
カイは、しばらく黙っていた。
「……あいつも、そう言ってた」
ミツキは顔を上げる。
「娘がな」
「布に触ると、安心すると」
胸が、少しだけ強く打った。
「店をやるって、張り切ってた」
それ以上、カイは話さない。
でも、言葉が残る。
布。
安心。
仕事。
ミツキの中で、何かが静かに重なる。
夜、布を畳みながら思う。
呼び名が変わっても、
やることは変わらない。
縫って、直して、渡す。
でも。
ここに名前があれば――。
ミツキは、まだ知らない言葉を探すように、
針を指で転がした。




