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第九話:灰色の研究室と、三人の朝食

 アイゼンガルドの西区、人跡未踏の幽霊屋敷と噂されていたその場所は、今や奇妙な「活気」に包まれていた。


 朝、結弦が目覚めると、視界に入ったのは見慣れた天井……ではなく、重力に逆らってゆっくりと回転する魔導書の山だった。 「……ああ、そうだ。ここはもう、前の世界のワンルームじゃないんだったな」


 身体を起こすと、シーツが微かに青白く光っている。存在の消失を抑えるため、ゼノビアが屋敷の魔法陣を調整し、寝ている間も結弦の輪郭を繋ぎ止める「保存処理」を施しているせいだ。


「おはよう、坊や。まだ自分の名前、覚えてる?」


 天井近くに浮いていたゼノビアが、上下逆さまの状態で結弦を覗き込んできた。 「……おはよう、ゼノビア。今のところ、九九も周期表も全部言える。自己の連続性は保たれてるよ」


「それは重畳。でも、さっさと一階に降りなさい。あんたの隣にいる『元・女神様』が、キッチンで今にも泣き出しそうな顔をしてるわよ。なんでも、この世界の火力の調整が分からないんだって」


 結弦は苦笑しながらベッドを抜け出し、一階のダイニングへと向かった。  そこには、焦げたパンと格闘するリリアの姿があった。彼女はかつて世界を統治していた威厳などどこへやら、エプロン姿で涙目になりながら、魔法のコンロを見つめている。


「結弦、ごめんなさい……。火の精霊に語りかけても、私の力が弱まりすぎていて、強火か鎮火のどちらかにしかならなくて……」


「いいよ、リリア。俺が代わる。……こういうのは魔法じゃなくて、吸気口の角度で決まるんだ」


 結弦はリリアの手からトングを受け取り、コンロの横にある空気調節のレバーをミリ単位で操作した。進学校で学んだ熱力学や、キャンプで培った火加減の感覚。それらは幸いなことに、この世界でも「物理現象」として通用した。


 やがて、香ばしい香りが部屋に漂い始める。  三人の食卓。実体を持たないゼノビアは、椅子に座って眺めているだけだが、その口ぶりは相変わらず辛辣で賑やかだ。


「しかし、面白いわね。女神と異邦人が、滅びかけの世界の片隅で仲良くトーストを食べてるなんて。私の数式にはなかった光景よ」


「……ゼノビアさん。結弦がこうして穏やかに過ごせる時間は、とても貴重なんです。からかわないでください」


 リリアが真剣な表情でたしなめる。  ゼノビアは肩をすくめ、透き通った指先で空中に複雑な魔法陣を描いた。


「分かってるわよ。だからこそ、遊びはここまで。……結弦、あんたの身体の状態をスキャンしたわ。昨日の『一撃』の影響で、あんたの肉体の密度は、元の世界の60%程度まで落ちてる。……このままじゃ、次の大規模な戦闘で、あんたは物理的な質量を失って霧になるわ」


 食卓の空気が、一瞬で凍りついた。  結弦は、パンを咀嚼する手を止め、自分の掌を見つめる。   「……あと何回、撃てる?」


「今のままの『生身なまみ』なら、あと一回が限界ね。……でも、私の提案した装備があれば、その摩耗を五分の一以下に抑えられる。そのための素材――『空間定着石』。それが、この屋敷の地下最深部、私の旧実験場に眠ってるわ」


「地下の探索、だな」


 結弦は立ち上がり、飲みかけのコーヒーを飲み干した。   「ああ。でも注意しなさい。私の地下室は、私が肉体を捨てた時の『思念の残滓』が暴走して、歪んだ試練の空間に変貌してる。……異世界の法則に馴染み始めた今のあんたなら入れるけれど、油断すれば存在ごと飲み込まれるわよ」


 リリアが不安そうに結弦の服の裾を掴む。  結弦は、彼女の手を優しく握り、安心させるように微笑んだ。


「大丈夫だ、リリア。俺は、二十年間積み上げてきたものを、ただ浪費するつもりはない。……この世界のルールを、俺のやり方でハックしてやるさ」


 爽やかな青年の顔。だが、その瞳に宿る群青の光は、もはや元の世界の住人のものではなかった。  三人は、食事を終えると、屋敷の奥にある固く閉ざされた地下への扉の前に立った。


「……じゃあ、行こうか。俺たちの、本当の意味での『拠点作り』を完成させるために」


 結弦の言葉に、リリアは決意を込めて頷き、ゼノビアは愉快そうに指を鳴らした。  重い石の扉が、数世紀の沈黙を破って、ゆっくりと開き始めた。

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