第八話:遺された数式と、灰色の賢者
城塞都市アイゼンガルドの西区に佇む古びた屋敷。その内部は、外観の荒廃ぶりからは想像もつかないほどに、「歪んだ秩序」が支配する空間だった。
結弦は一階の探索を終え、リリアと共に二階へと続く螺旋階段に足をかけた。しかし、数段登ったところで彼は異変に気づく。足元の段差が、登れば登るほど「増えている」のだ。後ろを振り返れば、降りるための階段はすでに消え、そこには底の見えない深い闇が広がっていた。
「リリア。これは……空間のループか?」
「ええ……。おそらく、前任の家主が施した防衛機構ね。正しい『認識』を持っていない者は、一生この階段を登り続けることになるわ」
結弦は、爽やかな顔立ちを少しだけ歪め、手近な壁に触れた。 進学校で学んだ幾何学の知識が、この不条理な空間を一つの多面体として捉えようとする。彼は階段を登るのをやめ、あえて手すりを乗り越えて闇の中へと身を投げた。
「結弦!?」
リリアの悲鳴が響く。だが、結弦の予測は当たっていた。闇に落ちる直前、彼は自分の意識を「落下」ではなく「最上階への到達」へと固定した。 視界が反転し、次の瞬間、彼は埃の舞う広大な最上階の書庫へと立っていた。
「……なるほど。この屋敷自体が、住人の『意志』を座標にする演算回路になっているわけか」
「正解。三次元的な上下の概念に縛られているうちは、私のプライベートルームには辿り着けないわよ、異邦人の坊や」
書庫の奥、膨大な魔導書に囲まれた机の上に、一人の女性が腰掛けていた。 年齢は二十代半ば。身体の輪郭は透き通り、青白い燐光を放っている。整った顔立ちには知的な、それでいて他人を食ったような不遜な笑みが浮かんでいた。
「私の名は、ゼノビア。この屋敷の元主であり、この世界の理を解き明かそうとして……まあ、見ての通り肉体を捨てちゃった変わり者よ」
「……リリア。彼女が、例の『巧妙な魔導士』か?」
結弦の問いに、リリアは驚愕したまま頷いた。 「ゼノビア……。数世紀前、世界の崩壊をいち早く察知し、時の政府を論破して追放されたという伝説の賢者……。生きて……いえ、存在していたのね」
ゼノビアは、思念体特有の軽い足取りで宙を歩き、結弦のすぐ目の前まで滑り寄ってきた。 彼女は結弦の顔を覗き込み、その右手を、触れようとして透過させた。
「ほう……。面白いわね。あなたの内側、スカスカじゃない。元の世界の『定数』をあんなに雑に燃やして、よく生きていられるわ。普通の人間なら、三回あの一撃を放った時点で、精神が自己崩壊して情報の塵になってるわよ」
結弦は、自分の右手を見つめた。 ゼノビアの言葉は、彼が薄々感じていた恐怖を、正確な「診断」として突きつけていた。
「この喪失を……止める方法はあるのか?」
「止める? 無理ね。あなたはもう、この灰域世界というシステムの欠陥を埋めるための『パッチ』になっちゃってるんだから。エネルギーの供給源があなたの『過去』である以上、使えば減るのは道理よ」
ゼノビアは机の上の古い羊皮紙を指先でなぞった。すると、そこには見たこともない数式や魔法陣が浮かび上がる。
「でも、メンテナンス(維持管理)くらいならしてあげる。……リリア、あんたは女神の端くれなんだから、彼をリミッターとして抑えるだけじゃなくて、もっと効率的な『導線』になりなさい」
ゼノビアは結弦の胸元に、青白く光る思念の指先を当てた。
「いい? 坊や。あなたの一撃が重すぎるのは、あなたの『存在』がこの世界と直接摩擦を起こしているからよ。……今のあなたに必要なのは、存在を削るための『変換器』であり、同時に『鎧』となる装備よ」
彼女は書庫の奥から、一つの黒い指輪と、未完成の鞘のような物体を引き寄せた。
「これをベースに装備を組み上げる。……一撃のエネルギーを分散させ、この世界に『馴染ませる』ための触媒。これを身につければ、消費を最小限に抑えつつ、一撃の威力を『収束』させることができるはずよ。ただし、素材はこの屋敷の地下にある『歪みの核』から取ってきてもらうけど」
結弦は、ゼノビアの不遜な瞳を見つめ返した。 「……なぜ俺を助ける? 君にとっても、俺の存在が消えようが知ったことじゃないはずだ」
「理由? 単純よ。私はこの世界の結末を知りたくて、自分の肉体すら犠牲にしてここに残った。けれど、私一人じゃ世界を書き換える『力』が足りなかったの。……でも、あなたは持っている。私の頭脳と、あなたの理不尽な一撃。この二つが合わされば、数年後の崩壊なんていうクソったれな計算結果を、ゴミ箱に捨てられるかもしれないじゃない?」
ゼノビアは、若々しい笑顔の中に、この世界に対する激しい怒りと執着を覗かせた。
「佐藤結弦。あなたの存在が完全にこの世界に溶け去る前に、私と一緒に世界を『ハック』してみない?」
結弦は、フッと笑った。 自称、敗北した女神。そして自称、肉体を捨てた賢者。 自分の周囲には、ろくな連中がいない。だが、理詰めで世界を攻略しようとするゼノビアの言葉は、今の結弦にとって何よりも心強かった。
「……いいよ。屋敷の管理料代わりに、君の知恵を借りるとしよう」
「決まりね。じゃあ、まずはあなたの身体の『成分分析』から始めるわ。脱いで。……冗談よ、そんな顔しないで。幽霊に性別なんてないんだから」
リリアが焦ったように割って入る中、結弦は自分の内側に宿る群青の光を見つめた。 失われゆく存在。 けれど、その喪失を「効率化」するための理論と装備。 灰域世界の理を暴くための、三人の奇妙な共同生活が始まった。




