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第七話:不動の拠点を勝ち取れ

 北門の監視塔は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。  アイゼンガルドの堅牢な石壁さえも、異界から滲み出した「空間の毒」には抗えなかった。空中に生じた鏡の破片のような亀裂から、漆黒の粘液を滴らせる異形の魔獣――『空隙の捕食者ヴォイド・イーター』が次々と這い出し、迎撃に当たっていた騎士たちをその巨大な鎌で薙ぎ払っていた。


「退くな! 魔導弓隊、斉射用意! 『理の灯火』の出力を最大に上げろ!」


 ガレス隊長の怒号が響くが、事態は絶望的だった。魔獣たちは物理的な質量を持たないかのように攻撃を透過させ、一方で彼らが振るう爪は、騎士たちの魔法障壁を紙細工のように切り裂いていく。数年後の崩壊を待たずして、この都市が地図から消えるのではないか。そんな予感が現場を支配していた。


 そこへ、騒乱を縫うようにして一人の青年と、銀髪の女性が姿を現した。


「リリア、状況を。あの魔獣の『構造』はどうなっている?」


 結弦は、パニックに陥る避難民の流れに逆らいながら、冷静に問いかけた。  彼の目には、魔獣の動きが単なる乱暴な攻撃ではなく、特定の「周期」を持った振動のように見えていた。進学校で幾度となく解いてきた、複雑な波動関数のグラフを重ね合わせるように、結弦の脳は戦場を演算し始める。


「あれは……この世界の崩壊した法則そのものが受肉した姿よ、結弦。あの子たちの身体は、この世界の魔力では干渉できない『位相』にあるわ。……正攻法では、誰にも傷一つ負わせられない」


「なるほど、位相のズレか。俺のいた世界ではありえない話だが……なら、そのズレを無理やり『固定』してやればいいんだな」


 結弦は、酒場で手にした鉄製の重い火かき棒を握り直した。  先ほど食べた煮込みの魔力が、まだ胃の奥で熱く燻っている。その熱が血管を通じて全身に回り、筋肉の収縮速度を、元の世界の自分ではありえないレベルまで引き上げていた。


「ガレス隊長! 全員、魔獣の左側面へ回れ! 攻撃を一点に集中させる必要はない、ただ『音』を立てるだけでいい!」


「貴様、あの時の異邦人か! 正気か、奴らには魔法も剣も通じぬのだぞ!」


「いいからやれ! 三十秒だけでいい、注意を引きつけろ!」


 結弦の、迷いのない、冷徹なまでの咆哮。  その圧倒的な「意志」の力に、歴戦の騎士であるガレスが思わず気圧された。 「……チッ、全隊、異邦人の指示に従え! 死に急ぐ必要はない、牽制に徹しろ!」


 騎士団が動き出す。魔導矢の光が魔獣の周囲で爆ぜ、怪物たちの三つの目が一斉に騎士たちへと向けられた。  その瞬間、結弦は地を蹴った。  一歩、二歩。アスファルトとは違う石畳の反発係数を瞬時に脳内で補正し、最短距離で魔獣の懐へと潜り込む。


「結弦、ダメよ! まだそれは――!」


 リリアの制止は、結弦の決意の速さに追いつかなかった。  結弦は、自分の中に残っている「佐藤結弦としての二十年間」のストックを、意識的に、一点へと凝縮した。    (今、この瞬間の俺の右腕に、元の世界の『絶対的な定数』を乗せる)


 それは、この灰域世界にとっては、何よりも重く、何よりも鋭い、猛毒の楔となる。    パキィィィィィィィィィィン!!


 空間が、鏡が割れるような音を立てて破砕された。  結弦が振り下ろした鉄の棒は、ただの打撃ではない。それは「存在の質量」を伴った断頭台だった。  位相がズレていたはずの魔獣の肉体が、結弦の触れた一点から急速に現実化し、そして崩壊していく。  一撃。  たった一撃で、城門を蹂躙していた最大個体の魔獣が、内側から弾け飛ぶようにして消滅した。


 周囲が、水を打ったように静まり返った。  崩れ落ちる魔獣の残骸から、黒い塵が舞い上がる。その中心で、結弦は膝をつき、激しく喘いでいた。


「っ……、が、は……っ!!」


 激痛。  肉体の痛みではない。魂を直接ヤスリで削り取られるような、凄まじい虚無。  自分の足が、地面に触れている感覚が薄い。  ふと視界に入った自分の手の甲。そこにあったはずの、小さな頃に負った古傷の痕が、綺麗さっぱり消えていた。  記憶はある。けれど、その傷があったという「事実」が、この一撃と引き換えに、この世界から、そして元の世界の誰かの記憶から、完全に抹消されたのだ。


「結弦! 結弦、しっかりして!」


 リリアが駆け寄り、結弦の身体を抱きとめる。  彼女の冷たい涙が結弦の頬に落ちる。その温度だけが、今、彼が「生きている」ことを証明していた。


「……はは、リリア。……今の、一撃……いくらだった?」


「バカなことを言わないで! 今ので、あなたは……また少し、この世界に染まってしまったわ。あなたの瞳の色が、ほんの少し、この世界の空と同じ色に……」


 リリアの言う通りだった。結弦の漆黒の瞳の奥に、吸い込まれるような群青色の燐光が宿り始めていた。それは彼が「佐藤結弦」を辞め、この世界の住人へと作り替えられつつある、取り返しのつかない変化の兆しだった。


「……見事だ」


 沈黙を破ったのは、ガレス隊長だった。  彼は血塗られた剣を収め、震える足取りで結弦の前に膝をついた。   「貴殿が何者かは問わぬ。だが、このアイゼンガルドを救ったのは、間違いなく貴殿のその異能だ。……騎士団を代表して、感謝を。そして、謝罪をさせてくれ。貴殿のような英雄を、不審者扱いした無礼を」


 結弦は、リリアに支えられながら、なんとか立ち上がった。  息を整え、分析官としての顔を取り戻す。


「感謝より……実利を。俺と彼女には、雨風を凌ぐ場所がない。……この街で、誰にも邪魔されず、静かに過ごせる『拠点』を貸してくれないか」


 ガレスは、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに深く頷いた。


「承知した。……西区の外れに、かつての高名な魔導師が住んでいた古い屋敷がある。今は管理する者もおらず、周囲には近づく者もいない。あそこなら、貴殿らの力に見合うだけの静寂が得られるだろう。……いや、あそこを貴殿の『領地』として認めよう。この功績に比べれば、安すぎる代価だ」


 数時間後。  アイゼンガルドの騒乱が落ち着きを見せ始めた頃、結弦とリリアは、ガレスから譲り受けた屋敷の前に立っていた。  石造りの三階建て。蔦が絡まり、庭は荒れ果てているが、その佇まいにはかつての威厳が残っている。何より、この屋敷の地下には強力な「防護の魔法陣」が今も生きており、外の世界のノイズを完全に遮断していた。


 結弦は、ギィ、と重い扉を開けた。  埃の舞う室内。古びた書物や実験器具がそのまま残された、不思議な空間。


「……ここが、俺たちの拠点か」


 結弦は、備え付けられていた古びた革のソファに深く沈み込んだ。  一歩歩くたびに、床から伝わる振動が、先ほどまでよりもずっと「馴染んでいる」。   「結弦、大丈夫? 身体の……感覚は?」


 リリアがおずおずと尋ねる。彼女は、主を待つ従者のように、結弦のすぐ傍に立っていた。


「……最悪だ。身体が軽すぎて、自分の意志で動かしているのか、この世界の風に流されているのか、分からなくなる時がある」


 結弦は、自分の右手をじっと見つめた。  存在の喪失。異世界への定着。  この屋敷を手に入れた代償は、あまりにも大きかった。けれど、後悔はなかった。   「リリア、教えてくれ。この屋敷にあった書物……これらは読めるか?」


「ええ……。古代の魔導言語。私がかつて統治していた頃の言葉よ」


「なら、勉強だ。俺が完全に『こちら側』の住人になる前に、この世界の理をすべて理解し、攻略する。……一撃だけに頼る戦い方は、長くは持たないからな」


 結弦は、爽やかな笑みを浮かべた。  だがその瞳に宿る群青の光は、彼がもう二度と、元の世界のあの居酒屋で友人と笑い合うことはできないのだと、残酷に告げていた。


 城塞都市アイゼンガルドの一角。  失われゆく存在を燃料に、世界を救うための「計算」が、静かに始まった。

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