第六話:灰域の洗礼、そして変質
巨大な石造りの城門をくぐり、佐藤結弦が目にしたのは、かつてのヨーロッパの古都を彷彿とさせる、石畳の街並みだった。 城塞都市アイゼンガルド。 数年後の崩壊が約束されているというリリアの言葉とは裏腹に、そこには確かな「生活」の熱量があった。露店からは香辛料の効いた肉の焼ける匂いが漂い、背負い籠を運ぶ労働者や、腰に剣を佩いた冒険者たちが、行き交う活気に満ちている。
だが、その活気の中に、結弦は奇妙な「ノイズ」を感じていた。 街の至る所に配置された街灯のような魔導具は、絶え間なく淡い紫色の光を放っている。それが世界の歪みを中和しているのだとリリアは説明したが、結弦の目には、その光が空間そのものを無理やり縫い合わせている「傷跡」のように見えた。
「おい、異邦人。まずはここに立ち寄れ。入市の手続きだ」
案内役の騎士ガレスに促され、結弦とリリアは城門近くにある衛兵所に足を踏み入れた。 そこで行われたのは、魔力適性の検査だった。水晶玉のような鑑定具の前に立たされた結弦だったが、彼が手をかざしても、水晶は何の反応も見せない。
「……信じられん。魔力が『零』だと?」
鑑定役の魔導師が、眼鏡を押し上げて結弦を凝視した。 「この世界で、路傍の石ころですら微弱な魔力を帯びているというのに。貴様、本当に生きた人間か? まるで、世界から切り離された『穴』のようだ」
「……ただの、鍛え方が違う一般人ですよ」
結弦は爽やかな笑みで取り繕ったが、背筋には冷たい汗が流れていた。 魔力がない。それはこの世界において、物理法則の一部を欠損しているに等しい。だからこそ、先ほど放った「一撃」は、世界のルールを無視して対象を消去できたのだ。 対照的に、リリアが手をかざすと、水晶は眩いばかりの、しかしひどく乱れた光を放った。魔導師は驚きに目を見開いたが、リリアの鋭い視線に射抜かれ、それ以上の追求を飲み込んだ。
手続きを終え、一時的な通行証を手に入れた二人は、ガレスと別れて街の酒場へと向かった。 まずは空腹を満たし、この世界の情報を集める必要がある。
酒場『鋼の蹄亭』は、昼間から男たちの怒号と笑い声で溢れていた。 結弦は、運ばれてきた「灰域の煮込み」と称される料理を前にした。それは、紫色のカブのような根菜と、筋張った魔獣の肉を煮込んだ、地球の感覚からすればおどろおどろしい色合いのシチューだった。
「……食べるのが怖いな」
「毒ではないわ、結弦。ただ、この世界の万物は、歪んだ魔力の影響を受けている。今のあなたには、少し刺激が強すぎるかもしれないけれど……」
リリアの懸念を余所に、結弦はスプーンを取った。 進学校での過酷な受験期、彼は「食事は栄養補給の手段」と割り切り、味気ないゼリー飲料やサプリメントで済ませることも多かった。スポーツ万能な身体を維持するために、糖分とタンパク質の計算だけを信じてきた。
一口、そのシチューを口に運んだ。 その瞬間、結弦の脳を、電撃のような衝撃が突き抜けた。
「っ……!!」
喉を通ったのは、ただの味覚ではない。 舌の上の細胞一つ一つが、未知のエネルギーに触れて狂喜乱舞しているような感覚。濃厚な旨味と共に、ピリピリとした電気信号が食道から胃、そして血管を通じて全身へと染み渡っていく。 それは、地球の料理では決して味わえない「生命の躍動」そのものだった。
「美味しい……のか、これ? 分からない。けれど、細胞が求めているのが分かる」
結弦は無我夢中でシチューを掻き込んだ。 食べるたびに、身体の奥底に溜まっていた「空虚」が埋まっていくような感覚。だが、それと同時に、彼はある異変に気づいた。
右手の、指先だ。 箸やスプーンを使い慣れた、スポーツで幾度となく酷使してきたはずの自分の指。 その指の腹にある「指紋」が、ほんの少しだけ、薄くなっている。 代わりに、皮膚の表面に、この街の街灯が放っているのと同じ、かすかな紫色の燐光が透けて見えた。
「……リリア、これを見ろ」
結弦が震える手を差し出すと、リリアは悲痛な面持ちでその手を取った。 彼女の冷たい指先が、結弦の皮膚に触れる。
「……身体が、馴染もうとしているのね。この世界の歪んだ理を摂取することで、あなたの内側にある『元の世界の成分』が押し出されている。……佐藤結弦としての記憶や意志が消えるわけじゃない。けれど、あなたの『存在』そのものが、確実に灰域世界の住人へと作り替えられている証拠よ」
結弦は、自分の手を凝視した。 このシチューを美味いと感じ、この空気の重さを心地よいと思い始めた時、自分は「佐藤結弦」を捨てていくことになる。 二十年間、努力して積み上げてきた学力、培ってきた身体能力、家族や友人と過ごした時間の重み。それらすべてが、異世界のエネルギーと等価交換され、薄まっていく。
「あの一撃を使えば、この変質は加速する……そうなんだな?」
「ええ。一撃を放てば、数ヶ月分、あるいは数年分の『存在』が一気に燃焼する。……あなたは今、自分の人生を切り売りして、この世界で生きる権利を買っているのよ」
結弦は、スプーンを置いた。 酒場の喧騒が、遠のいて聞こえる。 数年後に滅びる世界を救うために、自分という人間を消し、異世界のパーツへと成り下がっていく。そのあまりの理不尽さに、笑いが込み上げてきた。
「はは……。大学のサークル仲間が聞いたら、腰を抜かすだろうな。『お前、存在が透けてるぞ』って」
「結弦……」
「いいさ。もともと、効率の悪い人生だと思っていたんだ。二十年かけて積み上げたものが、一瞬で消える一撃に変わるなら……その一撃で、この絶望的な数式をひっくり返してやるよ」
結弦は、残りのシチューを一気に飲み干した。 喉を焼く魔力の熱さが、今は何よりも、自分が「生きている」という実感を与えてくれた。
その時、酒場の扉が乱暴に開け放たれた。 駆け込んできたのは、顔を真っ青にした若い衛兵だった。
「だ、大変だ! 北門の監視塔に『歪みの塊』が発生した! 空間が裂けて、中から見たこともない魔獣が……!」
酒場が静まり返り、次の瞬間、パニックが爆発した。 結弦は立ち上がり、腰に差した杖――今はもう、ただの木切れではなく、彼の一部になりつつある「依り代」を握りしめた。
「リリア。案内してくれ。……俺の『存在』がどれほど使い物になるか、試してみる必要がある」
変質し始めた身体に、未知の力が漲るのを感じながら。 佐藤結弦は、自分を蝕む世界を守るために、二度目の戦場へと向かう




