第五話:境界線の騎士と、鉄の掟
灰域世界における「文明」との最初の接触は、鉄と魔力の匂いに満ちていた。 草原の緩やかな起伏を数時間歩き続け、結弦の視界にようやく「文明」の影が差した。それは、巨大な石造りの城壁に囲まれた、中世ヨーロッパの古都を彷彿とさせる重厚な街並みだった。
「あそこが……この世界の都市か」
「ええ。城塞都市『アイゼンガルド』。この北方に広がる『歪みの境界』を監視し、人々の生活圏を守るための、この地方最大の拠点よ」
リリアの声は静かだった。 結弦の目から見れば、都市は活気に満ちているように見えた。高くそびえる尖塔からは、魔法の触媒と思われる淡い燐光が立ち上り、城門の前には商人の馬車が行き交っている。 だが、リリアの視線はその活気のさらに先、空の彼方に浮かぶ巨大な岩塊――「浮遊廃土」を見つめていた。
「かつての世界なら、あんなものは存在しなかった。……世界の侵食は、数年後にはこの都市をも飲み込むでしょう。人々はまだ、自分たちの足元がどれほど脆い砂の上に成り立っているのか、本当の意味では理解していないけれど」
数年後の滅び。 それは、今日明日で世界が終わるというパニックではなく、じわじわと真綿で首を絞められるような、逃れようのない運命としてのカウントダウンだった。
街道へと降りた二人の前に、蹄の音と共に、銀色に輝く甲冑を纏った一団が姿を現した。 十騎ほどの騎馬隊。彼らが手にする長槍や腰の剣には、精緻な装飾と共に、呼吸するように明滅する魔力回路が刻まれている。
「止まれ! 貴公ら、この街道の先は警戒区域だ。どこの所属か。……特にその男、魔力の波動が一切感じられない。空間異常に晒された脱走兵か、さもなくば魔物の類か!」
先頭に立つのは、一際立派な羽飾りを兜につけた騎士――隊長のガレスだった。彼は馬から鮮やかに飛び降りると、抜刀と同時に切っ先を結弦の喉元へ突きつけた。
結弦は両手を軽く挙げ、冷静に相手を観察した。 進学校で培った分析癖が、無意識に騎士の所作をデータとして読み解いていく。 鎧の重量、踏み込みの深さ、そして剣先から漏れる微かな熱気。この世界の剣術は、魔法による肉体強化を前提としている。彼らの動きは、純粋な筋力を超えた「加速」を伴っていた。
「怪しい者じゃない。少し、道に迷ってここへ辿り着いただけだ」
「問答無用! 魔力を持たぬ者が、歪みの気配が漂うこの周辺を平然と歩けるはずがない。抵抗するなら力ずくで検分させてもらう!」
ガレスが地を蹴った。 一瞬、彼の脚部の甲冑が青白く発光する。魔法による「瞬発強化」。 常人の動体視力では捉えられないほどの高速移動。だが、結弦は動じなかった。
(速い。だが、魔法に頼りすぎている分、予備動作が分かりやすい)
結弦は、体育の授業で習った剣道の基本――「入り身」の要領で、一歩前へ踏み出した。 スポーツ万能を自負する彼の反射神経が、ガレスが剣を振り下ろす直前の、肩と肘の僅かな揺らぎを完璧に捉える。 結弦は腰に差していた、先ほどの戦闘で拾った頑丈な枝――もはや硬質な杖に近いそれを、騎士の剣の「腹」の部分へと叩きつけた。
――ガキィィン!!
「なっ……!?」
真っ向から受ければ、結弦の腕は粉砕されていただろう。しかし、彼は物理的な「ベクトルの転換」を利用した。騎士の突き出したエネルギーの方向を、最小限の力で外側へ逸らしたのだ。
勢い余ったガレスの身体が、結弦のすぐ横をすり抜けてよろめく。 結弦はその隙を見逃さず、騎士の死角へ回り込み、杖の先端をガレスの鎧の継ぎ目――剥き出しの首筋へと添えた。
「……動かないでくれ。殺し合いをするつもりはないと言ったはずだ」
周囲の騎士たちに、氷のような緊張が走る。 魔法という「下駄」を履いた剣術しか知らない彼らにとって、純粋な身体操作と理詰めの体術で隊長を制した結弦の動きは、不気味なほど異質に映った。
「貴様……魔力を使わず、我が『瞬光剣』を完全に受け流したというのか」
ガレスの声に、驚愕と、わずかな敬意が混じる。 結弦はゆっくりと杖を引き、再び一歩下がった。
「俺は魔法なんて知らない。ただ、あんたの動きは効率を欠いている。力が入りすぎて、次の動作が透けて見えていた。……俺は、この世界の住人じゃない。けれど、敵でもない」
背後でリリアが、複雑な表情でそれを見ていた。 彼女には分かっていた。結弦が今見せた驚異的な身のこなしこそ、彼が元いた世界で、自分を鍛え、高めてきた「二十年間の積み重ね」の結晶であることを。そして、彼がこの世界の戦いに身を投じ、「一撃」を放つたびに、その積み上げが「異世界の法則」へと書き換えられ、失われていくことを。
「……面白い。その腕前、そして隣の妙な女。ただの放浪者ではなさそうだな」
ガレスは剣を収め、兜を脱いだ。現れたのは、数々の歪みとの戦いを潜り抜けてきたであろう、精悍だがどこか疲弊した顔だった。
「アイゼンガルドは今、数年後の崩壊に備えて戦力をかき集めている。不審な点は拭えんが、それだけの腕があるなら、一度都市の査問官に合わせる価値はある。……ついてこい。ただし、妙な真似をすれば即座に切り捨てるぞ」
結弦は無言で頷き、リリアを促した。 城門の向こう側からは、西洋の古都の香りが風に乗ってやってくる。 そこにあるのは、いずれ訪れる滅びを予感しながらも、今日という日を懸命に生きる人々の営み。
魔法と剣、そして数年後の消滅が約束された「灰域世界」での、結弦の本当の闘いが幕を開けようとしていた。
「(……結弦、無理はしないで。あなたはまだ、この世界の空気に馴染みきっていないんだから)」
「(分かっている。……馴染む前に、この世界の攻略法を見つけるだけだ)」
結弦の瞳には冷徹なまでの闘志が宿っていた。




