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第三話:存在の対価

 死の爪が、結弦の喉元に届く。  三つ目の狼が放つ殺気は、逃れようのない絶対的な結末として彼の全身を縛り付けていた。


(……ああ、そうか。これが「終わり」か)


 思考が、異常な速度で加速する。  極限状態に置かれた脳が見せる、走馬灯。だがそれは、単なる過去の回想ではなかった。  結弦の意識の内側で、何かが音を立てて「燃焼」し始めたのだ。


 それは、佐藤結弦という人間が二十年かけて積み上げてきた、生命活動そのものの総量。  努力して鍛えた筋肉の記憶、学んできた知識、今日まで生きてきたという確かな現実。それら「佐藤結弦の現在地」を支えていた目に見えない重みが、今、未知の燃料となって、右手に握った枯れ枝へと流れ込んでいく。


「……あ」


 隣で絶望の表情を浮かべていた女神が、初めて声を漏らした。  彼女は結弦の手元を見て、震える唇を戦慄に歪ませている。


「……それを、使うのね。あなたの『存在』を削って……この世界の理を、強引に書き換えるつもりなのね」


 彼女の瞳には、かつて自分の世界を失った者だけが持つ深い悲哀があった。彼女は知っているのだ。その力を使えば使うほど、彼という人間を構成する「元の世界との繋がり」が、異世界の法へと塗り替えられていくことを。


(構わない)


 結弦は、心の中で呟いた。    理由も理屈もどうでもいい。  理不尽な恐怖に屈して死ぬくらいなら、そのすべてを対価にして、この目の前の現実に穴を開けてやる。


「――っ!!」


 結弦が、枯れ枝を真っ向から振り下ろした。  それは剣道の型ですらなかった。ただの、叩きつけるような一撃。  だが、その瞬間、世界の色彩が反転した。


 パキィィィィィィィィン!!


 空間が、まるでガラスのように砕け散る。  狼の強固な肉体も、その背後の大気さえも、結弦が放った「存在の閃光」に押し潰された。  物理法則に基づいた「破壊」ではない。  そこにあるはずの事象を、根本から消去する――圧倒的な「会心の一撃」。


 光が収まったとき。  目の前にいたはずの巨大な魔獣は、塵すら残さず消滅していた。  ただ、結弦の足元の地面が、巨大な断層となって抉り取られているだけだ。


「はっ……はあ、はあ……っ」


 全身を、猛烈な虚無感が襲った。  右手の枯れ枝は、役目を終えたようにサラサラと灰になって崩れ落ちる。    何かが、減った。  記憶が消えたわけではない。ただ、自分の内側にある「佐藤結弦という存在の輪郭」が、ほんの少しだけ薄くなったような、言いようのない喪失感。  その僅かな欠損と引き換えに、彼はこの世界の過酷な法則に、一歩だけ「定着」してしまったのだ。


「……ひどい」


 女神が、ふらふらと結弦に歩み寄る。  彼女は震える手で、結弦の肩に触れた。


「なんてことを……。あなたは今、自分の貴重なリソースを燃やし尽くした。今のまま使い続ければ、あなたはいつか完全に……」


「……そうか」


 結弦は、力なく笑った。  爽やかだったはずの顔は、どこか影を帯び、この世界の空気に少しだけ馴染んでしまっている。


「いいさ。積み上げてきたものが何であれ、今、生き残るために使えるなら……俺はそれを惜しまない」


 結弦は、自分の左手を見つめた。  まだ、手触りは確かにある。だが、この「一撃」を繰り返すたびに、自分という存在が異世界に書き換えられていく予感があった。


 女神は、彼の横顔を見つめ、涙を浮かべながら決意を秘めた声で言った。


「……私の名は、リリア。未来を捨てた、敗北の女神よ。……佐藤結弦。あなたのその命が尽きるまで、私は、あなたの隣で、その歩みを見届けましょう」


 世界を救うための、最初の一歩。  それは、自分という人間を代償に捧げる、静かな戦いの始まりだった。

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