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第二話:非現実という名の現実

 頬をなでる風に、湿った鉄のような匂いが混じっていた。


 佐藤結弦は、ゆっくりと目を開ける。網膜が捉えたのは、吸い込まれるような群青の空と、物理法則をあざ笑うかのように空中に静止する巨大な岩塊だった。  二日酔いの朦朧とした意識が、冷徹なまでの「理解」に塗り替えられていく。    ――ここは、俺の知る地球ではない。


 進学校で物理学を修め、論理的な思考を信条としてきた結弦にとって、その光景は本来、発狂に値するものだった。しかし、彼の冷めた頭脳は、パニックを抑え込み、強制的に「現状分析」を開始する。


 まず自分の肉体を確認した。指先、手首、足首。スポーツで培った繊細な感覚は、神経系に異常がないことを告げている。次に持ち物。飲み会帰りの軽装。スマホ、財布、学生証。現代社会においては最強の身分証明も、この場所では紙屑以下の価値しかないだろう。


「……ふう」


 短く息を吐き、結弦は立ち上がった。  横には、銀色の髪を風にたなびかせた美女が一人、膝をついている。第1話でのパニックが嘘のように、彼女は静かだった。ただ、その瞳には救いようのない絶望と、何かを待ち受けるような冷たい諦観が宿っている。


「君が、俺をここに呼んだのか?」


 結弦の問いに、彼女は答えない。ただ、震える指先で地平線の先を指さした。  その方向からやってくるのは、生存を根底から脅かす「死」の気配だった。


 結弦は、近くに落ちていた、硬い樹木の枝を拾い上げた。  長さは一メートル弱。重心は先端に寄りすぎており、剣と呼ぶにはあまりに拙い。それでも、体育の授業で習った剣道の「中段の構え」をとってみる。  背筋を伸ばし、重心を落とす。スポーツ万能と言われた身体能力は、確かに理想的なフォームを構築した。しかし、結弦の脳裏には冷酷な計算結果が弾き出される。


 ――無駄だ。  竹刀より重く、真剣より脆いこの枝で、何が斬れる?  剣道という「競技」で学んだ、打突部位を狙う形式美が、命を奪い合う実戦でどれほどの戦力になるというのだ。


 努力で積み上げてきた自分の現在地が、音を立てて崩れていく。  一流大学への現役合格。フットサルで培った動体視力。それらは全て「ルールのある世界」でのみ機能する優位性だった。魔法が存在し、理不尽が闊歩するこの場所において、佐藤結弦はただの無力な個体ユニットに過ぎない。


 その時。  草原の向こう側から、空間が「歪む」音が聞こえた。


 現れたのは、三つの目を持つ巨大な狼の異形だった。  体長は優に三メートルを超え、その毛並みからは黒い霧のような魔力が滲み出ている。狼は咆哮ほうこうすらしなかった。ただ、冷徹に「餌」としての結弦を定め、音もなく距離を詰めてくる。


 速い。  フットサルのトップスピードよりも、遥かに。  結弦は反射的に、左足を軸にしてバックステップを踏んだ。スポーツ万能な感覚が、辛うじて一撃目の爪を回避させる。    ――ガァッ!!


 風圧だけで、結弦の頬が切れて血が滲む。  非現実的な光景だが、痛みだけは、熱いほどに「現実」だった。  剣道の構えなど、一瞬で瓦解した。結弦は死に物狂いで枝を振り回すが、狼の硬質な毛並みを撫でるだけで、衝撃は全て自分の手首に跳ね返ってくる。


「はっ、はあ……っ!」


 喉が焼ける。  計算が成り立たない。相手の筋力、質量、移動速度。そのすべてが、結弦が二十年間信じてきた物理定数の外側にある。  必死に積み上げてきた知識も、鍛えた身体も、この異形の暴力の前では砂の城のように脆い。


 狼が、三つの瞳を細めた。  獲物の「底」が見えたという、蔑みの色。  大きく裂けた口から漏れる、腐肉を焼いたような死臭。  狼が次の一歩を踏み出す。それは、結弦の回避能力の限界を超えた、絶対的な「詰み」の速度だった。


 ゲームでも、小説でもない。  ここにあるのは、理不尽に満ちた、非現実という名の確かな現実だ。    結弦は、折れかけた枝を握り直す。  視界がスローモーションになる。死を目前にした脳が、最後のリソースを振り絞って状況を演算する。だが、どの計算ルートを辿っても、生存確率は「零」から動かない。


「……認められるかよ、こんな結末」


 結弦は、恐怖を論理で押し殺し、ただ一点を見据えた。  女神は依然として動かない。  魔獣の爪が、結弦の胸元を切り裂こうと空を裂いた、その瞬間だった。

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