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第十二話:残像の祈りと、重なる境界線

 深い眠りの中、リリアはいつも同じ鏡を見ていた。  かつて彼女が統治し、愛した世界――『エリュシオン』。そこには、群青の空の下で笑い合う人々がいた。花々は魔法の風に揺れ、命は正しく生まれ、正しく土へと還る。理は美しく、完成されていた。  だが、そのすべては、ある日突然訪れた「沈黙」によって消え去った。


 空がガラス細工のようにひび割れ、そこから零れ落ちた「虚無」が、街を、森を、そして人々を飲み込んでいく。魔獣が襲うのではない。ただ、そこにいたはずの存在が、最初から存在しなかったかのように世界から削り取られていくのだ。  リリアは女神として、その「消去」を食い止めようと両手を伸ばした。  泣き叫ぶ子供の手を握ろうとした。けれど、彼女の指先が触れる直前、その子は音もなく光の塵となって消えた。彼女の手に残ったのは、掴むべき対象を失った、冷たい空気の感触だけだった。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……」


 暗闇の中で、リリアはうなされていた。  一度滅びた世界の記憶。守れなかった何億という命の重み。彼女が禁忌を犯し、時を遡ってまで手に入れようとしたのは、救済ではない。ただの「やり直し」という名の、二度目の地獄かもしれない。  その罪悪感が、彼女の魂を常に苛んでいる。そして今、彼女の目の前には、自分が身勝手な理由で引きずり込んだ「佐藤結弦」という名の青年が、かつての人々と同じように、少しずつ世界から消えようとしている。


「……リリア。リリア、起きろ」


 温かな声と共に、肩を揺すられた。  リリアは弾かれたように目を開けた。視界に飛び込んできたのは、銀色の月光が差し込む屋敷の寝室と、心配そうに自分を覗き込む結弦の顔だった。


「あ……ゆ、結弦……さん」


「ひどくうなされていたな。悪い夢か?」


 結弦の声は、深夜の静寂に溶け込むように穏やかだった。リリアは乱れた呼吸を整えようとしたが、夢の残像――「掴もうとした手が透けて消える瞬間」の感触が、どうしても頭から離れない。  彼女は思わず、結弦の差し出した右手を、両手でひったくるように掴んだ。


「っ……!」


 結弦の右手は、月光に透けて、背後のシーツの白さをわずかに通していた。  肉体はある。骨の硬さも、皮膚の柔らかさも、脈打つ命の鼓動も、確かにそこにある。けれど、視覚が残酷に告げている。この手は、いずれ夢の中の子供たちと同じように、自分の指の間をすり抜けて消えてしまうのだと。


「……離さない。もう、絶対に、離しませんから」


 リリアの震える声に、結弦は一瞬、言葉を失った。  彼はリリアを落ち着かせるように、ゆっくりとソファへと促した。二人は並んで座り、開け放たれた窓から見えるアイゼンガルドの夜景を眺めた。


「俺を呼んだ時のこと……少し、話してくれないか」


 結弦の問いに、リリアは膝を抱え、ぽつりぽつりと語り始めた。  かつて自分が女神として君臨していたこと。しかし、世界の崩壊という数式を前に、自分がいかに無力だったか。そして、絶望の果てに世界の境界を越え、結弦という「異物」に希望を託してしまったこと。


「私は、臆病者なんです。世界が消えるのが怖くて、一人が怖くて……だから、あなたという、この世界と何の関わりもないはずの人を、無理やり生贄にした。あなたの人生を、あなたの積み上げてきた二十年間を、私のわがままのために燃やさせている……」


 リリアの頬を、涙が伝い落ちる。  彼女は、結弦が自分を憎んでいるのではないかと、ずっと思っていた。さわやかな笑顔の裏で、自分を呼び出した女神を呪っているのではないかと。


 しかし、結弦は静かに首を振った。


「リリア。俺は、君を責めたことは一度もないよ。……確かに、元の世界の日常は惜しい。サークル仲間との飲み会も、明日提出するはずだったレポートも、もう戻らないかもしれない。……でも、俺はここに来て、初めて知ったんだ」


 結弦は、自分の透け始めた右手を握りしめ、力強く言い切った。


「自分の人生を何かに使い切るっていうのが、これほどまでに清々しいものだとは、思わなかった」


「結弦……さん?」


「俺は、ずっと効率的に生きてきた。無駄を省き、最短距離で正解に辿り着くことだけを考えてきた。でも、それはどこか虚しかった。……今、俺は君の隣で、君が愛した世界を守るために、自分という『資源』を使っている。それは、俺にとって最高の自己投資なんだよ」


 結弦はソファから立ち上がり、窓辺へと歩いた。  夜風が彼の服を揺らす。


「俺の存在が消えるのは、不幸じゃない。それは、俺がこの世界に、君の記憶の中に、確実に『何か』を刻んだという証明だ。……だから、そんな悲しい顔をするな。君が泣いていると、俺の選んだ道の価値が下がってしまう」


 その言葉は、リリアにとって、どんな神の祝福よりも残酷で、そして救いに満ちていた。  彼女は立ち上がり、結弦の背中に歩み寄った。  もう、女神としての体面などどうでもよかった。  彼女は、結弦の腰に両腕を回し、その広い背中に顔を埋めた。


「……それでも、怖いです。あなたが消えるのが、怖くてたまらないんです」


「リリア……」


「あなたが自分を燃料だと言うなら、私はその灰をすべて拾い集めます。あなたが消えるその瞬間まで……いいえ、消えた後もずっと、私はあなたの存在を繋ぎ止める『器』になります。……だから、お願いです。せめて、今この時だけは……私を感じてください」


 リリアの腕に力がこもる。  結弦は、彼女の温もりと、その震えを全身で受け止めた。  彼の存在は薄くなっているが、リリアの流す涙の熱さは、驚くほど鮮明に背中を焼いている。


 結弦はゆっくりと振り返り、リリアを正面から抱きしめ返した。  銀色の髪が彼の首筋をくすぐり、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。


「……ああ、わかってる。俺はまだ、ここにいるよ。リリア」


 結弦は、彼女の耳元で囁いた。  リリアの鼓動が、自分のものと重なり合う。  二人の身体が密着するその場所だけが、この不安定な世界の中で、もっとも密度が高く、もっとも強固な「現実」だった。


 屋敷の隅で、二人の様子を伺っていたゼノビアが、ふぅ、と長い溜息を吐いて姿を消した。  空気を読んだというよりは、あまりに純粋な二人の情愛に、皮肉屋の彼女ですら言葉を失ったのかもしれない。


 月が天頂を過ぎ、夜が深まっていく。  リリアは結弦の胸に顔を埋めたまま、小さな声で、けれど決然と言った。


「結弦さん。……『無銘・現在地』を使う時は、必ず私を呼んでください。あなたが削られる瞬間に、私があなたの魂を抱きしめます。一秒でも長く、あなたが『あなた』でいられるように」


「ああ、約束する。……俺の最後の一撃まで、君に預けるよ」


 それは、死の宣告でもあれば、究極の愛の告白でもあった。  失われゆく存在を、たった一人の記憶に刻みつけるための契約。


 アイゼンガルドの静寂の中で、二人はいつまでも寄り添い合っていた。  これから先、さらに過酷な戦いが待ち受けているだろう。  結弦の肉体はさらに透け、リリアの心はさらに引き裂かれるかもしれない。  けれど、今この瞬間の温もりがある限り、佐藤結弦はどこへも消えない。


 存在の消失は、もはや恐怖ではなかった。  それは、一人の女神を救い、世界を書き換えるための、光り輝く代償なのだから。


 窓の外、群青の空には、結弦の瞳と同じ色の星が一つ、強く、強く瞬いていた。

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