第十話:地下の試練と、歪みの核心
地下へと続く階段は、冷たい湿気ではなく、神経を逆なでするような「静電気」の気配に満ちていた。 結弦が踏み出す一歩ごとに、石造りの壁が波打ち、数式や幾何学模様が浮かび上がっては消えていく。それは、肉体を捨ててなお消えなかったゼノビアの執念が、この地下空間を独自の法則で上書きしてしまった結果だった。
「気をつけて、坊や。ここから先は、私が生前解けなかった『未解決問題』が物理的な罠になって襲ってくるわよ」
空中に浮かぶゼノビアが、面白がるように忠告する。 リリアは結弦の背中に寄り添うように歩き、その手には祈るような光が宿っていた。彼女の女神としての力が、結弦の周囲の空間がこれ以上歪まないよう、必死に「固定」しようとしているのだ。
やがて辿り着いたのは、天井の見えない広大な円形ホールだった。 ホールの中心には、脈動する巨大な結晶――『空間定着石』が鎮座している。だが、その周囲を護るように、幾重にも重なる「重力の断層」が渦巻いていた。
「……あれが素材か。どう見ても、普通に歩いて取りに行ける場所じゃないな」
「ええ。あれに触れるには、この空間の『歪みのリズム』を読み切る必要があるわ。失敗すれば、あなたの身体は座標を失って、バラバラの次元に放り出される」
結弦は、その光景を冷徹な目で見つめた。 重力の断層は、一見ランダムに動いているようでいて、微かな周期性を持っていた。かつてフットサルのコートで、敵味方全員の動きを俯瞰して「穴」を見つけた時と同じ感覚。あるいは、物理の難問を前に、複雑な事象を一本の簡潔な式へと集約していくあの高揚感。
「リリア。君の力で、俺が踏み込む瞬間の『地面』だけをコンマ数秒間、固定できるか?」
「え、ええ……。一瞬だけなら。でも、そんな針の穴を通すようなタイミング……」
「君ならできる。俺を信じてくれ」
結弦は、腰の杖を強く握りしめた。 彼は深く息を吐き、思考のノイズを削ぎ落とす。 右足が地を蹴った。 瞬間、ホールの重力が反転し、結弦の身体を横へと叩きつけようとする。 「今だ、リリア!」
「――っ! 固定!!」
リリアの放った光が、空中の一点に透明な足場を作り出す。結弦はその「見えない床」を、スポーツ万能なバランス感覚で捉え、さらに上方へと跳躍した。 頭上から降り注ぐ重力の刃。彼はそれを、わずか数センチの差で回避する。身体が軽くなっていることが、ここでは皮肉にもプラスに働いていた。慣性を無視したような、物理限界を超えた空中機動。
「……信じられない。あんな不規則な加速の中で、自分の重心をコントロールし続けるなんて。やっぱりあんた、ただの人間じゃないわね」
ゼノビアが感嘆の声を漏らす。 だが、試練は終わらない。 結晶まであと数メートルというところで、空間そのものが「悲鳴」を上げた。 ゼノビアの生前の後悔――「世界を救えなかった」という絶望が具現化した、巨大な影の触手が、結弦を飲み込もうと迫る。それは物理的な攻撃ではない。触れた者の「存在価値」を否定し、虚無へと引きずり込む精神的な侵食。
「結弦、危ない!!」
リリアの声が響く。 結弦の脳裏に、不意に元の世界の記憶がフラッシュバックした。 ――お前、そんなに勉強して何になるんだよ。 ――そんなに努力したって、結局、世界が変わるわけじゃないだろ。
誰の言葉かも分からない、けれど自分を繋ぎ止めていた「努力の意味」を否定する声。 結弦の足が止まりかけ、その輪郭が急速に透け始める。存在の消失が、心の隙間から加速していく。
「……意味なんて、最初から求めてない」
結弦は、低く、けれど確固たる声で呟いた。 彼は、迫りくる虚無の触手を見据え、右手に宿る群青の光を解き放った。 「一撃」を放つのではない。その一歩手前――自分の存在を「燃焼」させるエネルギーを、そのまま意志の壁として展開したのだ。
「俺が積み上げてきた二十年間が、無意味だったかどうかは……俺が決める。……この世界をハックするって決めた瞬間に、俺の価値は確定したんだ!」
群青の光が虚無を焼き払い、結弦は最後の一歩を踏み出した。 伸ばした右手が、脈動する結晶に触れる。
カァァァァァァァン!!
ホール全体を、清浄な音が支配した。 歪んでいた重力は霧散し、幾何学模様の壁は静かな石造りに戻っていく。 結弦の手の中には、掌に収まるほどの、白銀に輝く小さな石――『空間定着石』が握られていた。
「はっ……はあ、はあ……っ」
結弦はその場に崩れ落ちた。 右手の感覚が、先ほどまでよりもさらに薄い。 視線を落とすと、着ていたシャツの袖が、彼の腕を透過して地面が透けて見えるほどになっていた。
「結弦! ああ、なんて無茶を……!」
リリアが駆け寄り、彼を強く抱きしめる。 その体温だけが、今の彼がまだ「人間」であることを証明していた。
「……ふふ。合格よ、坊や。私の執念を、純粋な『意志』だけでねじ伏せるなんてね」
ゼノビアが、いつになく真剣な表情で結弦の前に降り立った。 彼女は結弦が手にした結晶を指差し、優しく、けれど重みのある声で告げる。
「これで、素材は揃ったわ。……これを使えば、あなたの『消失』を外装として固定し、一撃の威力を武器に乗せることができる。……あなたの存在を切り売りするのではなく、世界そのものからエネルギーを奪って戦うための、呪われた、けれど最強の『器』。……覚悟はいい?」
結弦は、リリアの腕の中で少しだけ呼吸を整え、微笑んだ。 「……ああ。準備は、ずっと前からできている」
地下の暗闇の中。 手に入れた白銀の輝きと、結弦の瞳の群青が共鳴するように光り輝く。 佐藤結弦の「人生」を対価にした戦いは、ここから、その「存在」を守りながら戦うための新たなステージへと移る。
拠点の最深部で、異邦人と女神、そして賢者の手によって、運命を切り拓くための「一撃の器」が錬成されようとしていた。




