第一話:アルコールと空間のひずみ
計算外だった。 大学のサークル仲間との飲み会。――佐藤結弦は、常に自分のキャパシティを論理的に把握しているつもりだった。アルコール度数、摂取量、そしてそれに対する血中濃度。スポーツ万能で鳴らした俺の肝臓は、平均的な学生よりも効率よく毒素を分解してくれるはずだった。
「おーい、結弦! 本当に一人で大丈夫かよ?」 「ああ、問題ない。この程度の歩行なら、平衡感覚を維持するのに支障はないよ」
駅前の喧騒の中、友人たちの心配を爽やかな笑顔でかわし、俺は一人で歩き出した。夜風が火照った頬を叩く。確かに、少し飲みすぎたかもしれない。視界の端が、まるで古いモニターのノイズのようにチカチカと点滅していた。
――いや、これは酒のせいか?
歩道を進むにつれ、違和感は強固な確信へと変わっていく。 街灯の光が、あり得ない角度で屈折している。アスファルトの地面は、踏みしめるたびにスポンジのように沈み込み、視界に入る電柱はぐにゃりと波打って、まるで水中にいるような錯覚を覚えた。
「くっ……あ、たまが……」
突如、頭蓋骨の芯を直接ドリルで抉られるような激痛が走った。二日酔いの鈍痛などという生易しいものではない。脳内のニューロンが一本一本焼き切れるような、物理的な破壊を伴う痛みだ。
視界がホワイトアウトする。 空間が、ジグザグにひび割れていた。 進学校で培った物理の知識が、目の前の光景を全否定する。空間が「割れる」など、三次元的な事象ではあり得ない。だが、現実に俺の指先は、その空間の亀裂に飲み込まれ始めていた。
「……。一旦、安静にして……脳を休めるべきだ……」
極限の痛みに思考がショートしかけながらも、俺はスポーツで鍛えた反射神経を使い、倒れる際の衝撃を最小限に抑えるべく、路地裏の植え込みへと倒れ込んだ。 意識が遠のく直前。 パキィィィィィィィッ! という、世界そのものが破砕されるような絶大な音が鳴り響いた。
その瞬間、暗闇の中で「何か」が俺の体に激突した。 柔らかく、温かい、そしてひどく震えている何か。 それが、溺れる者が藁をも掴むような必死さで、俺の首筋に、胸元に、全力でしがみついてくるのを感じた。
『……つ、捕まえた……っ! 離さない、絶対に離さないからぁっ!』
誰かの、泣きそうな叫び声が聞こえた気がした。
次に目を開けたとき、俺を襲ったのは強烈な陽光だった。
「……っ……」
二日酔いの頭痛は、嘘のように消えていた。 だが、代わりにあるのは「圧倒的な拘束感」だ。 身動きが取れない。重い。何かが俺の全身に巻き付いている。
ゆっくりと視界を整理する。 まず、目に飛び込んできたのは、地面だった。アスファルトでも、公園の芝生でもない。見たこともないほど鮮やかな、深い青色をした草の絨毯。 顔を上げれば、そこには地平線まで続く広大な草原と、雲一つない、突き抜けるような群青の空があった。
「ここは……どこだ? 公園の植え込みにしては、スケールが逸脱しすぎている……」
そして、最も「計算外」な事象は、俺の腕の中にあった。
「……おい」
声をかけても、反応はない。 俺の胸板に顔を埋め、服の生地が引きちぎれんばかりの力でしがみついている女性がいた。 透き通るような銀色の髪が、俺の首元にくすぐったくかかる。彼女の肌は雪のように白く、身にまとっているのは、まるで光を織り込んだかのような見たこともないほど美しい薄絹のドレスだ。
彼女はガタガタと小刻みに震えていた。 その必死さは、異常だった。まるで、一瞬でも手を離せば、自分がこの世から消えてしまうのを恐れているかのように。
「あの、すみません。どいていただけますか。……というか、君は誰だ?」
問いかけに対する返答はない。 ただ、彼女がさらに力を込めて俺に抱きついてくるだけだ。密着しているせいで、彼女の心臓の鼓動が、自分の鼓動と共鳴するように伝わってくる。
俺は周囲を見渡した。
遠くには、日本の植物図鑑には載っていないであろう、巨大な浮遊する岩のような樹木が見える。 風に乗って運ばれてくるのは、アルコールの残り香ではなく、未知の生命力が溢れる異世界の匂い。
状況を整理しよう。
一、俺は飲み会帰りに、おそらく空間異常に巻き込まれた。
二、ここは日本、あるいは地球ですらない可能性が極めて高い。
三、そして目の前には、言葉を拒絶し、全力で俺に密着し続ける「自称女神女性」がいる。
「……なるほど。全然わからん」
俺はため息をつき、まだ力の入らない手で、しがみついてくる彼女の背中を、おそるおそる叩いた。 特殊能力もなければ、手元にあるのは体育の授業で習った程度の剣道の知識と、この動かない身体、そして密着したままの謎の美女一人。
佐藤結弦の異世界生活は、論理的な予測を一切許さない形で幕を開けた。




