第32話:生まれた息子たち
「領内のことは蹴りが付いた。
貨幣についても少しずつ、普及に向けて進んどる。
あとは、もっと中央集権化を進めようかの。」
俺は、織田家の中央集権化に向けて動き出した。
その頃、娼婦たちの子供や孤児たちはどんどん数が増えていた。
この子供達は、新たに建設された織田学校へと入り、そこで軍事・内政・科学知識・礼儀作法など、さまざまなことを教えられることとなる。
が、今はまだ、織田が面倒を見ている子供が増えている、というだけであり、中央集権化のための下準備だけが進んでいた。
なお、俺が若い頃から面倒を見ていた孤児たちは、赤母衣衆・黒母衣衆という二大母衣衆の中核となり、俺の手足として俺のために各地で働いていた。
彼らには、多額の給与が織田布幣で支払われることとなり、織田家傘下の商家では織田布幣の使用が認められていた。
布幣の裏付けは高級石鹸であり、領内では一個500文の価格で販売されており、領外ではその10倍の価格で輸出もされていた。
布幣が発行された際には、この差額で稼ごうとするものも領内に出たが、全て尾張国境の関所で止められ、織田家からの認印のない石鹸の国外販売は規制された。
尾張の街道整備は街道の集中化という部分でも進み、整備された街道以外を地元民以外が歩くだけで警戒されるようになっていった。
また、街道の名前に、織田家の者の名がつくこともで出てきた。
那古野から三河岡崎城まで伸びる街道は『信長街道』
那古野から清州、西本郷城まで伸びる街道は『信秀街道』である。
街道名に諱が付けられているが、これは信長の改革の一部でもある。
頻繁に変わる名前を廃止、苗字と諱で呼び合うことを若い頃から少しずつ広めていった結果だ。
その最終段階がこの街道名の名付けである。
領内の国人衆はこれに対し意を唱えるものが続出したが、織田家ではこれを無視。
適当な因縁をつけられ、尾張東部の国人衆は徐々に領地が削られていくこととなる。
また、長島や桑名方面に向かう街道は『千秋街道』
那古野から犬山城方面に至る街道が『恒興街道』
那古野から常滑を経由して羽豆岬へと至る街道が『水野街道』
羽豆岬から安祥城・岡崎法雨面へと至る街道が『佐治街道』である。
このようにして、各所に織田の有力武将たちの名が、街道名として残ることになる。
諱が街道名に含まれているものと苗字が街道名になっているものとの違いがあるが、これは、本人たちがそれを認めたか否かの違いである。
これらの主要街道には浪曼・混凝土が使用され、街道では馬車の配備も行われた。
そのため、流通速度と流通量の圧倒的な進歩がみられることとなった。
また、それらの馬車には竹輪と呼ばれる、タイヤの普及も始まり、
領内の移動に、馬車の定期便運用といったことも始まった。
この定期便馬車について、最初期は流通量の多い主要街道のみに絞られたが、次第に市民からの要求が強まり、それ以外の側道でも道整備と運用が行われることとなる。
「ふぅ・・、これで安泰じゃの・・。」
俺は、領内政治の安定化が進み、経済の上向きも相まって、久々に那古野城でゆったりとした時を過ごしていた。
「そうなのですか・・?よろしかったですね。」
「毎日毎日、働きすぎだと思います。もっと休んでください。」
家でゆっくりしていると、2人の嫁が俺を労ってくれた。
千秋家の瑞樹と、水野家の梓だ。
2人の年齢も適齢期を超え、体も出来てきたしそろそろ子供を作る時期かもしれない。
「そろそろ、子でも作るか?これまでは未だ体ができておらんかったが、今となってはもう大丈夫じゃろう」
と、俺は2人に告げる。
「本当ですか!嬉しいです!」「私も、私もですよね?」
俺は2人に詰め寄られ少しのけぞったが、すぐに諾と返答し、そのまま三人で寝屋へと消えた。
それから半年後には、2人の腹が膨らみ、妊娠が明らかになった。
・・・・・・・・・・
天文20年(1551年)
史実通りなら、今年は信秀が亡くなる年だ。
しかしそのような様子もない。
俺は直接清州城まで見にいって、それを確認してきた。
「大丈夫そうだの。」
「あ?どうした?急に来てよ。」
「いや、親父に会いたくなっての」
まさか、死んだかどうかの確認に来たともいえず、適当な言葉で誤魔化した。
親孝行というわけでもないが、親父には満足して逝ってもらいたいからな。
史実のようなタイミングでの死は望んでもいないし。
「なんだよ気持ち悪ぃ・・」
口では少し不快そうに言いつつも、顔は微笑んでいるので内心がバレバレだ。それに突っ込むつもりもないが。
結局、その日はそのまま2人で無言のまま過ごした。
あと、帰りに一言「あ、そうそう、瑞樹と梓が孕んだ。来年には生まれるからよろしくのー」とだけ告げて帰った。
後ろで、「え?孕んだ?おいちょっと待て!孫か!孫が生まれるのか?早く言えよ!!」とか騒いでいたが無視した。
信広兄貴の子供もいるから初孫でもないしな。
・・・・・・・・・・
天文21年(1552年)六月
ついに俺の子が生まれた!
名前は、
瑞樹の子供には男だったので『吉法師』
梓の子供には男だったので『千水丸』
と名付けた。
千秋の千と水野の水を取り入れ、お互いを結ぶような子になれ、という意味を込めた。
将来的には、信忠と信元でいいかな?と思ってる。ややこしいかな?まぁ、それはその時にでも決めよう。
別段、この子に水野の家を乗っ取らせるつもりもないし、それを警戒されるようなら変えてしまってもいいのだ。
ただ、この子には、織田水軍の頭になってもらうつもりではある。
水野信元には、その点をいい含める必要もあるな。
「可成、恒興。少しこちらに来い」
「はっ」「なんでしょう、信長様」
「お主らには、それぞれこの子らの傅役を任せる。
恒興が、吉法師。
可成が、千水丸じゃ。5年ほど・・・、しばらくのうちはまだ幼いゆえに名目だけのものじゃが、6を超えれば本格的にこの子らの傅役として活動してもらうつりじゃ。良いな?」
「え・・・、誠ですか?!し、しかし、林殿や平手殿、青山殿とておりまする。某が傅役というのは、流石に出しゃばりとなるではありませぬか?」
「わ、私もです。私とて未だ21。流石に早過ぎまする。他の方々からの咎めがきまするぞ!」
彼らは、そう言って慌てたが、俺はこれを変えるつもりはない。
また、これに反対する者も少数だろうと考えている。
「問題ない。何か言う者があれば直ぐ様わしに伝えい。絶対にお主らだけで対処するでないぞ?傅役となるのだ。お主らへの批判がこの子らへの批判にも繋がるのじゃ!それをお主らだけで対処するということは織田に仇なす者を野放しにすることでもあるのじゃからの!」
俺がそう伝えると、彼らも、納得はできずとも意見を翻すことはできそうにないと諦めたのか、
「「・・・はっ!畏まりました。傅役、お受けいたしまする」」
と、就任に承諾した。
そうして、正式に、
千水丸の傅役には、森可成。
吉法師の傅役には、池田恒興が就くことになった。
老家臣から就けなかったのには、俺の教育が行き渡らない可能性を考えたからである。
平手や林のようなものたちを傅役としてつけても悪くはなかったのだが、これからのことを考えると、この子らには、もっと俺の持つ知識を分け与えておく必要があるだろうと考えた次第だ。
それと今の所、尾張と他国間で紛争を抱えているわけでもないし、恒興と可成も次第に手が空いていくだろうと考えたからでもある。
恒興と可成には、将来的に傅役としての役目を優先するようにと伝えた。
また、「今の仕事に関しては、代役となるものを5年以内に立てられるように準備せよ。」とも言ってある。
可成は護衛頭。
恒興は小姓頭(秘書)だったが、それも次第に置き換わるだろう。
護衛頭には、前田利家。
小姓頭の方には、高市長恒だ。長恒は、孤児出身の赤母衣衆の一人だな。
彼の名前は俺が付けたものだ。名前の長の字は俺のものだし恒は恒興から取った。
高市の苗字は、俺の前世で“日本中興の祖“とも言われた女性総理大臣からとった。こいつにそう伝えたところで分からないだろうから、拾った場所からとったと言っているがな。
まだまだコイツらも経験不足で物足りない部分は多いが、それも引き継ぎの5年間でなんとかしてくれるだろう。
可成にも恒興にも、「お互い協力し合って取り組め」と伝えているし、俺自身もこの子たちの教育には積極的に参加する。
だから、心配する必要はないんだが・・・
そうは言っても責任感の強いコイツらだ。間違いなく思い悩むだろう。
しかし、そうした責任感の強さこそ、この子達には見習ってほしい。
(だから、任せたぞ?2人とも。)
俺は、心のうちで、彼らにそう伝えながら、その場を後にした。




